第Ⅷ章 海賊の理由

第Ⅷ章 海賊の理由(1)

 その頃、すっかり忘れられた感のあるイサベリーナはというと、大砲の弾が飛んで来るばかりか、直に海賊まで乗り込んで来るという恐ろしい〝本物の〟海戦を避け、前回同様、最も安全と思われる船尾楼奥の船長室へと足を向けていた。


 マリオは、またわたくしのことを探してくれているのかしら? ……ひょっとしたら、また、わたくしがいると思って船長室に……。


 船体を震わす砲撃の音や、たくさんの叫び声が外の甲板より響いてくる中、心細くもイサベリーナは淡い期待を抱き、その手に鍵を握りしめながら船尾楼の中を急ぐ。


「…ハァ……ハァ……あら? 明かりが……」


 わずかな照明だけが灯る薄暗い廊下を、息せく船長室前にたどり着いた彼女だったが、するとなぜかその窓からは淡いオレンジ色の光が漏れ出している。


「もしかしてマリオが……でも、鍵はどうしたのかしら?」


 そんな期待と疑念を抱きながらドアノブに手を伸ばすと、この前の一件でかけるようになっていた鍵はやはり施錠されておらず、少し力を込めただけでガチャリと簡単に回ってしまう。


「ああ、きっと提督がかけ忘れたんですのね。マリオ…!」


 その不可解な状況にそんな都合のよい解釈を下し、パッと顔色を明るくしてドアを開いたイサベリーナだったが。


 ……な、なんですの? ……か、体が……動かないですわ……。


 一歩足を踏み入れた瞬間、彼女の体は石のように固まって、指一本動かせなくなってしまう。


 ……! ……ま、マリオ…?


 だが、見開かれたまま固まってしまったその瞳には、部屋の中の様子が克明に映る……。


 最初に目を捉えたのは、提督の机の上に置かれた奇妙な燭台だ。それはグーに握られた人間の手のような形をしており、その中指と薬指の間に火を灯した蝋燭が挟まって立っている。


 また、室内を照らす明かりはそればかりでなく、床にも幾本もの蝋燭が立てられて細い炎を揺らしていたが、その仄かな明かりの中に浮かんで見えたのはさらに驚くべきものであった。


 蝋燭の立つ木の床にはナイフか何かを使って幾つかの同心円とそれを囲む四角形が描かれ、四つの頂点に香炉が置かれると、各々の線の間にはなにやら奇妙な文字と記号が刻まれている…… 。


 そして、甘い香の煙が鼻腔をかすめる空間の中、その円の中心には右手にナイフ、左手に円形の金属板を持ったマリオが奥の方を向いて立っていた。


 ……マリオ、こんなところでいったい何を…ハッ…!


 否、そこにいたのは彼ばかりではない。


 彼の前には半透明をした、大きなコウノトリのような得体の知れないものが宙に浮かんでいる。


 だが、それと対峙するマリオは特に驚くでも恐怖に顔を強張らせるでもなく、むしろなんだか愉しげに微かな笑みまで浮かべている。


「…ん? やあ、こんばんは、イサベリーナお嬢さま。やっぱりここへ避難して来たんだね。そいつを灯しといてよかったよ」


 心の内では驚愕と混乱に今にも叫び出したい気分でいながらも、明るい顔色で硬直したまままったく動けないイサベリーナであるが、そんな彼女に気づいたマリオはいつもの穏やかな笑顔で振り返り、常日頃のように挨拶すると提督の机の方を眼で指し示す。


「そいつはね、魔導書『小アルベール』に載ってる〝栄光の手〟っていう罪人の手を乾かして作った燭台でね。その灯を見た者は動けなくなってしまうんだ。盗人には大人気の代物だね……ああ、ちなみにこの部屋の鍵は『ソロモン王の鍵』にある〝月の第一のペンタクル〟を使って開錠させてもらったよ」


 そして、目の玉を動かせないながらも彼の視線を追うイサベリーナに、無論、それも気になることではあるが、それが一番訊きたいことでもない疑問を彼は説明してくれる。


「動けなくて辛いと思うけど、もうちょっとだけ待っててくれるかな……さあ、シャックス。邪魔が入ったから急いでやってくれ」


 しかし、彼はそのままイサベリーナを捨て置き、再びコウノトリっぽいモノの方へ顔を向けると、さも人間に接するのと同じように得体の知れないそれと話し始めた。


「だから言ってるだろう? 俺っちはそんな泥棒みたいな真似できねえって」


「まったく、ほんと嘘しか吐かないやつだな。おまえが泥棒みたいどころか、悪魔界でも一、二の腕前を誇る泥棒だってのは周知の事実だって。ま、勇猛公ナベリウスの番犬と獅子公ヴァプラの細工で作られた金庫じゃ、さすがのおまえでも破るのは難しいかもしれないけどさ」


 しわがれた不気味な声で言い訳をするコウノトリに、マリオは残念そうに肩をすくめながら、そのプライドを利用して説得を試みる。


「はぁ! 破るのは難しいって? 誰に向かって言ってんだ! この掠奪候シャックスさまの腕にかかれば、ナベリウスの犬とヴァプラの野郎の金庫なんざチョチョイのチョイだぜ!」


「なら、改めて言うよ? ソロモン王の悪魔序列44番〝掠奪候シャックス〟よ、アドナイの名において我は命じる! その封印の箱を解き放ち、我にその秘められし財宝を与えよ!」


