真夜中に沈んでいく・2

 ガツンと頭を殴られたような、心臓が鉛になったような、全身の血液が滞って冷めてしまったような。その衝撃は九条の体内を駆け巡り、思考を停止させた。


赤井がそんなふうに考えていたなんて知らなかった。生きることに絶望しているだとか、死を見つめていることとか、吸血鬼でいることが嫌だったとか。本当に、本当に九条は知らなかった。まったく、気が付かなかった。

愚鈍だと、罵る。なんて愚かなんだ。ただただ死にかけていた命を助けてくれた恩人だと思っていた。孤独に身を投じたばかりの九条と出会った同じく孤独な友達だと思っていた。面倒見が良くて優しい赤井しか見ていなかった。彼女のいいところを、ただ良いように見ていただけだった。


思い返せば、その節はあった。ときどき彼女がする暗い表情、悲し気にする瞳。覇気などない吸血鬼の有様。そして吸血をあまり喜んでいなかった。その姿を見て、見なかったことにしていた。阿呆だ。とんだ間抜けだ。


「赤井は死にたいのか……?」


乾いた唇がかたまっていて、うまく話すことができなかったかもしれない。小さな声で、九条は恐る恐るダンにうかがってみた。そうした九条の動揺を知ってか知らずか、ダンの口ははっきりと宣告するのだ。


「そうだ。彼女はずっと死にたがっていた」


――どうして気付くことができなかったのだろうか。

九条の内に広がるのは後悔ばかりだった。ずぶずぶと海底に沈んでいくような重りが圧し掛かる。ぐらりと視界が大きく揺れて、九条は床に倒れてしまった。眩暈だった。


「だ、大丈夫!?」


高蔵寺があわてて九条の手を取り、床にうつぶせる九条の上半身を膝に乗せた。九条の顔色は真っ青だ。もともと血の気なんてないのだが、それでもあからさまに血の気が引いていたのだ。高蔵寺だけでなく、一頭の狼も心配して九条に寄ってきて、顔を舐めている。


「動揺しただけだ……。大丈夫」

「本当に大丈夫なら倒れたりしないわよ。ソファに座って、安静にして」


ゆらりと起き上がった九条をゆっくりとソファに誘導し、座らせる。浅い呼吸を繰り返して九条は平静を取り戻そうとしていた。

記憶にある赤井が崩れていってしまう。認識していた赤井に誤りがある。それはあまりにも現実と乖離していた。九条は両手で顔を覆って静かにうつぶせた。


「用件は済んだな。それじゃあ、俺はこれで帰らせてもらう」

「待て、ダン。聞きたいことがある」

「なんだ」


帰ろうと立ち上がるダンを九条が引き留めた。腰に手を添えた状態でダンが九条に答える。


「どうしてお前は赤井のことをそんなに知っているんだ」

「そのことか」


眉間にしわを寄せて首を傾げる。ダンはその質問に少し困っているようだ。少しだけ唸って、返答を悩む。


「少々の縁があって、半世紀前に聞いた。半世紀以上も死を願うのはさぞ辛いだろうな」

「半世紀前……?」


九条はあらためてダンを頭の先からつま先まで眺めた。

少し長めの銀髪ははらはらと稀に外を向き、右の長い前髪からのぞくのは痛々しい眼帯。左の瞳は爽やかな緑色。石造のような端正な容姿は気取ることはない。黒い皮手袋をし、派手さのまったくない紳士的な服装をした青年。ダミアン・ルースの容姿は老体ではない。五十年以上も生きているようには見えない。むしろ九条やロルフと年齢が近そうだ。


「不老が吸血鬼の特権ではないということだ。べつに珍しくもないだろう。怪異や魔術の世界じゃゴロゴロいるぞ」


ずっと日本に暮らしていて九条と高蔵寺は知らないが、ダンの言うような不老の人間はそうそういない。そもそも人間ではない人外はともかく、魔術師や錬金術師はあくまで人間だ。人間が本来の寿命以上に長寿になるということは並みの事柄ではない。不老がゴロゴロいるわけがないのだ。だからダンの言うことには語弊がある。不老は珍しいし、怪異だろうと魔術だろうといるのはごく少数だ。

