第4話 トランジション
午後の仕事は予想外に長引いた。
結局、会社を出た時にはすでに深夜、零時を回っていた。
スクーターはあれ以来息を吹き返す気配を見せず、自宅に置きっぱなしだ。
よって駐輪場には向かわず、白い息を吐きながらまっすぐ駅前通りに出る。
祐樹の住む古ぼけたワンルームマンションは、私鉄駅をはさんでちょうど会社の反対方向にある。駅前通りを渡り、コンビニの角を曲がって普段は通らない近道の歩行者専用ガードをくぐると、途端に人通りが途絶えた。
白く鋭い光を放つLEDの街灯がぽつりぽつりと灯された真夜中の市道を、祐樹はとぼとぼと歩いた。さすがにこの時間ともなれば車の姿もまばらで、静まりかえった夜の街に祐樹の足音だけがうつろに響く。
街灯の真下で影は消え、離れるとだんだんと伸びていく。その影がぼやけて消える頃には、再び背後に長い影が出来る。
彼はそうして何気なく伸び縮みする自分の影を追いながら歩いていたが、違和感を感じ、ふと、立ち止まる。
「なんだ?」
ひとつ先の街灯の真下に、何かがうずくまっていた。
歩くスピードを落とし、慎重に近づく。どうやら動物らしかった。
車にはねられた犬か、それとも猫か。
しかし、その正体に気づいた祐樹は思わずぎくりと立ち止まった。
全身が黒く、手足の先だけが染め忘れたように白い。
「またあいつだ!」
彼は思わず拳を握り締めた。
昨日からの相次ぐ災難は全部この黒猫が運んできたような気がした。
(なぜ俺につきまとう? よし、こうなったらとっつかまえて……)
別に捕まえてどうこうしようというもくろみがあった訳ではない。
子供っぽい八つ当たりの決心を固めた祐樹は、足音を忍ばせて慎重に近づいた。
だが、あと二メートルほどに近づいたあたりで、黒猫はまるで祐樹を待ちかねていたようにゆっくり体を起こし、大きく背伸びをする。
「あ!」
黒猫はその金色の瞳でじっと祐樹を見つめると、尻尾を翻してとことこと歩き始めた。そのいかにも人間じみた仕草に、祐樹は純粋な興味をかき立てられた。
祐樹は黒猫とそのままの距離を保ち、ゆっくりと尾行を開始した。黒猫はそれ知ってか知らずか、優雅な足並みでゆっくり歩き、祐樹がちゃんと付いてきているのを確認するかのように時々立ち止まっては振り返った。
目印のように立てたしっぽがうねうねと動き、まるでおいでおいでをしているようにも見える。
そんな奇妙な追跡行が二、三百メートルほども続いただろうか。
黒猫はふっと道をそれると、これ見よがしに道路脇の噴水公園に入って行った。
「おい、待てよ!」
結局、祐樹も吸い寄せられるように公園に足を踏み入れる。
高台にあり、夕暮れ時にはいちゃつくカップルであふれる公園だが、同時に幽霊目撃者続発の有名な心霊スポットでもあり、さすがに深夜も二時を回ると人影はぱったりと絶える。
回送電車がガードを越えていく軽い音が遠のき、しんと静まりかえった公園。
そんな中、中央広場にある古い池の水音だけが、かなり離れたこのあたりにまでかすかに聞こえてくる。
植え込みの下をくぐり抜けた黒猫を追って大きく花壇を迂回し、池の正面に出た祐樹は、そこでぎょっとして足を止めた。
明るいピンクと淡いブルーにライトアップされた背の高い石壁。その上部からは大量の水が湧き出し池に注ぐ人工の滝になっている。
その池の前には小さな人影が一つ。ぽつんとベンチに腰掛けているのが見えた。
逆光のせいで顔だちまでは判らないが、そのほっそりとしたシルエットからすると、どうも女性らしい。
よりによってこんな時間に?
