第Ⅱ章 新天地への旅路(2)

 それより三日後の夜。


 禁書の秘鍵団の遥か後方を新天地へと向けて進む、『大奥義書』を載せたエルドラニアの護送船団では……。


「――ハァ……出航一日目にしてもくたくただよ……こんなにこき使われるとは思わなかったよお……」


 蒼い月明かりに照らされた旗艦サント・エルスムス号の上甲板をフラフラと歩きながら、大きな溜息混じりにマリオが嘆いていた。


「こんなんじゃ、ほんとに新天地までもたない気がしてきたよ。やっぱり、僕には海の男的な仕事向いてないかもしれない……」


 ようやく本日の仕事から解放された水夫見習いのマリオは、肉体労働でヘロヘロになったその身を波飛沫の染み込んだ船縁にもたれかけ、冷たい海風に吹かれながらさらに嘆く。


 遠く大陸を離れた夜の海はいたって静かであり、わずかに雲の浮く空には蒼白い半月と、無数に瞬く銀河の星々が輝いている……。


 その優しく朧げな光に映し出される大海原はなんとも美しい光景ではあるが、確かに小柄でひ弱な彼の体力では、この先、一抹の不安を覚えても致し方のないことかもしれない。


「……キャっ……あうっ……」


 だがその時、マリオの後頭部の上の方で、小さな女性の叫び声が微かに聞こえる。


「…? ……誰かそこにいるの?」


 その場違いな悲鳴に驚いたマリオは後を振り返り、声のした上方を目を凝らして覗ってみる。


 すると、背後のマストにかかるシュラウドの中程に、夜の闇に紛れて一人の女性らしきものの影が見えた。


「んん? …………もしかして、イサベリーナお嬢さまですか?」


 さらに目を細めてその人影を見つめていると、徐々に淡い黄色のドレスを着た、うら若き乙女の姿が現れてくる。


 こんな時間にこんな場所でお目にかかるとは思えない人物であるが、それは先日、出航前のガウディールの港で偶然見かけた、あの美しい新総督のご令嬢である。


「…ハッ! あ、あなた、ちょうどいい所に通りかかりましたわ。申し訳ないですけど、助けてくださいませんこと?」


 すると、マリオの声に向こうもその存在に気づき、なぜだかひそめた声で助けを求めてくる。


「ああ、やっぱりお嬢さまだ。そんな所で~! いったい何をしてるんですか~っ?」


「シーっ! そんな大きな声を出しては他の者に気付かれますわ。もっと小さな声でしゃべっていただけませんこと」


 間違いなくイサベリーナだとわかり、離れた場所の彼女にも聞こえるよう、声を張り上げて尋ねるマリオだったが、ご令嬢はなおボリュームを絞って、大声を出さぬよう注意をする。


「とにかく! 早くここから降ろしてくださいませんこと?」


「あ、はいはい。ただいま……あ、でも僕、体力ないし、抱えて降りるのは無理だな……」


 そして、小さな声ながらも語気は強く催促する彼女に、反射的に返事をしてシュラウドに取りつくマリオだったが、自身の肉体的スペックを思い出すと、その場で考え込んでしまう。


「何をしてるんですの? 早く! 誰か来る前に降ろして! 殿方なら婦女子を助けるのが当然の務めでしてよ!」


「……うん。よし、この手でいこう。お嬢さま、すぐに参りますので待っててくださ~い」


 段々とイライラしてきたらしく、とても助けを求めているようには思えない高飛車な態度で催促をするご令嬢に、それでもマリオはマイペースに一人頷くと、落とした声でそう叫びながら縄梯子状のロープを登り始めた。


「…んしょっと……ふぅ…では、お嬢さま、ゆっくりと降りますよ? 僕と同じように体を動かしてください。まずは右足をロープから外して下に伸ばして…」


 肉体労働は苦手だが、どうやらシュラウドを登るのには慣れているらしく、すぐにイサベリーナのとなりまで来ると、マリオはそう言って彼女に降り方のレクチャーをし始める。


「えっ? わたくしを抱えて降りてはくださりませんの?」


 当然、その予想外の言動に面食らい、月影に黒く輝く瞳を真ん丸くして尋ねるイサベリーナだったが……。


「よく見てください。僕にそんな芸当ができると思います?」


 言われてよくよく観察してみると、確かにこの小柄で子供のような体型をした少年では、自分を下まで抱えて行くことは到底無理そうである。


 もしそんなことしたら、たぶん途中で二人して甲板に垂直落下だ。


「そのようですわね……仕方ありませんわ。絶対に危なくないよう、ちゃんと教えてくださいますこと?」


「ええ、もちろん。ゆっくり降りれば全然大丈夫ですから。はい、まずは右足から」


 やむなくイサベリーナはマリオの指導のもと、結局は自力で降りることにした。


「右足を伸ばしたら、下の段にかけると……ひいっ!」


「ああ、下を見ないようにしてください。そうすれば怖くないですよ? 大丈夫、僕がちゃんと足元は見てますから」


 遥か下に見える甲板にその顔を青ざめさせながらも、蜘蛛の巣に張り付いた虫のように二人はゆっくりと縄梯子を下って行く。


「――はぁ~……ようやく地上へ戻れましたわ」


「細かいツッコミをすると、ここは地上ではなく海の上なんですけどね」


 身体能力は低くともその教え方はよかったようであり そうしてイサベリーナはマリオに助けられ、なんとか無事、シュラウドを降りることができた。


※挿絵↓

https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330669169790756


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