第3話 新しい出会い

「祐、相席いいか?」


 だが、突然声をかけられて我に返った。

 中腰のまま、実に中途半端な表情で振り返った彼に、ミネラルウォーターのコップが載ったトレイを持たマスターが怪訝な表情を向ける。


「おまえ、大丈夫か?」

「……あ、黒猫が……」

「黒猫?」


 マスターの言葉に視線を戻すが、一瞬目を離した隙に、黒猫はどこへともなく姿を消していた。


「では、どうぞ」


  マスターの声に促され、彼の後ろから制服姿の小柄なOLが進み出た。

 白いサマーカーディガンの下からのぞくライムグリーンの落ち着いた制服。確か、駅ビルに入っている書店の制服だったはずだ。

 彼女は祐樹に向けてかすかに微笑む。

 まるでムースに添えられた一葉のミントのように、かわいらしい、というより、涼しげで、しかも凛とした雰囲気が似合いの美人だった。

「混んでてすいませんね。いや、彼の事は気にしないで下さい。噛み付きゃしません。ま、一風変わった動くインテリアだとでも思っていただければ」

 彼女がクスリと笑って小さくおじぎをした。祐樹はむすっとした顔で腰をおろす。


「特製ミックスサンドをお願いします。あとコーヒーも」

「コーヒーは当店よりサービスさせていただきます。むっさい男とご相席いただいたせめてものおわびです」

「マスター!」


 マスターはうなり声を上げる祐樹に向かって舌を出すとさっさと逃げていった。


「すいません、おくつろぎのところにお邪魔して」


 彼女はテーブルの上に伏せた本をチラリと見やり、祐樹の想像どおりの涼しげな声でそう詫びると、ぺこりと頭を下げた。慌てて祐樹は首を横に振る。


「いえ、構いません、マスターの言うとおり気にしないで下さい。それより、これからお昼ですか? 遅いですよね?」

「ええ、社食があんまり混んでたので。本当はいけないんだけど、制服のままで出て来てしまいました」


 そのままいたずらっぽく笑う彼女の両頬に小さなえくぼが浮かぶ。


「お待たせしました、ごゆっくりどうぞ」


 マスターが再び現れた。祐樹がずいと差し出したカップにいかにも嫌々といった仕草でコーヒーを継ぎ足すと、彼女には見えない位置で、〝いけいけ!〟というように手を振り上げる。

 祐樹はそれを胡乱な目つきで無視すると、再び読みかけの本に視線を戻す。いくらなんでも、失恋直後にほかの女性に話しかけるような図々しさは持ち合わせていない。

 いや、それができるようならそもそも失恋なんてしていない。

 それっきり、静寂が二人のまわりを支配した。

 彼女は静かに食事を続ける。

 祐樹も本に意識を戻そうと努力はしたが、目の前の様子に気を取られ、いつしかぼーっと彼女の仕草を眺めていた。

 というか、この店のサンドウィッチは常識外れのボリュームで、崩さずに食べるのはかなり難しいのだ。ナイフとフォークを巧みに使い、これほど上品にミックスサンドを食べる人を祐樹は初めて見た。


「何か?」

「あ、いえ」


 きょとんとした表情で問われ、頭を掻きながら慌てて目を逸らす。だが今度は彼女から話しかけてきた。  


「それ、ひどいんですか」


 彼女は祐樹の左ひじを上目遣いに見つめながら不意に尋ねた。腕まくりをしていたせいで、昨夜自分で適当に巻いた包帯の端がのぞいていたのだ。


「あ、これ? いや、ちょっと」

 さすがに真相を素直に話すのは恥ずかしく、赤面した祐樹は思わず言葉を濁した。が、


「バイクで転んだんですよね?」

「はい。えっ?! これはあの——」

「猫を避けたんですよね?」

「え、ええ!? でも、なぜそれを?」

「当事者に確かめましたから」


 彼女は当然の事の様に平然と答えると、ミックスサンドの最後のひとかけを口に放り込んだ。形のいい唇を小さな舌でぺろっとなめると、いたずらっ子のようなほほえみを浮かべる。


