吸血鬼との再会・5

「家の鍵を持ってきている。たぶん使えるはずだ」


パーカーのポケットから取り出したのは銀色の鍵だ。とくにこれといった特徴はない。どこにでもあるごく普通の鍵。テープを跨ぎ、看板を押しのけて鍵穴にそれを挿した。鍵穴から抵抗はない。鍵を伝った感覚は、九条の手によく馴染んでいたものだった。重たい鍵をゆっくりと回す。手から肩にかけて、そして全身に力がはいってしまい、不思議とうまく回らない。手汗で鍵が滑った。もう一度持ち直して鍵を回す。ガチャリと音が鳴って、はじめて九条は意識を戻した。頭が呆然としていてうまく働かなかった。


「……、大丈夫?」


高蔵寺が九条の表情を覗き見た。顔面蒼白の九条が小さく「大丈夫」と上っ面に答えるが、どう考えても大丈夫であるように思えない。


「私とロルフで確認するから、あなたは休んでいていいのよ」

「俺は大丈夫だから」

「そう見えないわ。いつも以上に顔が青いもの」

「姉貴から逃げたくないんだ」

「でも、本当に辛そうで……」

「大丈夫」


自分に言い聞かせるように、また呟いた。逃げたくないと決意をしたのだ。このように苦痛を感じるのは承知の上だった。九条は鍵を引き抜き、ゆっくりと扉を開ける。昼間だというのに中は暗かった。それもそうだろう。窓はしっかりと閉じられ、光の入る隙などなかったのだから。久しぶりに日の光が家の中に入り込む。薄く埃が積もった下駄箱の上には枯れた花が花瓶の中で横たわっていた。玄関には律義にも姉の靴が並んでおり、その隅には九条の靴もあった。


「血……、血のにおい。する」


ずっと後ろに控えていたロルフが九条と高蔵寺の前に出てきた。そのまま家の中にあがる。ロルフの後ろを九条が続くと、取り残された高蔵寺が慌てて両手をわなわなと振った。


「ちょ、ちょっと、あなたたちはいいけど、灯りがないと私は何も見えないわ。あっ、待って待って!」


玄関が完全に閉じてしまう前に高蔵寺は慌てて九条を捕まえると、そのまま腕を掴んで離さなかった。どんな障害物があるか分からないので高蔵寺はピッタリと九条に引っ付いている。あまり近いと歩きにくい、と文句を言ったが効果はまったくない。

家の中の配置はほとんど変化なかった。玄関を過ぎてすぐは居間だ。そのまま隔たりなく台所に繋がる。テーブルの上には去年の新聞が置いてあった。壁にかかっているカレンダーも同じだ。その生々しい数字が九条の頭に叩きつけられる。その日まで姉は一人で家にいたのだろう。九条の帰りを待っていただろう。九条の姉、九条沙夜は変わった体質ではあったが、それでも罪を犯したことがない善良で純粋なただの人間だった。誰かに殺される道理はない。優しい人だった。


「こっち」


立ち止まっている九条を振り返ってロルフが待っている。


「わかってる」


背中を向けて、九条は進んだ。ロルフが行く先は二階だ。階段を昇るにつれて、なんとなく九条の鼻も血の匂いを嗅いでいた。九条の予測通り、ロルフはまっすぐ姉の部屋の前に立つ。開けていいか、と九条に聞く。当然だ。

ドアを開けると埃がふわりと舞った。ロルフはくしゃみをし、高蔵寺は手で口と鼻を覆った。あわてて九条も高蔵寺と同じように覆う。

整理された部屋はやはりこちらも埃に覆われていた。読みかけの雑誌や開けていないお菓子がテーブルの上に乗っている。壁に沿って配置された本棚の中には漫画だったり、参考書だったりが入っている。その本棚の上には九条の家族四人がうつった写真が飾ってあった。ぶっきらぼうな九条を笑った和やかな写真だ。そしてさらに奥にはベッドがあった。ロルフはそこを指している。そこから血の匂いがするのだろう。それは九条も確認できた。


