一章
吸血鬼との再会・1
学生カバンに筆記用具を落とし、チャックを閉める。教材はすべて学校に置きっぱなしで、テストも近くない。真面目とは距離を置いた勉強姿勢の九条悠は軽いカバンを持ち上げた。教室の中に飛び込む夕日の光は夏よりいくぶんか弱くなったものの、彼は眩しそうに目を細めて見る。嫌気がさすほど今日も太陽に陰りはない。
教室を出ようとしたとき、クラスメイトが九条に話しかけてきた。
「よう、九条。もう帰んの?」
「そうだけど。部活やってないし」
「なあなあー、今日時間ある? 暇?」
「……なんで」
お調子者の彼はにんまりと笑った。明るく髪を染め、学ランのボタンは全開。ピアスはつけていないものの耳には穴が開いている風貌。彼の校則違反の容姿は校内でも目立つ。不良らしい外見だが実は中身は優等生。よく九条に絡むこの少年――藤本春馬の調子のいい声は常に低いテンションの九条の耳にキンと響いた。
「ほら、これこれ!」
と、背中に隠していた二枚の紙を九条の目の前に突き付けた。
「……進路希望調査と……秋祭りのポスター」
九条はみるみるうちに表情をゆがませた。いやだ、めんどくさい。他を当たれ。顔にはくっきりと九条の内面があらわれていた。藤本はいい笑顔だ。
「俺ら来年から受験生だろ? 大学まだ選んでなくてさー。付き合ってくんね?」
「断る」
「来週の秋祭り一緒に行こうぜ! もう古山と古山の兄も誘ったんだけどさっ」
「断る。古山に挟まれろ」
藤本は口をあんぐりとあけた。九条の腕をつかんで、なんでだよおおおと喚く。九条はため息をもらすばかりだ。わんわんと藤本は嘆き、結局九条は放課後を彼の進路相談に使ってしまった。
帰るころには月が輝きだし、藤本の腹はぐぅぐぅと騒ぎ出す。彼らはファーストフード店へその足先を向けた。
「九条って体温低いよな」
九条が重たそうな手でハンバーガーを持った時、藤本は思い出したようにつぶやいた。それはまるで、なんでもない日常に水を差すような感覚に似ていた。
九条の眉が少しだけ動く。きゅっ、と唇が一文字を描く。しかし藤本は九条の様子など気にとめていないようだった。
「まだ秋だぞ? 九条って冷え性だっけ?」
「……どうだかな」
藤本が手を九条に差し出した。九条は首を傾げてフライドポテトをつまんだ。ぱさぱさした触感を舌の上で確かめる。
「ん」
手を九条の前へさらに押し出した。
「なに」
「手。ちょっと触らせろよ。すっげえ冷たいだろ」
「きもい」
「ひっでえええ! 親友が心配してんじゃん!」
「しんゆう……?」
「え。嘘だろ。親友だろ!?」
テーブルをはさんで藤本は九条の肩を揺さぶった。九条の眼鏡が位置をずらす。うまくフライドポテトが飲み込めず咳き込んだ九条に対し、藤本は騒ぎ立てた。それらが聞こえていたとなりに座るOLがいぶかしげに見つめるが、やはり藤本は気に留めていないらしい。
やがて藤本は拗ねたのか、ぱくぱくとハンバーガーにフライドポテト、ジュースを口へ運んでいった。感情がころころと変わる忙しいやつだな、と九条も食事を再開した。
それにしてもどこで藤本は九条の体温が低いと気が付いたのだろうか。
九条は早々に食事を終わらせ、「明日はバイトだから」と言って解散した。藤本は九条の些細な変化――普段なら翌日の予定があってもしばらくは他愛ない話に付き合う――に気が付いた様子はなかった。
そさくさと九条は国道沿いを歩いた。三分も歩けば大きな交差点に出る。左を進めば駅へ一直線だ。まっすぐ家に帰るのならば九条はここでまっすぐ進まねばならないが、九条は駅方面へ歩き出した。冷えた向かい風がぶつかる。左右には市民体育館やコンビニ、スーパーや飲食店が間隔をあけて並ぶ。今日は金曜日だ。外食をする人も多く、飲食店は昨日に比べて賑わっているようだ。
――いまだ九条は腹が減っていた。
今日は一週間に一度の食事をする日なのだ。
駅で待ち伏せをして、適当に一人で帰宅する女性を探す。大抵の人は車での迎えが多いようだ。しばらく駅の待合室で外を眺めていると、一人で歩く女性を発見した。女子大学生だろうか。九条は彼女の後を追うことにした。
「この前の課題できた? 私ぜんっぜんできてなくてやばいんだよねー」
どうやら電話をしているようだ。電話をしながら歩く、というのは一種の防犯であるといわれているが、その実防犯とは程遠い。通話をしていることで隙が多くなるのだ。それでは襲われることにも狙われていることにも気が付かないだろう。それは九条にとってチャンスである。獲物が隙だらけなのは、空腹を訴える胃を満足させることができる。乾いた喉が潤いを求めていた。
ここが田舎であることが幸いして、にぎやかな駅を離れればすぐに周囲の電灯は薄くなり、人気もなくなる。「ぜったい呼び出しくらうよ……」と会話の中で女は落ち込む。
九条と彼女の距離はおよそ十五メートルだ。足取りが重くなっていく彼女に反比例して、九条は早歩きに。そして距離は短くなっていく。距離は十メートルになった。それが九メートルに。八メートル。七メートル、六、五、四、三、二、一……。
ついに九条は彼女に手を伸ばした。
その手は口を抑えつけ、強い力で女の身体を後方へ引っ張る。衝撃の強い力だ。それは瞬発的な力で、女は簡単にバランスを崩してしまった。手に持っていた携帯電話はあっけなく滑り落ちる。
