第Ⅵ章 偽りの船影(3)
翌晩、エルドラーニャ島サント・ミゲル、オクサマ要塞近海……。
「――もうソロソロ向こうニモ気付かれる距離ネ~!」
フォアマストの先で見張りにつく露華が、遠く黒山のような巨影にオレンジ色の光がチラチラと灯る城砦を眺め、作戦開始の時を待つ仲間達に大声で告げる。
その突き出した岬の奥に広がる静かな入り江には、さらに多くの灯が明るく無数に瞬き、たくさんの商船が停泊するサント・ミゲルの港町も覗える。
「よし。それじゃあ、みんな、予定通りによろしくね。リュカは砲撃準備。マリアンネは船長室で召喚儀式を始めておくれ」
「おうよ!」
「う、うん!」
露華の報告に、メインマストの前に座るマルクが指示を出すと、リュカとマリアンネは急いで各々の持ち場へと駆けて行く……。
また、魔術担当となったマリアンネに代わって操舵輪はサウロが握り、ラテンセイルと横帆はドン・キホルテスとマリアンネのゴーレム・ゴリアテが索具を握って操作している。
「向こうにも本気に思ってもらわねえと困るからな。こいつを派手にぶちかませてやるぜ……」
船首へと向かったリュカはそこに据え付けられているカノン砲の口へ、傍らに用意しておいた丸い砲弾を押し込める。
表面に円形の印章が線刻されたそれは、事前にマルクが悪魔の力を宿しておいた特別な砲弾である。
「ハァ…悪魔の召喚なんて緊張するなあ……」
一方、船尾楼の奥にある船長室へ入ったマリアンネは、不安そうな面持ちで大きな溜息を吐いていた。
今夜のマリアンネはいつもと違い、何やらいろいろと入った帆布製の鞄を肩にかけると、左胸に
また、いつもは開けっぴろげなその部屋の様子も普段とは異なり、唯一、外界に開かれていた正面奥の窓はビロードの厚いカーテンで覆われ、甘い香の煙が充満する密閉空間の濃厚な暗闇を、燭台に灯された蝋燭の明かりだけが幻想的に照らし出している。
下に目を向ければ、床には一面を覆い尽すほどに大きな絨毯が敷かれ、その上にとぐろを巻く蛇の同心円と
さらにその前方には深緑の円を内包する三角形が記されており、それはまさしく魔法修士コラーオが使っていたものと同じ〝ソロモン王の魔法円〟である。
「でも、ここで逃げたら錬金
初めての魔術儀式に弱気な表情を見せるマリアンネだったが、それでも両の拳を胸の前でギュッと握りしめると、机に置かれた聖水入りの壺と、散水器であるヒソップの一枝を手に取る。
「魔法円清めるのって、どのくらい撒けばいいんだろ?」
そして、壺に浸したヒソップの枝を振って聖水を魔法円の上に撒くと、ソロモン王の72柱の悪魔を召喚する儀式をおそるおそる開始した。
「えっと、先ずはラッパを吹くと……はぁーっ…」
聖水の壺とヒソップの枝を机に戻したマリアンネは、代わりに『Goetia』と書かれた黒い革表紙の魔導書と木製のラッパを手に取り、魔法円の中央に描かれた赤い四角形の上に立つと、魔導書のそのページを眺めながら思いっきりラッパをプゥゥゥゥゥゥ~っ…! と吹き鳴らす。
「で、次にペンタクルを掲げて、いよいよ召喚の呪文と……えっと……れ、霊よ、現れよ。偉大な神の徳と、知恵と……じ、慈愛によってぇ……わ、我は汝に命ずる。汝、海洋公ヴェパル!」
続いて、肩かけ鞄にラッパをしまい、胸のものとはまた違う図像の金属円板を中から取り出すと、極度の緊張に震える声で魔導書に書かれた呪文をぎこちない調子で読み上げた。
「………………あれ?」
だが、船長室の中はしんと静まり返ったまま、何かが起こるような気配はない。
「え、えっとぉ……そういう時は、ナイフも持ってぇ……」
〝通常の召喚呪〟ではうまくいかなかったため、マリアンネはマルクの貸し与えた魔術用ナイフも取り出し、左手にペンタクル、右手に剣を携えて〝さらに強力な召喚呪〟を唱える。
「霊よ、我は再度、汝を召喚する。神の呼び名の中で最も力あるエルの名を用いて! 汝、ソロモン王の72柱の悪魔の内、序列第42番、海洋公ヴェパルよ!」
今度は一度目よりも滑らかに、それっぽい感じを出して詠唱のできたマリアンネであるが、やはりこれといった変化も見られず、船長室の中はいたって静かなものである。
「うく……これでもダメか。それなら次は……」
だが、そうして彼女が苦い顔をして、さらに強力な手段に出ようとした時のことだった。
「……ん?」
前方に描かれた三角形の上に、なにやらボコボコ…と水面に湧き出した泡のようなものが見え始める。
「うわわわぁっ!」
そして、見る間にその泡は溢れ出す大量の水となり、突如、ドパァアァァァァーン! …と天井まで噴き上がった巨大な水柱に、マリアンネは思わず悲鳴を上げて尻餅を搗いてしまう。
「…………な、なに?」
尻餅を搗いたまま、唖然とした顔でマリアンネが見つめる中、その水柱は徐々に形を変え始め、やがて長く麗しい緑の髪に海藻を絡ませた裸体の女性…否、下半身は魚のそれをした半透明の人魚の姿となる。
その下半身を覆うエメラルド色の鱗は銀に縁どられ、白く細い指の隙間には水かき、艶っぽい耳の後にはエラも見える、美しくもどこか恐ろしげな女性の人魚だ。
「……………に、人魚?」
「はぁあ、マジだるぅ……あたしぃ、海洋公ヴェパルだけど。なに、呼び出したのあんたぁ?」
突然の出来事に、まだなお呆然と座り込むマリアンネに対して、三角形内の深緑の円の上に浮かんだその人魚は、気怠そうに彼女を見下ろしながらそう口を開いた……。
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