第1話 失恋と転倒
「今、なんて?」
「聞こえなかった? 別れたいって言ったの!」
「え? でも……」
二つ年上の彼女とは、秋の終わりに付き合い始めたばかりだ。
祐樹がこの職場に入った時の指導担当でもあり、初対面で何てきれいな人だろうと見とれてしまった。その時からほのかに憧れてもいた。
自分には高嶺の花だとはなからあきらめていたのだが、告白してきたのは意外にも彼女の方からだった。
以来月に数回デートを重ね、順調に親密になってきた。そう思っていたのだが。
「どうして? 昨日まで全然そんな話も——」
「悪いけど、あなたと話していても退屈なの。いつも自信がなさそうにおどおどしてて、一緒にいても楽しくないし」
彼女は毛先をいじり、ちまちまと枝毛を探しながらそう言った。
「それに、今時、その若さで堅実すぎる人ってちょっとねぇ」
彼女は更に付け足した。
「話は終わり? じゃ、私これから山野君とデートだから」
もはや彼を視界に入れようともせず、スマホの画面を眺めながら、とどめもしっかり刺していった。
出口では山野が彼女を待っていた。山野は祐樹に勝ち誇った顔を向けると、彼女の腰に手を回し、仲良く事務所を出て行った。
山野は祐樹の同期入社で、指導担当は祐樹と同じく彼女だった。
その頃から山野も彼女を狙っていたようで、彼女が祐樹と付き合うようになった後も、所構わず話しかけていたのを何度か目撃したことがある。
その時、祐樹がもっとしっかり釘を刺しておけば、こんなことにはならなかったのではなかろうか?
週明けの月曜、山野がニヤニヤしながら突然高飛車な物言いをし始めた理由が今ならわかる。週末、祐樹の知らない間に彼女と山野の間で決定的な何かがあったのだろう。
後悔。やり場のない怒り、嫉妬。
祐樹は拳を握りしめ、事務机を殴りつける。
「くそっ!」
失恋。
こればかりは、いくら数をこなしたところで慣れることなんかできやしない。
彼女が去り、人気のないオフィスには、エアコンのかすかな唸りだけがむなしく響く。
祐樹は完全思考停止状態のまま、それでもふらふらとどうにかタイムカードだけは忘れずに押すと、死人のような無表情で会社を出た。
すでに日もとっぷりと暮れ、繁華街には明るくネオンが輝き始めていた。だが、彼の心は反対に暗く沈んでいくばかりだった。
裏口に面した薄暗い駐輪場には、向かいの中華料理屋の厨房からはき出される香ばしい香りがわびしく漂っている。
祐樹は大きなため息をつき、ゆっくりと原付を発進させると、明るい照明を避けるように裏道を選んで走った。
いつのまにか、霧のような細い雨が降り始めた。
彼は体が濡れるのもかまわずにそのまま駅前通りを走り抜け、商店街のはずれのコンビニで弁当を買い込む。
全身濡れねずみの祐樹を迷惑そうにあしらう店員の視線から逃れるように店を出て、狭い路地にスクーターを乗り入れた。
その瞬間、彼の目の前を何かが横切った。
「わっ!!」
飛び出してきた何かを避けようと反射的にハンドルを左一杯に切り、ブレーキレバーを思いきり握り締める。しかし、ミッドナイトブルーの彼の愛車、ヤマハジョグのフロントタイヤはあっさりとグリップ力を放棄した。
悲鳴のようなスキール音が響き、ふっと浮き上がる車体。
次の一瞬、祐樹は濡れた路面に派手にたたきつけられていた。
その音に驚いたのか、目前を横切った黒猫は道の真ん中でピクッと立ち止まる。
アスファルトに投げ出されたまま、よく見ればそれは完全な黒猫ではなかった。倒れたスクーターのヘッドライトに照らし出されたそれは、両耳の先としっぽの先だけがまるで染め忘れたかのように鮮やかに白い。
痛みをこらえて顔を起こした祐樹は、振り返った黒猫と思わず視線を合わせた。
猫はニヤッと笑うと、悠然と立ち去った、ように祐樹には見えた。
「うーっ!」
しばらくそのままの姿勢で見送ってから、たたきつけられた体の痛みをこらえてどうにか立ち上がり、損害を確認する。
中古で買ってまだ二か月のスクーターはフロントカウルが大きく欠け、バックミラーは細かく砕けてアームも曲がっている。ヘルメットは頭を守るという役割を忠実に果たし、卵の殻を何かにぶつけたような同心円のひびを生じている。そして彼自身、ジーンズの左膝、さらにブルゾンの左ひじが大きく破れ、そこから覗く皮膚は真っ赤に擦りむけてずきずきと痛む。
スクーターのバケットに無造作につっこんでいたコンビニ弁当は、濡れた路面に無残に散乱している。
「失恋して、雨に降られて、しかも黒猫かよ……」
祐樹はぼそりとつぶやいた。
痛かった。
怪我が、ではない。
あまりに惨めで、心がキリキリと痛んだ。
頬を濡らしているのは雨なのか、それとも涙なのか、はっきりしなかった。
スクーターをのろのろと起こしてセルボタンを押してみるが、一度沈黙したエンジンは、何度繰り返し試してみても、再び動き出すことはなかった。
祐樹は万事あきらめると、しだいに大粒になり始めた冷たい雨の中、痛む足を引きずりながら動かないスクーターを押してとぼとぼと歩き始めた。
もちろん、事故の原因である黒猫が物陰からじっと彼を見つめ、そのそばに、藤色の雨傘をさした女性がたたずんでいることなど、知るよしもなかった。
「ようやく見つけたわ」
彼女のかすかなつぶやきは雨音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
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