「なにか、この部屋に変化はある?」


部屋の中を見てみるが、なにも変化はない。変わったところも気にかかるところもない。それは姉が抵抗をしていないことを指す。吸血鬼はよく人間の寝こみを襲うため赤井がやったというのなら結果はこうなるだろう。しかし、九条は疑問が残る。血の匂いが薄すぎるのではないか、と。この部屋に入ってなお、九条は血の匂いをうまく嗅ぎつけられないのだ。


「もしかして赤井は姉貴を吸血した?」

「どういうこと?」

「おかしい。吸血鬼が好んで同性の血を飲むなんて」


吸血したのであれば血が漏れることはほぼない。血の匂いが残っていないということはこれで説明が付く。

高蔵寺はわからないと首を傾げるが九条は考え事に耽ってしまい、答えてはくれない。


「吸血鬼は同性の血をのまないんだ」

「どうして? 血なんて一緒じゃないの?」

「俺も、よく……わかんないけど。なんか、ちがう性別の血じゃないと栄養がとれないんだって」

「そうなの?」

「そうらしい」


二人の目線を感じた九条は眉間にしわを寄せた。


「なんだよ」

「べつになんでもないわ。意外と難しいのね」

「はあ」

「九条はなにか気になることが見つかったの?」

「ああ。吸血のことで。赤井が同性の血を飲む理由が分からない。『殺すために殺した』って赤井は言っていた。それなら吸血する意味がわからない」

「その赤井さんが同性を吸血した理由があるのでしょう」

「本当に理解できないんだ。吸血鬼が同性の血を飲むってことは、人間でいう泥水を飲むことに等しい」

「それは……なかなかね」


普段の生活で泥水を飲むことはありえない。それを聞いた高蔵寺も同じく頭を悩ませる。一方のロルフは相変わらず部屋の匂いを嗅いでいた。それからしばらく考え込んでいたが、いくら考えていても答えがでることはなく、また新しく気になることが出てくるわけではなかった。


「あ」


ベッドの近くで血の匂いを嗅いでいたロルフは顔をあげて九条と高蔵寺に寄ってきた。長身のロルフは二人を抱き寄せるように――きっと本人はしがみつく仕種のつもり――してなにやら彼の母国語で呟いていた。


「ど、どうしたのよ」

「だれか、近づいてきてる……」

「誰か? この家にか? ただの通りすがりとかじゃないのか?」

「ちがう。ちゃんとこの家に」

「警察が調査しに来たのかもしれないわ。よくわからないけど、事件の調査とかに来たんじゃないかしら」

「じゃあ、俺たちがここにいるのは、まずい?」

「そうだな」

「脱出するわよ」


物音をたてず静かに、迅速に。一階にある裏口を目指す。裏口は玄関の反対側で、階段はそれらの中間地点にある。玄関の開く音がした。同時に裏口を開錠。足音が迫る。九条とロルフが先に出た。足音はすぐそこだ。かろうじて一枚のドアが九条たちと何者かを隔てている。「あれ?」と異変を感じた声がドアの向こうからした。少年のような声だ。


「『私たちがこの家にいた痕跡はすべて抹消しなさい』」


刹那の差で高蔵寺が九条の家に言葉を落とした。それを最後に、ぱたんと裏口が閉められる。

九条は家を振り返ることはなかった。そのまま三人は高蔵寺の家に戻ることになった。しかしスッキリしない。疑問が残った。


なぜ赤井が九条の姉である九条沙夜を吸血したのか、だ。


それは意味のない行動だ。食い物にもならないものを喉に流しても得などない。殺すために殺したのならばなおのこと。それに、赤井が九条を殺す理由をまだ知らない。それは九条の姉を殺しした理由もしかりである。はじめから大人しく殺されるつもりなどないが、それでも知らずに相対するわけにはいかない。九条にはそれを知る権利がある。知らなければならない。