それを知らない九条と高蔵寺は疑いなく納得してしまっているが、ロルフは少々呆れて「……そんなわけない……」などと小さく否定して首を振っていた。


「それでは今度こそ帰らせていただく。今日は突然の訪問で申し訳なかった」

「いいのよ。有意義な時間でしたわ」


ダンが深々と頭を下げ、高蔵寺はそれにこたえる。高蔵寺とロルフはダンを玄関まで送っていくが、九条は太陽が苦手なため、後片付けを担当した。ダンが使用した食器を流し台まで運び、それを洗う。片づけを済ませ、居間にもどったところで見送りが終わった高蔵寺とロルフも戻ってきた。ソファで眠りにつこうとしていた九条を叩き起こす。休もうかと思っていたのにソファの端に追いやられた九条は無言で眉間にしわをよせた。


「ニュースみるんだって」

「は? ニュース?」


ロルフがリモコンを探し当てる。テレビを点けると、画面には報道番組が映された。ちょうどそこにはとある殺人事件が報道されていた。

奇怪な事件が昨夜のうちに起きたそうだ。その事件は九条たちの暮らす町で起きたそうだ。のどかで平穏な田舎町で、一人の男性が死んだらしい。それがただの殺人事件ならばニュースで紹介されるほどではないだろう。が、彼の死因が奇妙なのだ。

遺体に一滴の血も残っていないのだという。


「これって……」


小さく、高蔵寺が呟いた。九条以外の吸血鬼がこの町に潜伏している。心当たりは一人しかいない。

すぐに高蔵寺の携帯電話が鳴った。その奇妙な事件のニュースを、もう一人の退魔師である古山青助が見ていたようで、どうやら電話も彼からのようだった。高蔵寺は出てすぐにダンへ口を滑らせたことについて怒っていた。


「赤井が吸血したんだろうな」

「ってことは、もう回復してる……」

「そうなるな。二、三日は治らないくらいの怪我を負わせたはずだったんだが、この様子じゃもう完治してるだろう」


犯人は考えるまでもない。怪我を負った赤井が治癒を目的に吸血したのだろう。


「ここからちかい?」

「近いな。事件現場まで歩ける距離だ」

「まだ匂いが残ってるかもしれない。そしたら赤井とハンターのいるところがわかるかも」

「……いますぐ?」

「うん」


さて。時刻は正午を過ぎている。吸血鬼の九条にとってもっとも出歩きたくない時間帯だ。九条の表情が明るくないことを見て取ったロルフは少しだけ困ったように眉を下げた。


「なら、俺と高蔵寺で行く」

「やる気だな」

「ハンターを殺したい」


めずらしく、ロルフの目に力が入った。瞳の内に湧き上がるのは憎悪か。殺意は明確。ギラギラと光る目はまさに獣だ。


「そうか」


これに九条は触れなかった。怒れる獣に触れたところで噛みつかれるだけだ。それにロルフのその感情を九条は否定できない。九条は赤井とともにハンターに追われた経験があるのだ。その逃亡劇は決して楽ではなかった。


「お酒が入っていたからって、口を滑らせるのはどうかと思うわ。首を洗って待ってなさい! 吸血鬼の一件が片付いたら覚悟することね。あー、あー、言い訳も罪滅ぼしもいらないわ。吸血鬼の件は私が片付けるし、あなたは念入りに殺される準備でもしていることね!」


ふんっ。高蔵寺は携帯電話を切って、ソファに投げた。跳ねて落ちそうになるそれをロルフがすかさず受け止める。少々荒々しいが、正当だ。


「高蔵寺、散歩いこう」


ロルフは高蔵寺の腕を引っ張った。彼女の怒りを鎮めたいのだろう。その散歩の先は事件現場となるわけだが、高蔵寺も頭を冷やしたいのかロルフの誘う散歩に大人しく腕を引かれる。


「まるで飼い犬だな」


主人を散歩へ誘う犬の様子に九条がぽつりと溢した。


「ちょっと、こらっ、ロルフ! 力が強いわ。……もう。家の結界を強くするから少し待って」


命を狙われている九条が一人だけ家に残るのだ。ハンターのロランスが襲撃しない可能性がないわけではない。その対策はしておかなくては。最後に言霊を吹きかけて高蔵寺とロルフは散歩に出かけた。

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