第3話 ウィンドスフィア
アイがアクア&アクアの編隊の先頭に躍り出るのと同時に
「モスキートを確認!」
口の中で白いボールを弄んでいたオルテガのワイヤードビジョンが叫び、飲み物をこぼさないように彼はテーブルから離れたようだった。彼は千鶴に目配せをした。
それを確認しオルテガの隣で千鶴がボックスコンソールを素早く操り始める。
「オルテガ、これの扱いがうまいのだけは感心するわ」
オルテガは何も言わない。
「この作戦にいくら投資したと思ってるの? 経験のない私がもし失敗したら目も当てられない」
千鶴はボックスコンソールを操り額に脂汗をかきながらそうこぼした。
「Kickstarterから4,500万ドル、後にFlixshowから6,000万ドルでたちあげたよ。いずれソニースペースエンタテイメントが8,800万ドルで買収するだろう」
オルテガは器用にマグカップを転がしてそういう。
ワイヤードビジョンの指令室の光景をよそに、アイと姫子の前には波間から次々と「モスキート」と随伴するより小型の海スプリガン達が現れていた。
「まじめにやってよ!」
今、アイの目の前には血に飢えたモスキートが多数舞い飛んでいた。モスキートたちが出現した海面はすぐさま海面温度が異常に上昇し、醜い海砂に変わりつつあった。
「たまや!」
「カカカカカカカカ」
アイの乗るアウトオブサークルからイルカの鳴き声のような音が発せられ、バタバタとモスキートたちは破裂して海面に墜落していく。
「キュイキュイキュイキュイ」
続けて周波数の異なる機械音も発せられた。今度はモスキートたちが同士討ちを始めて海面に落下していった。その場に海風が巻き起こる。
「よし、修復開始」
遠隔操作された千鶴のアウトオブサークル「マル」は独特な形状をしていた。ほとんどの物理的干渉を無効化する防音タイルで囲まれているだけでなく、その内部は華氏1,360度に保たれている。これは臨界した原子炉よりはるかに高温であることを示している。
「マル」の元になった「丸」は日本人にとっては完ぺきに表現された愛そのものの事である。と、同時にあらゆるアクア&アクア達の戦闘の段階を乗り切ってきた、完ぺきな戦闘機であった。
「マル」が海風のなかを回遊する。その海洋行動効果は速やかに海を修復していった。
海風がモスキートの死骸と海砂を一掃したので、変質した水はすぐに形を保てなくなり、本来の水と同化して水面は豊かな海風のパターンを保っていった。
海洋を通常の状態に戻すには、少なくとも1つの海洋障害が必要なのだ。
つまり海は戦って取り戻さなければならない。
「海と海」の両方では、海を通常の状態に戻すのに十分ではありません。
現代、海の時代。
この時代の海は壊れていた。人類は血をもって海を浄化しなければならない。
シャンクスハーバーの3番目の戦いの例を出すまでもないだろう。2143年の春の5日目の正午、および11日、17日の晴れた日の午後あの日に、この星の海に何者かが降り立った時から、地球とその海は完全に壊れてしまった。
「フィードバック解析パターンが出たぞ」
オルテガのワイヤードイメージが少女たちの戦闘編隊の周りをくるくる回りながら告げた。
「クリーンで、抜歯、DNAの損傷はない、カメラに向かってにっこり笑って?心拍数はパルスオキシメーターでみる限り、1分間に100回のペースだ。ハツカネズミより穏やか。刺されてもない」
「当然よ」
アイは上下に激しく揺れるアウトオブサークルの上でそう返す。オルテガは肩をすくめた。
「海上パラメータも正常に戻っている。すべての戦闘効果が前回より軽減されているね。アイ、これは素晴らしいニュースだとおもうかい?」
「リハビリは終わったようね」
アイの後方を警戒していた姫子が弾んだ声でそう代わりに答えてアイに機体を寄せた。
「ありがとう、姫子、千鶴」
アイがアウトオブサークルのコックピットに身を沈める。
「あんた達! 気を抜くのがはやいんじゃねえのか?」
やや遅れて随行していたキーレスがアウトオブサークルに備え付けられたアクアアルバレストを断続的に発射しながら海上編隊のほぼ中腹に追いついてきた。
アクアアルバレストは萬月の影であり、それにはアフリカ連合を表す、散らかったライオンの旗が備え付けられている。
「まだ全部片付いたわけじゃねえ」
ブリッジに和やかな会話を送る代わりに、キーレスは正確に遠距離から水の中にアクアボルトを放った、すぐに小さな波紋が続き、小型の水スプリガンを殺した。そのたびに小さな修復プロセスを示す海風が吹いた。彼女は仕事熱心なのだ。
「ありがとう、キーレス」
姫子がキーレスにポップアップいいねを送りながらそう伝えた。
「アウトランドの魔女はぬるいんだよ」
「大方のものは復元されたわ。選択プロセスはまだ開いているけど」
千鶴もモスキートを撃墜した時の海風で残りの海洋異常を修復しながらそう答えた。
「お前らの楽観主義はなんなんだ。アウトランドにいる魔女は少なくなっている、だから気をつけろよ」
