第2話 → 教授と見る


「ノリ、遅い!! もう教授の挨拶終わっちゃったぞ」


 電話口の和弘の声も焦っているのがわかる。そのくらい岩井教授は時間に厳しい。


「すまん、もうすぐ駅だ……あと五分で着く……じゃぁ、後で。何とかごまかしておいて」


 祐介さんの真剣な表情は気になったものの、結局、僕は先約であった教授たちとの納涼会に参加するために会場である駅ビルの13階の店を目指していた。

 もう少しで打ち上げ花火があがる時間のせいか、人が多い。エレベーターホールの前には大混雑が発生していて、ちょっとやそっとでは上の階に上がれそうもなかった。かといって、ロビーから吹き抜けを上に上がるエスカレーターも人であふれていて、なかなか進めないでいた。



 ――――どこかで、カチリと何かが鳴る音が聞こえた気がした。




 やっとの思いで6階から7階に繋がっているエスカレーターを降りた瞬間、一人の少女がこちらをじっと見ていることに気づいた。14歳か15歳くらいの、白い透けるような肌と夜の闇を溶かし込んだような真っ暗な髪と瞳でこちらを睨んでいる。それでいて、どこか悲しそうにも見える。


「ドンッ――――!!」


 一発目の比較的小さな花火が上がった音と振動で、ハッとわれを取り戻した僕は「あの……何か?」とこちらを睨んでいる少女に問いかける。



 返事はない。



「ああ、わかった。ひょっとして、ラボの誰かの知り合いかな? 岩井先生はお子さんは男の子だったはずだから……」


 僕がぶつぶつと続けていると、少女がうつむいて口を開く。


「……どうして……どうして”こっち”に居るのよ……もう、間に合わない。巻き込まれて――――」



『きゃぁぁぁぁぁ――――!!!!』



 下の階から突然叫び声が上がる。

 最初の一人が叫んだそのすぐ後で、次々と叫び声が連鎖していき、あたりが騒然となっていく。何故か、皆、一様に北側のガラス越しに隣のビルを指さしている。


「何だ!? 何が……隣のビル? こっからじゃよく見えないな……とりあえず、和弘と合流しないと……」


 胸騒ぎを感じながら、僕は立ち止まっている人混みをかき分けて上へ上へと昇っていく。いつの間にか少女の姿は消えていた。



「和弘ッ!!」


 13階にたどり着いた時にはもう全員が北側のガラス窓に張り付くようにして、隣のビルを心配そうに、時々うめき声を上げながら見ている。その間にもドンッドンッと花火が上がる音が響くのだが、誰一人としてそちらを見ようとしていない。


「ノリッ!! お前、何してたんだよ!!」

「何があったんだ!? 皆、隣のテックビル見てる――」


 僕の言葉が終わるのを待たずに和弘が指さす。その先にはテックビルの屋上と、その安全柵の外側に人影が一つ。


「人!? まさか、自殺!? 何で!!」

 初めてみた光景にパニックになる僕の前で和弘が頭をぶんぶんと左右に振り、言葉を詰まらせながら叫ぶ。


「ノリ!! 大事なのはそこじゃない、よく……よく見てみろ!!」


 暗い闇の中に目を凝らして、その儚げな白い浴衣姿の女性を捉えようとする。


「…………あの浴衣……昨日……嘘だろ……? お、及川さん!? 何で!」


「顔ははっきり見えないけど、女子たちが柄を確認した。それに……ここには及川さんは来てない」

「何で!? 何で及川さんが!!」

「知るかよ! 俺たちだって、何がどうなってるのか」

「警察! 救急車か? もう呼んだのか!」


 和弘は僕の勢いに気圧されるように「岩井教授が――」と指をさす。そこにいた教授は、ちょうど耳に当てていた携帯電話をだらりと下ろしたところだった。



 僕はその時はっきりと――――はっきりと口元に微かな笑みを浮かべて、「これでいい」と動いた唇を見たんだ。





『きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』



 さっきまでよりもひときわ大きな声が上がる。それと同時にテックビルの上から白い影がふわりと暗い海に飛び込む。

 そこから先はもうほとんど何も覚えていない。自分の心臓の音しかしない世界で、目を覆って立ちすくだけの群衆を手で押しのけ、今度は下へ下へと走っていく。



 血まみれになった路上の、その中心にほんの一時間前まで憧れていた人の形をしていた塊が横たわっている。そのどこか非現実の光景のなかで近づいてくる救急車のサイレンが、僕を現実に引き戻す。


 腰から下に力が入らず右膝がぶるぶると震えたと思った瞬間、両方の足が意志とは関係なく折れ曲がり、地面に伏せたような恰好になると、アスファルトに僕の眼から零れ落ちた涙が一つ、また一つとシミを作っていく。



 僕は声にならない嗚咽を漏らしながら、あの少女の言葉を思い出していた。



『どうして”こっち”に居るのよ』



 僕がここに来なければ及川さんは死んでいなかった? あの時、僕が祐介さんのところに行っていたらこうはならなかった――? どうしようもない考えが頭蓋の中をぐるぐると廻る。




「じゃぁ、試してみる?」




 その凛とした声に驚いて頭を上げた視線の先にはあの少女が立っていて、また、どこかでビー玉がカチリと鳴る音がした――――





打ち上げ花火、


  教授と見るか?

→ 准教授と見るか?

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