第Ⅴ章 無敵の護送船団(9)

 上甲板にいるマリオには見えるわけもないが、その船尾楼内に設けられたプロフェシア教の礼拝所で、コラーオは自身の仕事に専念していた。


 日頃と違い、その坊主頭の上には羊皮紙でできた魔術記号入りの冠をかぶり、白い修道士服の胸には銀の五芒星ペンタグラム、左裾には仔牛の革で作られた六芒星ヘキサグラムの円盤が着けられている。


「――水域の公爵フォカロルよ! 我は聖なるアドナイの名において命じる!」


 甘ったるい香の煙が充満する部屋の中、とぐろを巻く蛇の同心円との五芒星ペンタグラム六芒星ヘキサグラムを組み合わせたカラフルな魔法円の中心に立つコラーオの前には、同じく床に描かれた三角形内の深緑の円の上に、海藻のような緑の長髪と銀色の鱗を持つ上半身裸の男が、〝グリフォン〟に跨った姿でふわふわと浮かんでいる。


「さあ、もっと風を吹かせよ! もっと波を立てよ! 吹き荒れる風と波で悪しき者どもを押し返し、その船を海の底へと沈めるのだ! 我は汝にその対価として、波間に漂う愚かなる魂を与えようぞ!」


 その半透明をした恐ろしい風貌の霊的存在に、コラーオはニワトコの木の魔法杖を突きつけながら、なおも声高に命じ続けた――。




「――マリオ? ……まあ、なんともキレイですわ……」


 そうしてマリオがコラーオの魔術儀式に思いを馳せていると、その船尾楼の入口から現れた一つの人影が、よく聞き慣れた声で場違いな台詞を口にする。


「お、お嬢さま……」


 それは案の定、イサベリーナだった。独りで待っている不安に耐え切れず、マリオの後を追って船長室から出て来てしまったのであろう。


「おお、イサベリーナか。おまえもよく見ておくがいい。この我らエルドラニアが誇る無敵艦隊の圧倒的勝利を!」


 愛娘の姿を見つけると、先刻は隠れていろと言ったこともすっかり忘れ、興奮したクルロスは自分の手柄のようにその勝ち戦を自慢する。


「お嬢さま、ご安心ください。襲って来た海賊どもはこの新兵器の大砲で完膚なきまでに叩きのめしましたゆえ。それも、こちらはまったくの無傷でですぞ? ハハハハハハ!」


 同じくパトロ提督もその完全勝利に気分をよくし、まるで美術品でも披露するかの如く、なおも闇に描かれる光の軌跡を大仰な素振りで指し示してみせる。


「この美しい緑の光が大砲の弾なんですの? ……では、あの遠くで燃えているのが海賊船なんですのね……わたくし達の船はまったく壊れていないですし、確かに大勝利ですわね!」


 そんな浮かれはしゃぐ二人に誘われ、その残酷なまでに美しい戦場の景色を船縁から眺めながら、イサベリーナも無邪気な笑顔を浮かべて素直な感想を述べる。


「………………」


「……? どしたんですのマリオ? 味方は一人も犠牲を出さずに海賊を追い払ったというのに、あまりうれしそうではありませんわね?」


 だが、そのとなりで浮かない表情をして海を見つめているマリオに気づき、イサベリーナは怪訝そうに小首を傾げながら尋ねた。


「……え? ……ええ……あの燃え盛る海賊船の一つ一つにも人間が乗っていると考えると……前にも言いましたが、いくら海賊とは言え彼らも人間ですからね……それに、こうした光景を見ていると、なんだか幼い頃に経験した故郷の戦争を思い出してしまって……」


 我に返り、彼女の問いに答えたマリオの脳裏には、幼き日に見た故郷の戦火が今ありありと浮かんでいる…… 。


 燃え盛る町、黒々と煙を上げる山の上の城、銃声と蹄の音を響かせながら暴れまわる兵士達に、行く当てもなく逃げ惑う力なき哀れな人々……。


 その地獄絵図を〝父〟と呼べる人に手を引かれて見た記憶は、忘れたくても忘れられない、深く心に刻み込まれた辛い思い出だ。


「マリオ…………」


 彼の見ているものを想像することすらイサベリーナにはできなかったが、それでもその面持ちから何かを察した彼女は、また無邪気にはしゃいでしまった自分を恥じつつも、かける言葉が見つからずに苦悶の表情を浮かべる。


「あの……海に投げ出された海賊達は助けないんですか?」


 そうして彼女が黙していると、再び口を開いたマリオが浮かれ気分のパトロ提督に尋ねた。


「……ああん? なぜ、そんなことをせねばならん」


 だが、勝利の美酒に水を差すようなその言葉に、パトロは邪魔臭そうにマリオの方を斜目に眺めながら、にべもなくそう答える。


「それは……一応、彼らも人間ですし……」


「フン。人間な……なんとも慈悲深き神の御心みこころにかなうお言葉だが、ヤツらは人間は人間でも救い難き愚かな悪人どもだ。他人様の船を襲って積荷を奪おうとしたのだから、返り討ちにあって海に沈むのも自業自得というものだ。それに、助けたところでヤツらに待っているのはどの道、〝縄〟だけだからな」


 歯切れ悪く言葉を選び、おそるおそる理由を答えるマリオに対して、提督はやはり面倒くさそうに顔をしかめながら、手で首に縄をかける仕草をして見せる。


「それは……そうかもしれませんが……」


 提督の残酷ではあるが論理的なその言葉に、マリオは何も反論することができなかった。


 結局、彼らに助かる道のないことは充分わかりつつも、どこか納得していない様子で彼は再び海の方へと視線を向ける。


「ああ、そうそう。付け加えておくと、コラーオ殿が召喚した水域の公爵フォカロルは船を転覆させては人を溺死させる殺人鬼だ。悪魔に力を借りておいて対価を払わんではこちらの身も危ないからな。さしずめ海賊どもは、かの悪魔への礼物といったところだ。ハハハハハ!」


「………………」


 思い出したようにそう言って、またも無慈悲な笑い声をあげる残忍な提督に、マリオは押し黙ったまま宵闇を這い行く緑の大蛇と、夜の波間に浮かぶ七つの灯をじっと見つめた……。

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