キーレスがぶっきらぼうにそういった。
「魔女って呼ばないで」
アイが口をとがらせるようにして抗議した。
「魔女だろうが。少なくともアタシは国でそう呼ばれてた」
「それぞれの正確な状況の明確な理解が必要だな。そろそろ東京湾が見えてくるはずだ、相互理解のカップをその時にでも……」
オルテガがマグになみなみと飲み物を注いでいる音がする。彼は完全にアーノルドパーマーダブルショットの中毒者だった。そのときけたたましいほどのビープ音が鳴った。
「新たな海スプリガンを確認。モスキートじゃない、該当するパターンなし。新種かも」
アーノルドパーマーダブルショットの泡で口の周りにサンタクロースのような髭をつけてむせ返っているオルテガに代わって千鶴が答えた。ほどなくして姫子たちスイミングスクールの海洋オフィサーの周囲の海面が海砂に変質していく。
海砂が非常に粗くて硬くなり、アクア&アクア達の想像より恐ろしい事態を招きそうだった。
「姫子」
アイの声が強張る。
「7(セブン)落ち着いて、やることは同じ」
突如側面の海砂の中から巨大な海スプリガンが飛び跳ねて編隊に向かってきた。それを見たアイはトランスフィックス状態に陥りかけた。
「回避!」
姫子のコマンドに従って全員が速やかにその大型の海スプリガンを急速回避する。衝突の衝撃のご褒美を逃したそれはイラついたように身を震わせて、海砂のなかに再び潜った。流線型の重量感のあるフォルムにごつごつとした醜い背びれが付いていて、小さな爬虫類様の手足をもっている。初めて見るタイプだ。
「どこいった? 千鶴、索敵はやくしろ」
キーレスが的を見失って周囲のモニターを見回した。
「ソナーがきかないの。海砂下での量子力学変異を測定!? これは……」
必死でボックスコンソールを操る千鶴が戦術情報バイザーの下でうめいた。
「報告はされていたけれど初めて接敵したわ。クオークタイプ、ホロスーツタイプ……アイ、キーレス、現状況では交戦手段がない、短波位相遷移を」
姫子が指示を出している途中、姫子のアウトオブサークルの真下から件のスプリガンが出現し、海砂ノイズ混じりのうなり声をあげて装甲に食らいついた。
「姫子!」
アイが叫び、彼女のイルカ型アウトオブサークルを姫子に取り付いているスプリガンにぶつけた。だが大型の姫子のアウトオブサークルよりさらに大きい海スプリガンの質量に跳ね飛ばされる。
「この!」
再度アイは攻撃を試みる。おそらくイルカ音波兵器はこのサイズの差があるならば使い物にならない。時間の無駄だ。今は一刻も早くこの怪物を姫子から引きはがさないとならない。
「アイ、どけ!それじゃあ狙えない」
キーレスはアクアアルバレストの照準をスプリガンに合わせながらそう叫んだ。
「撃たないで! 姫子に中っちゃうわ!」
アイがダメージアラートのビープ音が鳴り響く中、激しく揺れる機体を制御しながらそう叫び返した。確かにこの距離でアクアアルバレストを放てばフレンドリーファイアだ。
「姫子、応答して」
大型の海スプリガンが実体化した爪と牙で姫子の巨大な烏賊に似た機体をむしばむ。理不尽な暴力にさらされた軟体動物のごとく、10本のフローティングアームをゆらしながら姫子のアウトオブサークルは制御を失いつつも海上をよろめいていた。
「姫子! 脱出して! もう……」
アイがそう叫んだ時、かすかに個人的な通信がグループチャットにボット投下された。
「水と空気」
「え?」
「水と戦うことはできないわ。でも呼吸の使い方はわかる」
姫子のアウトオブサークルから強烈な燐光が発した。超深海の生き物が発するような淡くて力強い輝きが半重力戦闘用シリコーンで覆われた姫子の機体を包む。その時他の少女たちの機体を貫通して、イマジナリーなエアーブラシが彼女たちの体を撫でるように吹き付けた。
「ウインドスフィア」
アイは思い至った。姫子のウインドスフィア、アウトオブサークルのコアたる姫子の持つ海洋成分。
少女たちの居る海域を徐々に力を増す強烈な光が覆っていった。
「綺麗……」
戦闘中であることも忘れて、誰かがつぶやいた。
「バニャのA‥‥‥アウトランドイーストの魔女の女王の呪文‥‥‥」
キーレスもピボット照準グラスから顔を上げて、その光景を見守った。光を浴びてぼろぼろと巨大な海スプリガンが朽ち果てていく。
燐光は発した時と同じように急速収まった。皆、何か浮遊したような感覚を味わっていたが、夢から覚めるように現実に引き戻された気がした。巨大な海スプリガンの死骸を分解した海風が、優しく泡を伴って彼女達の回りに渦巻いていた。
ほどなくしてダメージを負った姫子のアウトオブサークルの上部ハッチが開き、姫子がフロートスーツのまま機体の外に出てきた。押し込められるようにかぶっていた窮屈なヘルメットをとると、彼女の周りに集まっていたスイミングスクールの少女たちの機体をみまわしてにっこりと笑っていった。
「今は、水はきれいね」
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