第Ⅱ章 新天地への旅路(3)

「ところで、あんな所でいったい何をなさっていたんですか?」


 一息吐くと木の床の上にへたり込み、ホっと胸を撫で下ろしているイサベリーナにマリオが当然の疑問を投げかける。


「……ええ? ああ、大したことではありませんわ。あまりにも夜景が綺麗だったので、もっと眺めのいい所から見てみようと思ったんですの。でも、登ったら怖くて降りられなくなってしまいまして……」


「なんというか、意外と活動的なお嬢さまなんですね……けど、それなら誰か助けを呼べばよかったんじゃないですか? 見張りの当番とか、誰かどうかそこら辺にいると思いますし……」


 そのあまりにも短絡的な理由に呆れた眼差しでお転婆なご令嬢を見つめるマリオだったが、もう一つ疑問が湧いたので重ねて尋ねてみる。


「だって、そんなことをして騒ぎが大きくなれば、お父さまにも知られて怒られてしまいますわ。淑女の振る舞いにはそぐわないとかなんとかこうとか、お父さまはわたくしのすることに一々うるさいんですの」


「ハァ……だったら最初っから登ったりしなきゃいいのに……」


 ますます持ってワガママなその理由に、マリオはさらに呆れ果てて大きな溜息を吐いた。


「というわけで、あなたが偶然通りかかって助かりましたわ。まあ、ほとんど自力で降りたんですけど、お礼を申しますわ。あなた、お名前は?」


 そうして先日見かけた時の第一印象を大きく軌道修正させられているマリオに、イサベリーナは思い出したかのように礼を言って、彼の名を尋ねる。


「……あ、はい。僕はマリオっていいます。この航海から働かせてもらうことになった水夫見習いです」


「まあ、まだ見習いさんでしたの。どおりで……確かに、わたくしと同じくらいの歳ですものね。わたくしの名前は…」


「イサベリーナ・デ・オバンデスさまですね。新総督さまのお嬢さまですから、もちろん存じています。出航の前にもお父さまとこの船を眺めていたところをお見かけしました」


 見習いと聞いて、その海の男とは思えない風貌にいろいろと納得し、今度は自分の方が名乗ろうとするイサベリーナだったが、その前にマリオが先に彼女の名前を答える。


「ああ、あの時に……わたくしも船に乗るのはこれが初めてでしたので、この船団を目にした時にはとても感動いたしましたわ。わたくし、お船で旅するのが夢だったんですの」


「そういえば、総督のご家族とはいえ、貴族のご令嬢が新天地に赴くのは珍しいですよね? 今回、どうしてお父さまについて行くことに? やっぱり船旅がしたかったからですか?」


 壮観なガウディールの港の景色を思い出し、目をキラキラと輝かせて語るイサベリーナに、マリオはふと、そんな素朴な疑問をまた感じて再び尋ねた。


「もちろんそれもありますけど、新天地で暮らすのもわたくしの夢だったんですの。お母さまやお姉さま達はそんな野蛮な所、死んでも行くのは嫌だと言っていましたけれど、新天地には見たこともないような動物や草花、想像を絶するような景色が溢れていると聞きましたわ。きっとすばらしい生活が待っているに違いありませんわ」


「すばらしい生活ねえ……お母さまの言う通り、貴族のご令嬢でしたら、エルドラニア本国にいた方が何不自由ない生活が送れると思いますけどねえ」


「何不自由のない……か。やっぱり、あなたもそう思われますのね」


 イサベリーナの少々現実離れした夢見がちな発言に、庶民的な視点からの感想を漏らすマリオだったが、すると彼女は不意にその表情を曇らせ、目を伏せて淋しそうな声で呟く。


「皆さまの目からはそう見えるのかもしれないですけれど、貴族の暮らしなんてつまらないものですわ。それでも殿方ならまだいいかもしれませんが、貴族の家に生まれた婦女子なんて、あれをしてはダメ、これはしてはダメと、なんでもかんでもダメダメダメ。することといったら夜ごとつまらないパーティーに出るか、淑女になるためのお勉強だけ。好きに外を出歩くことすらできませんし、まったく自由がありませんの。まさに籠の中の鳥ですわ」


