吸血鬼との再会・3

彼女の言葉は、刃より鋭く、銃弾より衝撃を与えて、九条の胸に傷をつけた。


「殺しちゃってるんだ」

 

軽々と放たれたその音はまるで時を止める。


――。


言葉を。


失った。


「初めて殺すために殺したよ」


続ける赤井の言葉はスラスラと。


「人間ってあっけないねえ」


小さな笑いを洩らし。


「ちょっと叩いただけで死んだ」


それから先を九条は見ていない。

赤井なんて視界に入らない。目の前にいるのは赤井だった吸血鬼だ。


地面を蹴る。九条は赤井の首を掴もうと急接近した。しかし赤井の方が上手だ。九条の指先が赤井の首に触れたと思ったら彼女は霧となり霧散した。その手は何もつかめず、地面を抉って九条は止まった。大きく広がった霧は九条が先ほどまでいた場所へ集まる。その霧はシルエットを浮かびあげて赤井の姿に戻った。しかし赤井の変身には時間がかかる。赤井が姿を現したときには、すでに、九条が再び急接近していたのだ。左足を軸に、右足を大きく振り上げて赤井を薙ぐ。すぐに赤井は腕で足を食い止めようとしたものの、彼女の小さな体では吹き飛ばされてしまう。赤井はフェンスに激突し、それを大きくひしゃげた。


「なんで」


九条の震えた声が後を追う。消え入りそうな声は夜の中に溶けてしまいそうだった。


「姉貴が……、九条沙夜が殺される理由はなかったはずだ。姉貴は、俺と違う……っ。人間だろ!」


赤井の顔は見えない。蹴り飛ばされた衝撃か、俯いて動かない。この程度で赤井が気絶するはずがないことを九条は知っている。大股で赤井の元まで歩くと、その胸倉を掴んだ。

口をつぐんだ赤井の目は真っ赤に濡れていた。


「どうして殺した! 姉貴が何かしたのか! ただただ平穏の中で生きることを努力していただけなのに!!」


喉が枯れてしまうまで叫ぶ。怒鳴る。これでもかというほど全身の血液は高鳴り、脳が熱くなる。胸倉を掴む手に力が加わっていくばかりだ。


「『なんで』? わかんないの?」


つとめて冷静に。

冷水のような赤井の言葉が九条の癪に障ったが、そのことを忘れさせるような言葉が待っていた。


「こうでもしないと、能天気な九条は殺されることを理解できないと思って」


赤井の口が歪む。怒りは最高点に達した。

周囲を感じるすべての感覚がシャットアウトする。腹から湧き上がる憎悪の熱を、素直に受け入れた。

怒りのまま九条は拳を振り上げて赤井の顔を殴った。意外にも赤井は避けようとせず、その拳を受け入れ、口内と唇を切った。

まだ。まだ足りない。この程度で気が済むわけがない。燃え広がる感情のまま、再び拳を振り上げた。


「九条!」


その声は男のものだ。九条と赤井以外の別の声が割り込んできた。それでも九条はまったく気にしない。その殺意を赤井にぶつける。もう一度、もう一度。赤井に拳を振り上げて殴る、殴る、殴る。


吸血鬼の驚異的な回復力は九条の拳で粉々になる頭蓋の治癒を瞬時に開始していた。それでも痛覚が絶たれているわけではない。頭を文字通り粉砕しているのだ。とんでもない激痛が赤井を襲っているだろうに、彼女は意志を失ったかのように、まったく抵抗をしなかった。ただ、奇妙なことに九条を見つめているのだ。


「やめなさい、やめなさい!!」


今度は女の声だ。

それでも九条は止まない。

九条の身体に些細な痛みが走った。それは肩と脇腹から。九条は視線だけ寄越してみると、そこには銀色の毛並みをもった狼が二頭。噛みついていた。九条が振り払うと二頭は数メートルも転がってしまうが、それでもまた同じように噛みつく。舌打ちをしてまた九条が振り払った。


「おい、九条」


男の声は近くからした。


「……いいかげんに、しろ」


男は狼を下がらせると、九条の肩を掴んだ。そのころには赤井の頭は血だらけであった。鼻は潰れ、まぶたはベロンと剥がれている。頬の肉が抉れたせいで口内を覗き見ることができた。口内といえば赤黒く濡れていてなにがなんだか見当がつかないほどミンチになっている。その見るに堪えないほど醜悪な光景に女の息をのんだ音がした。

男は九条を振り返らせると、口から文句を言う前に彼の鳩尾に膝を撃ち込んだ。九条はその激しい衝撃に倒れこんだことで、やっと赤井を殴る手を止めた。


「なんで、吸血鬼同士で、殺しあってるんだ」


たどたどしくへたくそな日本語で男は九条の様子を見る。九条は倒れこんだままで起き上がらない。九条の顔は腕で隠れてしまっている。そんなに痛かったかと心配になった男は座り込んで九条の顔を覗き見た。


九条は歯を食いしばり、涙を流していたのだ。

少しは頭が冷えたのだろう。怒りが収まり、思い出された悲壮感が溢れてきた。

泣いている九条にびっくりした男は両手を左右に振り、助けを求めるように周囲を見渡した。しかしながら周囲には血だらけの吸血鬼とそれを見て気分を悪くした女しかいない。外はねした茶色の毛先が揺れていた。


「く、九条?」


困った男は九条に話しかけてみる。


「……俺は、赤井を許さない」


決意を表明するように九条は言う。ゆっくりと起き上がり、立って、微動だにしない赤井を睨んだ。それは悲しい殺意だった。

こころなしか赤井の口が三日月に口角を上げで笑ったような気がした。

赤井に一歩、また一歩と近づく九条の前に女が現れ、両手を広げて赤井を守るように立ちはだかった。長い黒髪は乱れ息切れをしているが、その目はまっすぐだ。確固たる意志を持っているのが分かる。まっすぐと九条を射抜く視線は九条を突き刺す。