 その作戦が功を奏したらしく、どうやら悪魔であるらしいコウノトリは意地になって張り合い、いつもとはどこか違う雰囲気を漂わせるマリオはその好機を逃さずに命令を与える。


「ああ、なんなら財宝を守る霊を追い払う、この〝木星の第七のペンタクル〝で手伝おうか?」


「ヘン! そんなものいらねえよ。そこまで言うんならやってやろうじゃねえか……」


 加えて肩にかけた袋からまた別の金属円盤を取り出して見せるマリオに、その〝シャックス〟というらしいコウノトリは吐き捨てるように答えながら、バサバサと羽ばたいて例のケルベロスの乗った金庫へと近づく。


「ガルルルル…ワン! ワン! ワン! ワン…!」


 すると、以前、イサベリーナ達が忍び込んだ時と同じように、その犬の剥製の三つ首が一斉にけたたましく吠え始める。


「ほら、イヌっコロはこれでも食ってろ」


 だが、トリ悪魔は微塵も怯むことなく、どこからか太い三本の骨を取り出すと、三つそれぞれの口にポンと放り込んでそれを噛ませた。


「ワン! ガブ……ング? アウ…クゥゥゥゥゥン…」


 ケルベロスといえど、犬にとっては大好物のそれに夢中でむしゃぶりつく三つ首だったが、わずか後、その3匹…というか1匹? の猛犬は不意に目を白黒とさせ、切なげな声を上げてぐったりとしてしまう。


「ほう…静かになった。何をしたんだい?」


「なあに、こいつらの味覚と嗅覚をちょっくら弄ってやったのよ。鼻の利くイヌっコロにはキツイ刺激的な風味がするようにな。さて、お次はヴァプラの野郎のカラクリだ……」


 その様子に感心して尋ねるマリオに、シャックスは少々自慢げな口調でそう答えながら、引き続きその犬の剥製の下にある、表面いっぱいに無数の鍵穴が開いた鋼鉄製の箱を調べ始める。


「ったく、余計な小細工加えやがって、ほんと無駄に器用な野郎だな……施錠の機構は物質的にも精巧にできてやがる。こいつは実物の鍵がねえと少々厄介だぜ?」


「ああ、それならここにあるよ。はい」


 両の翼で捏ね繰り回すようにその金庫を調べ、いかにも苦々しい様子の声で文句をつけるコウノトリに、マリオは準備万端、すでに机の引き出しから拝借していた鍵を差し出す。


「なんだ。あんじゃねえか。んなら最初っからそう言いやがれってんだ……ほらよ、これで本物がどれかわかんだろ?」


 あっさり解決した問題に悪態を吐きながらも、シャックスはその眼を赤く輝かせ、その箱にかけられていた〝ヴァプラ〟の魔力を取り払う。


 すると、それまで鍵穴に見えていたものはただの模様となり、一つだけ本物の鍵穴が正面の左下端にあるのがわかるようになった。


「ああ、こんなとこにほんとの鍵穴があったんだね。確かに魔術抜きでもよくできた代物だよ。それじゃ、ようやくのご対面といこうか……」


 今度は金庫の方に感心しつつ悪魔に答えると、マリオはさっそくそこに鍵を挿し込んで、カチャリと小さな音を立てながらそれを回す。


「おお! これがかの有名な『大奥義書グラン・グリモア』、またの名を『赤い龍』かあ……実際、こうして目の前にするとさすがに緊張するなあ……」


 続いて上蓋を押し上げると開錠されたそれはなんなく開き、黒いシルク生地の張られた箱の中には、『Le Grand Grimoire』と金字で書かれた古い赤革表紙の本が納められていた。


「おっと、そんな悠長に感動してる場合でもなかったな……シャックス、ありがとう。もう帰っていいよ。ああ、一応、言っとくね。永遠に終わりなき第一者の名によりて帰るがよい」


 第一級の禁じられた魔導書を前に思わず感慨に浸ってしまうマリオだったが、状況を思い出すと素早くその本を取り出し、なんだかやっつけ仕事的にコウノトリの悪魔へ帰るよう命じる。


「一応ってなんだよ? ケッ…まったくいい加減な野郎に使われちまったぜ……」


「さてと。お待たせしましたお嬢さま。悪かったね。今、自由にしてあげるよ、フッ…」


 雑な儀式の終わらせ方にまたも悪態を吐きながら、半透明のコウノトリが闇に溶け込むかのようにしてその場から消え去ると、脇に『大奥義書』を携えたマリオは提督の机へと歩みより、例の手の形をした燭台の灯を一息で躊躇いもなく吹き消す。


「…ハッ! う、動けますわ! ……いいえ! そんなことよりもマリオ、いったいここで何をなさっているの? 今の変な鳥といい、あなたはいったい……」


 すると、不意にイサベリーナは体の自由を取り戻し、一瞬、そのことに安堵しながらも、ひどく混乱している様子で目の前のよく知る少年に詰め寄る。


「ごめんね、イサベリーナお嬢さま。僕の本当の名前はマリオじゃない……僕はマルク・デ・スファラニア、〝禁書の秘鍵団〟の船長カピタンさ。悪いけど、こいつはいただいて行くよ」


 だが、よく知っていたはずのその友人は穏やかな笑みを湛えたまま、盗み出した『大奥義書』を手に驚くべき告白をするのだった。

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