その疑問と共に、祐樹は数か月前、同僚から聞かされた噂話を思い出した。
ここで目撃される幽霊は若い女性で、時間はきまって深夜だと。
さらに、幽霊を見た男はその後姿を消し、二度と戻ってこないのだと。
祐樹の背中にぞくりと寒気が走った。
まともな女性なら、こんな深夜、人気の無い公園で一人っきりになんてなろうとするわけがない。
だがしかし。
もしも彼女が体調でも崩して座り込んでいるのだとすれば、この寒さでは最悪凍死すらしかねない。
「ううう〜っ」
祐樹はなけなしの正義感を奮い起こして恐怖を抑え込み、おっかなびっくり一歩を踏み出した。
「にゃお」
「うわっ!」
猫の鳴き声に思わず声を上げてしまい、顔を赤くしながら祐樹はさらに歩み寄る。
と、怪しい人影の足元では、さっきまで彼が追っていた黒猫が座り込み、後ろ足でかかかっと耳の後ろを掻いていた。
再び硬直する祐樹だったが、彼の姿を認めて人影はすっとベンチから立ち上がる。
「ずいぶんお待ちしましたよ」
「え?」
この涼しげな声は聞き覚えがある。確か……。
「浅野祐樹さんですね」
「!」
祐樹は驚きのあまり思わず歩み出た。それまで逆光で見えなかった彼女の顔がはっきりと確認できた。
「やっぱり、昼間の!」
「お店ではぶしつけな質問をしてすいませんでした。どうしても確認しなくてはいけない事情がありましたから」
そう弁解すると、彼女はにっこり笑うとすっぽり身を包んでいたローブをはだけ、彼に握手を求めて来た。両頬のかわいらしいえくぼに見とれ、反射的に彼女の手を握った祐樹は、次の瞬間彼女の奇妙な服装に目を奪われた。
これはなんだ。どこの
「はじめまして。私は
「ふぉる……? は?」
顔中にハテナマークを貼り付けた祐樹は、そのままの表情で彼女を頭の先からからつま先までじっくりと観察した。
シンプルな飾りのついた白いゆったりとした上着。そで丈は短く、腰の位置で幅広のベルトできゅっとしぼられていた。すらりとした足はひざ下まである皮のブーツに覆われ、そして何より異様なのは、上半身をおおう白い鎧と、腰につるされた短剣。これはまるで……。
「その顔は……街中でRPGキャラのコスプレをする痛い女と思ってるわね。ま、否定はしませんが……」
「……はあ」
祐樹はわけもわからず相づちを打つ。
同時に、こんなに美人なのに、現実とゲームの区別がついていない残念な人なんだなあと少しがっかりする。
「一応言い訳しておくと、これは私達の世界の
さすがに全身をじろじろ見られて気恥ずかしくなったらしく、ほんのりと赤い顔で彼女は答える。
「私達の?」
「そう、私と、あなた」
いいながら人差し指で自分と祐樹の顔を順番に指さす。
「え? 僕も? なぜ?」
「あなた、何て声を出してんのよ。お母さまに向こうの話を聞いた事はないの?」
「い、いや、まったく!」
彼女がいぶかしげに問う。祐樹はあわてて首を振る。
「それより、君はどうしてずっと僕の母のことを——」
彼の疑問は、黒猫の低い唸り声にさえぎられた。
「まずいわね、人が来る!」
確かに、駅の方角から数人の酔っぱらいの調子っぱずれな歌声が近づいて来る。
「説明は後ね! とりあえず来て!」
そう言うと彼女は彼の手を取って歩き出す。まっすぐ人工の滝に向かって。
見れば、ライトアップされた人工滝の向こうに、ぼんやりとどこかの風景のような光が浮かび上がっている。
「おい、そっちは……」
「いいの、早く。私だってこの
彼女も、違和感のあるスタイルだという自覚はちゃんとあるらしい。
「君、どういうつもりなんだ?」
そんな祐樹の疑問は無視して、彼の右手をしっかりとつかんだまま、彼女はためらいもせず小走りで池に入って行く。続いて黒猫もさっさと池に飛び込むと水しぶきの向こうに消える。服装や行動が変なのは彼女の自由だが、こんな寒い夜に水に入れば、彼女も自分も今度こそ風邪をひいてしまう。
「おい、待てよ。そんなことしたら凍えて……」
彼女の姿が人工滝の水の壁の向こうに消える。
「おい、壁にぶつかる!」
彼女に引っ張られるように後を追う。頭からざぶりと水をかぶる。そして……
次の瞬間。
目の前には、夕日に赤く染まる一面の荒野が、ただ茫漠と広がっているばかりだった。
「はぁ~?」
祐樹は理解を放棄し、その場にぺたりと座り込んだ。
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