「当事者って、俺以外に……まさかあのネコぉ?」


 彼女の言葉の意味がわからず、思わず変な声が出た。


「ところで……」


 彼女は不意に表情を引き締めると、


「大変ぶしつけな質問ですが、お母さまはお元気でしょうか?」

「は?」


 唐突にそう訊ねてきた。まったくかみ合わない会話に祐樹は困惑する。


「はあ、いえ、もう三年ほど前に他界しましたが…母をご存じで?」

「はい……あ、いいえ。直接には……」


 だが、彼の答えを聞いて彼女の表情は明らかに曇る。

 まるで怒ったような、困惑したような複雑な表情を浮かべ、不意に立ち上がる。


「大変失礼なおたずねをしてすいませんでした」

「え? えぇ?」


 祐樹もつられて立ち上がる。テーブルが揺れ、出しっぱなしだったキーホルダーがコップに当たってカチャンと音を立てる。

 彼女は思わず音の源に目を移し、祐樹の目にもはっきりわかるほど目を丸くした。

 だが、彼女はその表情を隠すように深々とお辞儀をすると、祐樹が我にかえる隙を与えず素早く勘定を済ませ、風のように店を出ていった。

 さっきまで混み合っていたはずの店内にもいつの間にか人影はまばらで、がらんとした店内で、あっけに取られた祐樹とマスターは思わず顔を見合わせた。


「知り合いだったのか?」

「いえ……」

「何の話をしてたんだ?」

「さあ、何なんでしょう?」

「それにしてもかわいい娘だったなあ」

「そうですね。じゃなくて、俺は……」

「判ってるって。おまえ、まーたふられたんだろう。だから俺はせめてきれいな女の子とお前を相席にして、新しい出会いのチャンスを作ってやろうと……」

「えーっ!」


 祐樹は飛び上がった。一瞬にして湯気でも立ちそうなぐらい赤面した彼は、そのままぶち当たらんとする勢いでマスターに詰め寄る。


「いつ!ど、どこでそれを」

「どこって……」


しまったなあといった表情で頭をかくマスター。


「さっきお前の会社の双子が話していたのをだなあ、ちょっと小耳に……」

「くそ、あのアホツインズ!」


 祐樹は猛スピードで店を飛び出した。


「おーい、ツケにしとくからなー」

 マスターは大して気にもせずに呼びかけた。




 振られたことは仕方がない。相性が悪かっただけだ。割り切ればいい。

 だが、それを他人に、しかもよりによってとびきり口の軽いあの双子たちに吹聴する必要なんてどこにあるんだ。祐樹は憤慨した。


「くそ! さらし者にして何が楽しいんだ!!」


 しかし、事務所に戻ると彼女も、山野も、口の軽い双子も姿が見えなかった。

 ホワイトボードの行き先欄には、山野と彼女、そろって得意先営業廻り、直帰の文字。

 タイミングを失った彼の怒りは穴のあいた風船玉のようにあっさりしぼんでしまった。


「……もう、いまさら何を言っても惨めだ」


 小さくつぶやいた。

 そう思える冷静さだけはかろうじて残っていた。

 彼は大きくため息をつくとタブレットに向かい、今度は数日前から描きかけの3Dパースに手をつけることにした。

 それほど急ぎの仕事でもなかったのだが、いつの間にか没頭してしまい、夜も更けてレンダリングが終わるころにはもうすっかり心の整理がついていた。


「……結局、そういうことだよな」


 今度こそは、と、舞い上がって分不相応な期待をしたのが間違いだった。

 誰にも、何も期待しない。

 人付き合いの苦手ぼっちな祐樹がようやくたどり着いた、それが彼なりの処世術だった。

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