「だめよ。殺しはだめ」

「うるさい。高蔵寺には関係ない。黙ってろ」

「いいえ、黙らないわ」


高蔵寺と呼ばれた女は、そのまままっすぐ歩みを進める九条にも臆せず立ちふさがっていた。高蔵寺は退かない。彼女の足元にはいつの間にか二頭の狼も同じように立ちふさがり、九条を睨みつけて唸っている。


「殺しなんて、そんなことに価値なんてないわ」

「はっ。何を言うかと思えば。退魔師め」

「私に力を使わせないで、九条。言うことを聞いて退きなさい」

「断る。俺は赤井を許せない」

「……、いい? 今は殺しなんて場合じゃないのよ」

「戯言か」

「私の言葉に嘘が混じるわけがないわ」


九条と高蔵寺の距離は近く、ぶつかってしまう寸前だ。九条の後ろで男が姿勢を低くして九条らをうかがっている。


「ハンターがこの町に入っているわ。こんなところで暴れている場合じゃないのよ」

「……」

「しかも吸血鬼ハンターよ。ヨーロッパからやってきたハンター。こんなところで暴れていては目立ってしまうわ。九条、退くのよ」

「赤井を殺してから引く」

「九条! 引き際を間違えないで」


高蔵寺は両手を下して九条の手を掴んだ。そうすることで九条はやっと観念したようだ。舌打ちをしたものの九条はそれ以上足を進めることはなかった。ほっと安心した高蔵寺は張っていた気を緩め、胸をなでおろした。それから、少しは治癒が進んだ赤井の傍によってしゃがむと、彼女に声をかけた。


「肩を貸しますわ。ここに残っては危険だから、私の家にいらっしゃい。治癒をします」


できるだけやわらかい声で高蔵寺は赤井に話しかけた。しかし赤井は高蔵寺に返事をしない。意識がないわけではないのだ。頭部はあいかわらずぐちゃぐちゃなのだが、その意識ははっきりしている。赤井は高蔵寺の肩にゆっくり腕を伸ばした。高蔵寺はその腕を肩に回そうとした。赤井を助けようとしたのに。赤井は高蔵寺の肩を押して突き放した。それからすぐに霧に変身してその場から消えてしまった。


黙ってそれらを見ていた九条はその霧がまったく見えなくなるまで赤井がいた場所を睨み続けていた。


「九条」


男が話しかける。


「ロルフたちはなんでここに来たんだ。ハンターがいるからさっさと家に帰れって?」


男――ロルフは無言でうなずく。ロルフと高蔵寺はハンターがこの田舎町に現れたことを察知した後、すぐに九条を探したのだ。


ハンターとは、主にヨーロッパを拠点にしている集団である。キリスト教の派生で、人ではない怪物や化け物を排除する過激派を指す。悪魔を祓うエクソシストが起源であるとされており、いまでは悪魔のみならず、吸血鬼、人狼、ゾンビ、デュラハン、セイレーンなど数多くを相手取っている。怪物や化け物にとってはひとたまりもない唯一の天敵である。

そんな彼らの活動拠点は西洋ばかりで東洋には広がっていない。中国をはじめ、仏教の広がった地域では独自の文化が築かれているためかハンターの余地はないのだ。とくに、ここ島国日本は他国による侵入や支配下に置かれたことなどない歴史をもつ国だ。妖怪や、それらと対峙するのは退魔師であり、ハンターの影響は届かない。


「ハンターは危ない。はやく帰ろう」

「そうね。今夜は私のうちに泊まるといいわ。うちなら結界を張ってあるし」


ロルフのもとに二頭の狼が寄って、彼はその頭を撫でた。

高蔵寺愛子の家は駅の近くにある住宅街の中心にある。江戸時代は中山道の宿場町として栄えた一帯は、もともと小さな城の城下町だった。高蔵寺の家は代々怪異など人間の生活に害をなす存在の排除を生業としている。陰陽師や修験道などとはちがったもので、退魔師は血によりそれぞれ特異の力をもつ。例えば、高蔵寺は言霊を操る力を持っている。同じ市内には高蔵寺のほかにもう一人退魔師がおり、彼は戦闘に特化した力をもつのだとか。


現在、高蔵寺愛子を残して一族は亡くなってしまっている。彼女の広い邸にはたまに九条とロルフが遊びがてら、生活の報告がてらたびたびお邪魔していた。我が家のように慣れ切ったその家に到着してから、高蔵寺に遠慮はなく、九条とロルフは居間でくつろぎ始める。


「少し、情報整理をしたいわ」


かたや床に寝そべり、かたや狼とまるまる二人に対して高蔵寺はつとめて冷静に話しかけた。高蔵寺は用意した緑茶をテーブルに置いて、ソファに座り込む。そうだな、と九条が高蔵寺の正面にあるソファに座った。


「まず、あの吸血鬼はなんなの? どうして九条はあの吸血鬼を殴っていたのよ。吸血鬼同士の殺し合いなんて初めて見たわ」


九条は小さく動いて高蔵寺をまっすぐ見捉えた。紅蓮の瞳と目が合えば、その世界を乖離した異物に少なからず恐怖を覚えるが、さすが退魔師の家系に生まれた人物。初見の時からまったく怯まない。九条はつとめて冷静に。腹の内で蠢く怒りを抑え込む。


「あの吸血鬼は赤井。明治時代から生きる、俺を吸血鬼にした張本人だ」

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