打ち上げ花火、教授と見るか? 准教授とみるか?
トクロンティヌス
第1話 打ち上げ花火、教授と見るか? 准教授と見るか?
僕たちはどこで間違ったのか――そして、何を間違ったのか。「すべてを失った」、ただそういう後悔によく似た感情だけがはっきりと残っている。
それでも、これまでと同じように朝は来て、スヌーズの徐々に大きくなる音で無理矢理に頭を叩き起こされても、まだ身体を御する力はなくて、右手をだらりと一人用のパイプベットの下に伸ばす。窓の外はまだ七時だというのにもう車の音でざわざわとしていて、カーテンのほんの少しの隙間から差し込む光はもう暑い。
やがて右手が何かに触れると、中に花びらを一枚封じこめた薄緑のガラス玉が――小さくカチリと鳴った。
『打ち上げ花火、教授と見るか? 准教授と見るか?』
一、
夕方七時になっても、実験室には自分とあと数人の研究員たちが残っていて、言葉を交わすことなくマイクロピペットの頭をカチカチと押している。あるいは仕切りのない事務机に置かれたデスクトップパソコンの前でキーボードを叩いている。これが、節電という名目で大学が強制的に灯りを落とす十一時まで続く。
――この岩井研で見慣れたいつもの光景だった。
特に最近は岩井教授が直接指導しているいくつかのグループで論文投稿の時期になっていて、所属している研究員や学生たちが多く残っていた。隣の
まだ論文投稿するまでのデータが揃っていない、准教授の研究グループに所属している自分からしてみれば、忙しそうだとも、少し羨ましいとも思えていた。
「ノリ、何してんの? てか、何ぼーっと見てるん? ……
「ち、ちがう!」
慌てて否定する。少しだけ声が上擦っていたかもしれない。
「だよねぇ。あっちは岩井研のエース、一方、
学部からの同期である
「……ほっとけよ。嫌味言いに来たのかよ」
自分の研究の進捗が芳しくないことは、自分が一番よくわかっている。
「まさか、これこれ」
そういうと和弘が紙っぺらを一枚、よこす。
「……岩井研・
「そ、今年の幹事が、俺が指導してるB4(学部四年生)の子でさ、『島田先輩に渡してきてください』って頼まれたってわけ。お前、いっつも”ぶすくれ”てるし、後輩ちゃんもしゃべりかけにくいだろ」
それこそほっとけよとため息と一緒に吐き出す。
「……今年も行くだろ? 今年は打ち上げ花火凄いらしいぞ」
「まだわからん。その日は祐介さんと実験の予定入れてるし」
同期の和弘や及川さんたちとは違い、俺は安曇准教授の指導で研究を行っていて、正直思うように進んでいない。この夏休み期間でちょっとでも実験を進めておきたいという気持ちもあった。
「……いいのか? これは後輩ちゃんが言っていたことなんだがな、研究室の女子、みんなで相談して浴衣で揃えてくるらしいぞ? ……そして、岩井研のエースである及川さんも当然参加すると言っている。返事は――聞かなくてもよさそうだな」
この時の僕はきっとわかりやすい顔をしていたに違いない。にやにやと嫌味ったらしい顔で和弘が「じゃぁ人数入れとくから! 遅れるなよ」と去っていく。
学部の二年生に始まった学生実習で、及川さんと初めて同じ班になってから、僕の視線は自然と彼女を追うようになっていた。
普段は物静かで目立たなくても、実習の度、白衣に身を包み、長い黒髪を後ろで纏めると、その薄く淡いピンク色の唇からは凛として通る声が発せられて、細く白い指がピペットを掴んでしなやかに動く。
「可愛い」や「綺麗」ではない、何故か僕が彼女に思う感情はいつも「頼もしい」で、事実、たったの数年で修士二年生になった及川さんは三報の学術論文を海外誌に発表して、今度はトップジャーナルと呼ばれているなかなか採録(アクセプト)されない雑誌への投稿を控えていて、まさに“エース”となっていた。
「来週の金曜日、か……」
僕はいつの間にか誰もいなくなった実験室でぽつりとつぶやいた。
二、
「納涼会? ……ああ、しまった今日だったのか……」
動物実験施設のなかにある手術室から一緒に出てきた安曇准教授がぼさぼさの頭を掻きながらいう。安曇祐介――博士号を取ってからすぐに海外に渡り、そこでいくつもの業績をあげ、たった数年でこの大学の准教授として着任した優秀な研究者であるにも関わらず、気さくな性格で、歳も近いこともあって僕たちは「祐介さん」と呼んでいた。
「これから行こうと思ってるんですけど……行ってもいいですかね? 実験も一段落しましたし」
僕は普段通り、特に気負うこともなく尋ねる。さすがに実験中でないなら祐介さんも何も言わないだろう、とどこかで思っていたのかもしれない。
「…………ノリ、大事な話がある。すまんが、納涼会に行くのはキャンセルできないか?」
「えっ!?」
いつになく真剣な表情でそういう祐介さんに戸惑って、僕はそれ以上の言葉を失ってしまう。
それくらいに予想外だった。
「…………詳しい話はここでは離せない。後で詳しく話すつもりだが、俺はこの研究室を……大学を離れるつもりだ。出来ればお前も一緒に連れて行きたいと思ってる。駅前のいつものおでん屋に来てくれないか? ……すまん、待ってるぞ」
祐介さんはその真剣な表情のまま、無言で自分の准教授室に戻っていく。何かはわからないものの、異常事態であることだけはすぐにわかる。
タイミングよくスマートフォンが鳴る。
『ノリ、何してるんだよ。教授ももう来て待ってるぞ! 及川さんのScience投稿お祝いも兼ねてるのに……って言って、ちょっと怒ってる!』
画面に表示されたメッセージをみた僕は財布とスマートフォンだけを持って、立ち上がる。
打ち上げ花火、
→ 教授と見るか?
准教授と見るか?
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