吸血鬼との再会・2
互いは互いを信頼する「友達」であると正しく認識していたはずだ。
九条は命をかけて少女に血をささげたが、彼女は姿をくらまし行方不明となっていた。これは二年ぶりの再会である。
少女の名は赤井。本来ならば小さな身に合わず大きな懐と包容力のある少女であるはずだ。
だからこそ九条にはわからない。およそ二年ぶりの再会で、なぜ赤井が殺意にあふれているのか。数少ない同士ではないか。なぜ、九条を殺す必要があるのか。二年の間、彼女は何をしていて、どうしてこうなってしまったのだろうか。その豹変ぶりに驚いて九条の思考はうまく働かない。
はたして自分の知っている赤井と目の前の赤井は同一人物だろうかと疑うほど。
「九条」
赤井は重たい声で、血反吐を吐く九条を見下ろす。咳き込む九条の頭部をおもいっきり踏みつけた。頭を踏み潰そうと。頭蓋骨からヒビのはいるような不快な音。プツリと血管が切れ、九条は頭から血を流した。
「――ごめんなさい」
赤井の顔は見えない。ただ、ただ。声は悲痛だった。
「あたしのために、……死んで」
彼女はまさしく化け物。
「どう、して?」
九条の質問に、赤井は答えるつもりなど一切ない。このまま、九条を殺す――!
赤井は文字通り怪物。化け物。鬼。
――その怪力の正体は。
――その死人のような肌の正体は。
――その爛々と輝く瞳の正体は。まさしく。
このままでは殺される。抵抗しなくては殺される。一度は投げ出したこの命。しかし救われた。今、九条を殺そうとしている赤井自身に。そして、救われたこの命は、たとえ赤井が相手であろうと簡単に失うわけにはいかない。
「ふざ、けんな」
それは言葉にならなかっただろう。顎がうまく動かないのだ。ただ唸ったように聞こえたかもしれない。
それでも、それは正真正銘、九条の抵抗だ。
「なに?」
今度こそ、九条はしっかりと赤井の足首を掴んだ。
残念だが――喜ばしいことに――九条は無力な人間ではないのだ。
「――」
九条は立ち上がると同時に赤井の足を引く。そのまま赤井をさかさまに釣り上げようとして、しかし赤井は体をねじって九条の手から抜け出す。
「もう一度聞いてもいいか。……どうして俺を殺そうとしてるんだ、赤井」
「あんたなら、少しでもこの気持ちがわかるんじゃないかって思ってたけど。どうやら違うみたいだね」
「どういう意味だ?」
「あたしが、吸血鬼だからだよ」
赤井は九条に食いついた。ちょうど首筋を通る動脈血にするどい牙を突き立てる。
それは、あの日の夜を沸騰させた。ハンターに追われている赤井を救うために身を差し出した、あの。走馬灯のように、あの晩の感覚が九条に流れ込む。痛かったり、苦しかったり、気持ちが悪かったり。そして同時に、気を失った九条が目覚めてから押し寄せてきた切なさも。
赤井に身を差し出し、死んだと思っていた。しかし九条は目が覚めた。目が覚めたということは、ここが黄泉ではないかぎり生きている。九条は生きていた。が、赤井はいなかった。九条の血を吸って、その後どうなったのかわからない。生死だって知らなかった。今のいままで、赤井の手掛かりはまったくつかめていなかった。
どうして突然、九条を殺そうというのだろうか。行方をくらましている間、彼女に何が起きたのだろうか。吸血鬼であることが、なぜ九条を殺す理由になるのだろうか。
だが、九条には問うことができない。
生命たる血液を絞られている。末端がしびれている。口がうまく動かない。
本当に赤井に殺されるのか。ここで?