「あら。お客さんかしら?」


高蔵寺の家の前に、一人の男が立っていた。ちょうどインターフォンを押そうとしているようで、右手を持ち上げていた。

すこし長めの銀髪と遠目でもわかる堀りの深い顔。紫に近い黒のコートを羽織り、黒い皮手袋をしている男だ。明らかに異国の人間だ。高蔵寺は彼に近づきながら「どうしましたの? なにか御用ですか?」と話しかけた。すると男はこちらを向く。彼の左側からしか見ていなかったため分からなかったが、どうやら右目を負傷しているようで眼帯をしていた。


「貴女がミス高蔵寺か?」


黄緑の瞳がまっすぐ高蔵寺を捉えた後、背後にいる九条とロルフも確認する。そして一目で。


「吸血鬼と人狼か」


と正体を見抜いた。


九条はすぐに警戒した。彼がロルフたちの言っていたハンターだろうか。ハンターは欧米に拠点を構える組織の一員。とうぜん、そのほとんどが欧米出身の人間だ。この異国の男がハンターの可能性は十分にある。たった一目で正体を見抜くなどただものではない。そうでないにしても、油断ならない相手であるのは確実だろう。まだ昼間であるが、ロルフと共闘すればエスケープすることくらいはできるだろうと思う。


「白昼堂々と人外が出歩くのは珍しいな。ミス高蔵寺は友を選んだ方がいい」

「あらあら。忠告ありがとう。でも私の付き合いに口を出される覚えはないわ」

「いいや。今のは皮肉じゃない。申し訳ない」


ふかぶかと彼は高蔵寺に頭を下げて謝罪するが、その言動はどこか芝居がかっている。


「私の方こそすこし言い方を考えるべきでしたね。ところで、用件はなんでしょう?」

「ああ、そうだった」


男は九条を気にしている様子で、高蔵寺から一瞬だけ視線を外して九条を見た。九条は彼を睨み返して警戒心を浮き彫りにする。


「話が長くなってしまう。立ち話ではなく座って話をしたい」

「わかりましたわ。ご迷惑でなければうちへ上がってください」

「ではそうしよう」


九条は高蔵寺を止めようとしたが、彼女に振り払われてしまった。明らかに怪しい男を家に招き入れることには反対だが、この家主は高蔵寺だ。九条には強く止めることができない。九条は終始、敵意を男に向けながら、家に入っていく高蔵寺と男の後をおった。一方のロルフも警戒心を醸し出していた。普段のぼうっとした目つきはどこへやら。瞳孔の開いた瞳は男の首ばかりを見つめている。男はそれらを承知の上で、九条とロルフの二人と目を合わせた。何の感情も読めないその視線と、三日月に笑う口元。彼の手はコートのポケットにしまわれた。


「うさんくさい」


すこしたどたどしい日本語でロルフが呟いた。九条は全面的に同意する。九条の口から直接言わなくても、高蔵寺だってこの男が怪しいことくらい十分理解しているだろう。応接間に案内される道中、誰も彼もが無言だった。それは応接間に入っても変わらず。お茶を持ってくると出て行った高蔵寺に残された三人は重苦しい空気を肩に感じていた。ロルフは途中で合流した二頭の狼と、ソファの背もたれに座り込んで男を見下ろし、九条は部屋の壁で腕組みをしながらもたれている。男はというと、姿勢よくソファに座り、目を閉じていた。手はポケットにつっこんだままである。


「彼女が帰ってくる前に聞きたいことがある」


沈黙を破ったのは男だ。


「おまえは、ハンター?」


その前にロルフが返した。男は無反応だ。リアクションはなく、ロルフの質問にはっきりと応じなかったが、それ相応の返事をする。


「俺の名前はダミアン・ルース。錬金術師だ。俺の質問は吸血鬼に、だ」

「……俺?」


九条の鋭い烈火の瞳がダミアンを見る。飲み込まれそうな赤に、しかしダミアンは嵌まらない。


「赤井のことを知りたくないか?」


いざ、目の前でほしいものを差し出されたとき人間だったころはどんな反応をしただろうか。


理性的な思考が次第に抜け落ちていく九条は、そのとき。迷わず――。

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