第25話 囚われた王女

 フォルナリーナを乗せたドラクの快速帆船ディレニアは早くもゼーゲル湾を出て、メインセイルを高く掲げて東に進路を変えつつあった。


「ああ、もう動き出しちゃったか……」


 船底から伝わってくるきしみ音を耳にして、彼女は薄暗がりの中で大きなため息をついた。

 すでに両手足の戒めは解かれていたが、閉じ込められた船倉の扉は固く閉ざされ、天井近くにあるたった一つの小窓も、ささやかな明かり取り以上の役目を果たしてはいない。

 身動きするのも難しいほど狭い船倉には、油と海産物のすえた臭いが立ちこめ、うっかり深呼吸でもしようものなら、次の瞬間オエッと吐き気をもよおすほどだった。

 彼女はきつく縛られたために赤く擦りむけてヒリヒリする手首をさすりながら、滝にのみ込まれる最後の瞬間を鮮明に思い返していた。





 なすすべもなく滝に飲み込まれ、いよいよどんな抵抗も不可能だと悟った祐樹は、ボートが空中に投げ出される直前にフォルナリーナをきつく抱きしめた。


「えっ!?」


 彼は思いがけない彼の行動にそれ以上の言葉を発せず硬直するフォルナリーナの頭を抱え込み、そのままボートを蹴って空中に飛び出した。だが、不幸なことに滝の半ばに岩棚が大きく張り出しており、叩きつけられた衝撃でボートは粉々に砕け散った。

 次の瞬間、フォルナリーナを抱えたままの祐樹も背中から岩棚に叩きつけられた。

 祐樹は「うっ」というくぐもったうめき声と共に彼女を放り出すように手足を伸ばし、そのまま激流に飲まれるように滝壺に落ちていった。

 偶然祐樹に投げ出される形になったフォルナリーナ自身は、滝壺からわずかに離れた場所に着水したが、その先はまったく覚えていない。

 どうやら水面にたたきつけられたショックで気を失ってしまったらしい。

 再び意識を取り戻した時にはすでに川岸に引き上げられ、数人のドラク兵士にとり囲まれていた。兵士達はほとんど口を開くことはなく、びしょ濡れの彼女にこれみよがしに剣を突きつけ、「抵抗すれば殺す」とだけ告げた。

 フォルナリーナは彼らの手荒な扱いに怯えつつも、祐樹のことを考えることで心の平静を保とうとしていた。

 彼の温かい笑顔、時折見せる真剣な表情。そして最後の一瞬に見た彼の瞳の強さを思い出すたび、彼が無事であると信じたい気持ちが強まる。

 彼女は、どんな困難が待ち受けていようとも、祐樹との再会を果たすため、決して希望を失わないことを自分に課した。

 間を置かず川船が現れ、フォルナリーナは兵士に引きずられるように船に乗せられた。

 兵士たちの交わす短い会話から、このままマヤピス川を下り、港湾都市ゼーゲルに向かうことがわかった。

 丸一日半、船は何事もなく川を下り続けたが、両岸にポツポツと民家が見えるようになると日中は船を停め、葦原に隠れて人の目を避けた。

 三日目の夜明けごろ、川幅が急に広くなり、フォルナリーナの鼻にも潮風が感じられるようになったころ、川霧の向こうに大きな建物の影が見え始める。


「ゼーゲルだ」


 リーダーらしき男が、一言だけ彼女に告げた。

 マヤピス河口最大の街、ゼーゲルの港には、フォルナリーナもかすかに見覚えのある大型の帆船が待ち構えていた。アーネアス王の時代に建造され、快速貿易船として大陸の各国を周航していた王室傭船ディレニアだった。

 だが、幼い頃に見た優美なディレニアのイメージと、目の前の大型船とはすぐに結びつかなかった。船体全部が黒く塗り潰され、舷側に巨大な大砲がずらりと並ぶ、醜い軍船に変わり果てていたからだ。

 だが、そんなディレニアの変わり果てた姿をじっくり観察する間もなく、彼女は船底の倉庫に荒々しく放り込まれ、そのまま一夜を過ごすことになった。





 夜明けを待って出航したディレニアは、一路ドラク帝国の首都メンドラクへと帆走を開始した。他に貨物が積み込まれた気配はなく、ディレニアの今回の最重要任務がフォルナリーナの護送であることははっきりしていた。

 フォルナリーナは自分の正体が既にばれている事にも気付いていた。彼女がペンダスで使っていた偽名はもちろん、彼女の本名さえ兵士たちが何度も口にしたからだ。

 おそらく、彼女たちがマヤピスに入った瞬間から、何者かに監視されていたのに違いない。

 そして、ドラク帝国が彼女を捕らえた理由は、おそらくアーネアス王家の血を引く彼女の存在が、ドラクの支配に何らかの脅威となるからだろう。

 しかし、不思議な事にさほど恐怖心は沸いてこなかった。

 彼女は祐樹の顔を思い浮かべていた。強く抱きしめられ、最後に見上げた彼の顔にはいつもの自信なさげな表情が浮かんでいたものの、その瞳には確かに力があったと思う。

 ボートが粉々になったあの絶望的な光景を目撃してさえ、彼女は祐樹が生きていることを信じて疑わなかった。いや、すがりたかったのかも知れない。


「……きっと大丈夫。……だって、約束したんだから」


 しばらくすると、扉が開き、粗野な船員が彼女に水と硬いパンを差し出した。彼は何も言わずに立ち去ったが、その一瞬の接触が彼女に外界とのつながりを感じさせ、わずかな希望を与えた。


「これからどうなるのかしら」


 フォルナリーナは薄暗い船倉の中で、これからのことを考え始めた。

 自分がドラク帝国に連行される理由、そして彼らの目的について思いを巡らせる。 

 元王女である自分の身分を、彼らが特別重要視していることは聞こえてくるやりとりからもわかっていたが、それが、具体的に帝国に何をもたらすことになるのか、それはまだはっきりわからない。


「……大丈夫、大丈夫。約束したから」


 フォルナリーナは自分自身に信じ込ませるように言い聞かせる。

 祐樹と再会し、再び二人と一匹の旅が再開されるまで、祐樹の顔を、あの瞳の色を決して忘れない。忘れたくない。

 そう心に念じながら。


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