「籠の鳥……なるほど。一見、恵まれてるように見えて、貴族さまにも不自由があったというわけですね」


「ええ。それは確かにエルドラニアにいた方が最新のお洋服を着れますし、洗練されたおいしいお料理を食べられるかもしれませんけど、やっぱりそこに自由はありませんわ。だから、わたくしは少しでも自由のある新天地へ行って暮らしてみたいんですの。それが、わたくしがこの船に乗った理由です」


「そうでしたか……すみません。なんか、デリカシーのないこと言っちゃったみたいで……」


 思いもよらず、人知れぬ令嬢の悩みをとうとうと語って聞かせるイサベリーナに、図らずも彼女の心の内を知ってしまったマリオはバツが悪そうに眉根を寄せて謝った。


「いいえ構いませんわ。あなた方庶民の皆さまはそう思っているのが普通ですもの……そういうあなたはどうして船乗りになろうと思いましたの? これまではどういったお暮らしを?」


 しかし、イサベリーナは特に怒っている様子もなく、今度はマリオの事情について尋ねる。


「うーん……僕は今とあんまし変わらないですね。父は医者だったんですが、少し前までは一緒に旅をして暮らしてました。その父も亡くなって、母も幼い頃に亡くしてましたし、しばらくはブラブラしていたんですけど、心機一転、海にでも出て新しい生き方でも始めようかなと」


「まあ、すみません。わたくしの方こそ悪いことを訊いてしまいましたね」


「いいえ。もうずいぶんと前のことですから……だから、僕もお嬢さまと同じです。自由のない古い世界から自由のある海の外へ飛び出したってところですかね?」


 先程のマリオと入れ代わるようにイサベリーナも申し訳なさそうに謝ると、彼も気を悪くした様子はなく、どこか淋しげな微笑みを湛えてそう答える。


「わたくし達、なんだか似た者同士のようですわね……そうですわ! マリオ、わたくしのお友達になってくださいませんこと?」


 そんなマリオに彼女も表情を綻ばすと、思い付いたように明るい声を上げた。


「え? 僕とお嬢さまがですか? ……い、いや、でも、お嬢さまは総督のご令嬢ですし、僕は一介の水夫見習いですから……」


「そんなこと関係ありませんわ。ついて来た色惚けの侍女達は、わたくしのことなんかそっちのけでイケメンの船乗りを追い駆け回してますし、他も周りはみんな大人ばかりで同じ歳頃の者もおらず……新天地までの長い船旅、ちょうど同世代のお友達が欲しいと思っていたところですの! お友達がいた方が楽しい旅になるとあなたも思いませんこと?」


 イサベリーナの無邪気な頼みを身分の差を理由に断ろうとするマリオであるが、そうした習わしにこだわらないこの貴族のご令嬢は、その良い思いつきをけして諦めようとしない。


「それはまあ、そうですが……けど、やっぱり僕とお嬢さまとでは住む世界が違うといいますか、身分が釣り合わないといいましょうか……」


「それではこうしましょう……水夫見習いマリオ、サント・ミゲル総督の娘として命令します。わたくしのお友達になりなさい。それほど身分にこだわるというのでしたら、わたくしの命令を聞かないわけにはいきませんわよね?」


 さらには身分の差を逆手に取り、頼んでもダメなら命令してでも目的を達成しようとする。


「…………ハァ…わかりました。謹んでお友達にならせていただきます」


 そんな押しの強さにマリオも屈伏し、深く大きな溜息を吐いてから、やむなくその願いを聞き入れることにした。


「では友情の証として、まずは握手をしていただけませんこと? 先程も申しましたけど、婦女子に手を差し伸べるのは殿方の義務でしてよ?」


 望み通り友達になってくれた……というか、強引に友人としたマリオに満足げな笑みを浮かべると、イサベリーナはそう言って彼の方へと右手を伸ばす。


「……ん? ああ、スミマセン! 気がつきませんで……」


 ふと見れば、彼女はシュラウドを降りてからというもの、硬くて冷たい甲板の上に座り込んだままとなっている。


「新天地までの船路、よろしくお願いいたしますわ」


「はい。こちらこそ……」


 マリオもイサベリーナの方へ右手を伸ばすと、彼女の細くて艶やかな手を取って引き起こしながら、なんとも奇妙な友情の握手を交わした。

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