生かされた命だ。たとえ生かした本人の手で殺されようとしていても。
九条は死を受け入れられない。目の前の吸血鬼に殺されるわけにはいかない。後悔を残して死ぬわけにはいかない。こうして、どうして殺されなければいけないのか分からないまま死にたくない。黙って死を受け入れるなんて、まっぴらごめんだ。
九条はしびれてうまく力が入らない腕を持ち上げた。鉛のように重たい手が赤井の小さな肩を掴む。
「俺の血なんて、……美味くないだろうが」
九条の眼に力がこもる。消えかけていた光が強く、強く力を取り戻す。鈍っていたその力が九条の奥底から這い上がり、語り掛ける。
「!」
悪寒を感じた赤井が吸血を中断させて九条の首筋から口を離した。本当に吸血鬼になった九条の血は美味しくなかったようで、口を離した瞬間に咳き込んでいる。口の端から口内に残っていた血が吐き出され、地面にぼとぼとと落ちた。
「共食いなんて下種がすることだ」
「……九条」
「そうだろ、赤井」
九条の眼は赤井と同じく爛々と赤く輝いている。
「……」
赤井の目は口角を上げる九条を目撃して目を大きく見開いた。そしてすぐに顔をそらす。
九条は赤井に手を伸ばす。鋭い爪を立てた手は勢いをつけて赤井の喉を狙った。しかし赤井はいつまでも息をのんでいるわけではない。九条の一閃を避け、距離をとった。
「――わからないんだ。赤井、教えてくれ」
九条は赤井を追わず、その離れた距離で彼女に伺う。うつむいたその表情は見えない。しかし声は震えているのがわかった。
「どうして、俺を殺そうとするんだ……。俺たちは互いに友達だと思っていると信じていたのに」
「……」
「なにも教えてくれないなんて嫌だ」
さて、九条は鬼だろうか。人間だろうか。
赤井は九条に対する認識をもう一度洗い直す。つい一瞬前までは確かに彼は化け物であった。眼は恐ろしく輝き、人間にはありえないほど鋭い牙を見せて笑った。だが、今はまるで人間のように情を含んだ表情をしているではないか。人間としての九条を殺したの張本人は、ことんと首を傾げた。
言葉を溢した九条の胸の内には締め付けられるような感情がひしめいていた。それは悲しさであったり、悔しさであったり、切なさであったり、諦めであったり、期待であったり。赤井の口が開くのを静かに待った。
「バカだね」
赤井は顔をそらしてため息をした。それから、九条を睨む。
「あんたはまだ状況を分かっていないようだね」
それは残念そうな声で。嘲笑をその表情に。
「あたしは今、あんたを殺すの。その理由を知ってどうするわけ? 抵抗しないで殺されてくれるの?」
「それは……」
「ふん。九条の自己満足に付き合ってられないよ」
彼女は九条など相手にもしていない。会話を望んでいない。ただ殺すと告げられ、九条は押し黙った。
確かに自己満足かもしれない。
殺意の理由がなんであれ、九条はここで死ぬつもりなど毛頭ない。ただ知りたいだけだ。知らないまま赤井と対峙するなんて納得がいかないだけだ。だって、九条はいまだに赤井を信頼し、友であると願っているのだ。同時に赤井が九条を殺すと言っているのは本当だ。それでも九条は楽観し、希望を抱いてしまう。きっと何かの冗談だ。数年ぶりの再会がこんな様でいいはずがない、と。
「バカな九条にひとつ、教えてあげる」
赤井は人さし指だけ立てた右手を己の口元に運んだ。あいた手は右ひじを強く握っている。彼女の赤い双眸は三日月のように細くなる。ゆらりと落ち着きなく赤井は体を揺らした。
九条の息が詰まる。この後、赤井が放つ言葉を聞いてはいけないと気付く。直感で理解しているが、九条は信じている彼女が何を言い放つのか、見極めなくてはいけないと己を律した。胸騒ぎがする。赤井が次の言葉を続けるまでそう間はないはずだが、九条にはとても長く重苦しい時間だと思えた。
「九条のお姉さん。えーと、九条沙夜だっけ?」
「……な、んで、赤井が姉貴の名前を、知って、るんだ……」
どっと汗が沸いて出た。
九条と赤井の間では出会ってから別れるまで九条の姉の名前など会話になかった。姉がいることは話したが、それ以上のことは確かに話していないはずだ。
「ちょっと都会の住宅街にある一軒家に住んでる彼女。家族みんないなくて、一人でずっと行方不明の弟を待ってるお姉さん」
それは宣戦だ。
九条の心臓に深く突き刺さる事実だ。
目をそらし続けて生きてきた九条に返ってきた応報だ。
呼吸も瞬きも忘れた九条悠へ、赤井は宣戦布告を刻んだ。
「殺しちゃってるんだ」
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