第2話 後悔

 翌日、微熱気味のぼうっとした頭のまま、それでも祐樹は律儀に出勤していた。


「あー、完全に風邪ひいた」


 鼻声でぼやき、ずずっと鼻水をすする。

 昨晩は、夕食もシャワーを浴びるのもおっくうで、びしょ濡れの服を床に脱ぎ散らかすと、ベッドに倒れ込むように眠り込んでしまった。

 芯までぐっしょりと雨に濡れた体は容易には温まらず、なんだか延々悪い夢ばかり見続けたような気がする。

 もちろん、朝食をとる気力も沸かなかった。

 仕事を始めても、気を抜くとつい未練がましく彼女の背中を目で追っていることに気づいてむなしくなる。


「もう、他の男の……」


 ぐるぐると無意味に思考をさまよわせたあげく、二、三日手を付けあぐねていた面倒な構造計算に取り組む事で惨めな現実から逃げだそう、そう決める。

 先輩デザイナーがスケッチパッドに手書きで描いた雑な平面図と立面図から必死に部材を拾い出すと、強度的にどうしてもヤバそうな場所には赤鉛筆で補強案を書き入れる。いつしか作業に没頭してしまい、何とかけりをつけたのは、午後もかなり回ってからだった。

 所長は相変わらず外回りらしく不在だった。

 祐樹は所長の机で雪崩なだれ寸前の書類の山に慎重に計算書を積み重ねると、遅い昼食を取るため外に出た。




 とりあえず本日最大のノルマを果たし終えた彼は、延び延びにしていた資料読みのついでに、同じビルの一階にある喫茶店で食事を取ることにした。

『レディバード』

 それが店の名前である。

 古なじみのマスターは、祐樹が分厚い単行本を抱えているのを認めると、窓際の一番奥、ほとんど彼の指定席になっている席をあごで指した。祐樹が身ぶりで食事と飲み物を要求すると、マスターはヒゲ面でくしゃっと微笑み小さくうなずいた。

 午後もかなり回った時間のせいか、テーブルはかなり空いていた。

 ところが、彼がテーブルに腰をおろしたとほぼ同時、近くの大学のサークルメンバーらしいグループがどやどやと押し掛け、六つしかないテーブル席は一気に満席になった。


「不思議なことに、ゆうが来るとその後は決まって満席になるんだよ」


 マスターが特製の超大盛りミートスパをドカンとテーブルに置きながら言う。


「……客寄せでもパンダでも何でもいいですから、ちゃんと客扱いしてください。なんすかその異常な物体は?」


 祐樹はミートスパの異常な盛り具合に半ば引きながら、無愛想に返す。


「仕込み過ぎちゃったんだよ。在庫処分くらい付き合えや。コーヒーは後でいいな」

「……オーダー取らなくていいんですか?」

「おっと、じゃあ後で」


 マスターはそれだけ言い残すとと慌ててカウンターに戻った。

 祐樹は学生時代からこの店の常連で、今の勤め先も言ってみればマスターの紹介つてで決めたようなものである。

 一方、マスターの方もかつては祐樹の母が経営していた喫茶店このみせでずいぶん長いことアルバイトをしていた。歳をかさねても若々しい母にうっすら惚れていたのではないかと踏んでいるが、いつだかしつこく訊ねたところ、ステンレスのトレイで目一杯はたかれた。しかも角で。

 考えてみれば初対面からもうすぐ十年の長いつき合いになる。

 その母も三年ほど前に交通事故で他界してしまい、今の祐樹は天涯孤独を地で行く暗い境遇に甘んじていた。しかも玉砕しつれん直後。

 と、昨夜の出来事が不意にフラッシュバックして胸が痛くなった。


「うっ!」


 祐樹は、バイクや部屋の鍵をぶら下げたキーホルダーを無意識にポケットから取り出し、まるですがるように手のひらに握り込む。

 このキーホルダーは、母の唯一の形見といってもよかった。

 角の取れた歪な三角形の外殻に、透明感のある黒光りする石がはめ込まれている。

 もともとはブローチだったらしい。だが、留め具は失われており、今は小さな穴に細いチェーンを通してキーホルダーとして使っている。

 気持ちを落ち着けたい時に手のひらに握り込むと、ほんのり冷たくサラサラとした手触りが不思議な安心感を与えてくれる。

 祐樹にとっては形見であると同時に、一種の精神安定剤でもあった。


「……どうしようもないな」


 大きなため息をついた祐樹は、キーホルダーを傍らに置くと、マスターの怨念がこもった特盛スパを無我の境地で腹の中におさめ、コップの水をぐいと飲み干す。

 それでも、胸のモヤモヤは一向に晴れない。


「あー、気晴らしにもならない」


 気持ちを切り替えようと持ち込んだ本を開いて数ページ読み進み、内容がまったく頭に入らないことに気づいて自嘲気味にぼやいた。


「終わったことをグジグジと………。俺って本当に情けない」


 後になってこれほど後悔するなら、ちゃんと捕まえておけばよかったのだ。

 他の男に取られないよう、もっと彼女が退屈しないよう。あちこち連れ回して、相当にお金も使って……。

 あるいは、もっと親密になってから……などと変な遠慮をせず、さっさと肉体関係になってしまえば良かった。

 大きなため息をつき、いつの間にか置かれていたコーヒーカップに手を伸ばす。


(でも、大切にしたかったんだよなぁ。初めての彼女だったし)

 

 祐樹は、物心ついたときから母ひとり、子ひとりの境遇で育った。

 厳しくも慈しんで育てられ、何一つ派手な出来事はなかったが、つつましく穏やかな生活にはそれなりに満足していた。

 祐樹にとって、そういう生活こそが理想で、それ以外の生き方は考えたこともない。だが、彼女にとってそれはひどく地味で、面白みのないものに映ったのかも知れない。


(はあ〜)


 再び大きくため息をつき、同時に、何気なく窓の外に目を泳がせる。

 そのまま魂を虚空に飛ばし、ただぼんやりと景色を眺めていた彼は、風景の中に妙な違和感を感じてふっと現実に引き戻された。

 街路樹の陰に何か黒い塊が動いている。彼が視線を固定する間もなく、さらにごそごそと動くと、歩道にひょいと飛び出して来た。耳としっぽの先だけが白い黒猫。


(あっ!)


 間違いなく、昨夜祐樹のスクーターの前に飛び出してきた黒猫だ。

 コーヒーカップを持つ手が震え、ソーサーに当たってカチカチと音を立てる。


「あいつのせいで俺はっ!」


 思わず声が出る。

 椅子を鳴らし、カップを持ったまま勢いよく立ち上がった。

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