「んぅ!?」
驚いた女はすぐにでも抵抗した。両方の手足をめいっぱいジタバタと動かしたが、九条は頑丈に彼女を抑えつけている。空いたほうの手で彼女の顎を下から打ち付けた。そうすると、女は脳みそを揺さぶられ、瞬時に意識を手放して気絶した。九条は確かに女が意識を失ったと確認すると、丁寧に寝かせる。今一度、周囲を見渡して人の視線がないことを確認し、女を担いで道外れの物陰に潜んだ。
艶やかな白い肌は血色がいい。化粧で整えられた顔には少し恐怖が浮かび上がっているようにも見える。九条は顔にかかっている女の茶色い髪を地面に払い落とした。女の持っていた荷物を脇に置いた後、彼女の襟を引っ張る。
ビリリと繊維の引きちぎれる音とともに眼前に現れるのは首筋だ。姿を現したそれに九条の喉は擦れた声を吐く。
「いただきます」
人間のものとは違う、鋭い歯。牙、刃。口からのぞく白いそれは女の首に容赦なく食らいついた。
口内を満たすのは鮮血だ。
どぷり、どぷりと流れ込む血液を咀嚼した。味わってから喉を潤す血は美味しい。空腹が満たされる。その光景は、行為は、とてもじゃないが人間らしいようには見えない。
それとは程遠く。奇妙な食事は、その姿は……。
まさしく――吸血鬼の姿だ。
それもそのはずだ。九条悠は人間ではない。
人間と同じように食事をすることができない。人間の生き血を啜ることのみが食事方法の化け物だ。正しく、彼は吸血鬼なのだ。
後天的ではあるが、九条は現代の日本でひっそりと生きている吸血鬼である。つい二年前までは人間であったため、いまだ吸血鬼の生活に慣れていない部分はあれど正体を隠して人間社会に溶け込んでいる。毎週金曜日は九条が食事を行う日だ。吸血鬼の九条が生きていくためには吸血をしなければならない。この吸血行動は十分程度で終わる。吸血された人は貧血にはなるだろうが死ぬことはない。今日も吸血を済ませ、付近の公衆電話で救急を呼ぶ。
遠目から救急車が気絶をしている彼女をストレッチャーで運び入れるところまで見送り、九条はやっと帰路についた。
はあ、と九条は息を吐きだした。まだ冬には早いものの気温は下がり、紅葉の時期も過ぎようとしている。月は白さを増し、夜は昼を侵食する。ぽつぽつと寂し気に電灯がついているだけの寂しい夜道を進む。自身の足音というのは、こんなにも耳に響くものであっただろうか。
それは、嵐の前の静けさのようで。
「ひさしぶり」
静寂を打ち消すのはたった一言のみだ。
暗い夜道。それでもまっすぐ前方に人影が見えた。
それは小さな人影だ。奇妙だが、どうにも親近感をおぼえる。
「……」
九条は己の心臓が大きく脈打っていることに気が付いた。
その人影が誰であるのか、それを感覚が先に理解したのだ。
「あんたをずっと探してたんだ」
その人影は独り言でもつぶやいているようだった。九条に話しかけているようは見えないが、語りかけている。そして、その人影は九条のほうへ歩いているようだった。
ゆっくりと。ゆっくりと。
暗い。表情はみえない。背格好もはっきりと見えない。なぜだろう。本来なら見えるはずなのに。これではまるで夜に溶けているようではないか。
ゆっくり。ゆっくり。
誰だ?
ゆっくり。「やっと見つけた。こんな田舎にいたなんて」。
ゆっくり。次第に姿が現れる。それは少女のようだった。髪の短い。黒髪の。肌は死人のように白く。胸元のリボンが揺れている。
ゆっくり。ローファーのかかとが音を立てる。
「……そんな」
九条はやっと理解した。その人物が誰であるのか。はっきりと分かった。同時に、研ぎ澄まされた直感が大声を上げる。「逃げろ」と。その直感に従わなかった九条は、瞬間、目を疑った。
少女が、目の前に現れた。距離を詰められた。そう、一瞬で。とても人間の出せる速さではない。そして、九条を見上げるその眼が、爛々と殺意に煌めいている、化け物のそれ。振り上げる少女の拳が、まっすぐ九条の心臓を打った。まるで大砲の弾でも命中したような衝撃。人間の少女が放てるとは思えない、力。
素直に九条の体は吹き飛んだ。投げられた人形のように軽々と。吹き飛んだ九条の体は頭から後方へ飛び、直線に近い弧を描いて地面に落下。コンクリートの地面は九条を滑らせ、表面を抉る。顔や手は皮膚が剥がれ、靴はどこかへ飛んで行った。学校の制服は擦り切れる。ぐちゃりと体内から嫌な音がした。無抵抗に飛んでいく九条に少女は追い打ち。強烈な力で抉られる九条に踵落とし。九条は腹の奥から血を吐きだした。意識を手放しかける。
「急に、なんだ、よ……。赤井。なんで……」
九条は腹に乗る少女の細い足首を掴んだ。少女は荒々しく手を振りほどく。
「おどろいた。あたしが言うのもなんだけど、今のくらって生きてるのか」
「くそっ。ゴフ……。ご挨拶だな」
「元気そうだね、九条」
少女は転がっている九条を蹴った。九条はさらに吐血する。少女の九条を見下す目は冷たい。九条は、この少女を知っていた。これが初対面ではないのだ。
過去、九条はこの少女の命を救ったことがあり、そして九条はこの少女に命を救われた。
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