第32話 敵地潜入

 二日後の深夜。

 祐樹はクジマの街からほど近い海岸で釣り糸を垂れていた。

 天気は晴れ。夜風は穏やかで肌に心地よい。

 だが、内心はのんびり釣りを楽しむ余裕などなかった。本当にアナフラはやってくるのか、これがドラク側の罠である可能性はないのか。

 不安要素を考えだせばどこまでもキリがなかった。

 そんな不安と焦りが海中に伝わったのか、釣果は一向にはかばかしくない。月が真上にかかるまで粘ってようやく体に白い縞のあるゴンズイっぽい魚を一匹引っかけただけだった。だが、ピケットはふんふんとにおいを嗅ぐと一言、


(毒があるな。食べられない)


 そう言い切ってそれ以上は近寄りもしなかった。

 それからすでに数時間。波の音だけが、ただ夜のしじまに響き渡るのみ。


(なあ)


「なんだよ」


(ごちそうはまだかな?)


「まだだよ」


(ユウキは釣り〝も〟下手だな)


「〝も〟って言うな! なんだよそれ!」


 図星を指されて祐樹は激しく落ち込んだ。

 フィッグ老師と別れて以来、祐樹は暇さえあれば様々な魔法を試している。

 雷撃魔法だけは得意だが、物体操作はからっきしだし、他には治癒系の魔法と催眠系の魔法にわずかな効果があるのみだった。


「科学で説明できない魔法についてはどうにもうまく発現しないんだよ」


 新しいタイプの魔道士になれるとおだてられて調子に乗ったが、イメージできない魔法はまるで発現できない。むしろ、魔法とはこういうものだと割り切って受け入れていた老師の方がはるかに多様な魔法を使いこなしていた。


 もしも戦闘になれば、使い物になるのは唯一雷撃魔法のみ。それ以外はへっぴり腰で振り回す剣の方がまだしも役に立ちそうな情けなさだ。


(それと釣りの腕前は関係ないよね?)


「悪かったな。満月の夜は誰だってそんなに釣れないものなんだよ!」


 黒猫はその答えに鼻を鳴らすと、しっぽを立てて身軽に岩場に駆け上がっていった。祐樹は腹立ち紛れにぴくりともしない浮きを睨みつける。

 一昨日、昨日と、同宿になった旅人や商人に気前よく酒をおごって噂を聞いて回ったが、やはりドラク領内の事を詳しく知るものは誰もいなかった。ただ、最近になって難民が急に多くなったという点では全員の話が一致した。ドラク王国の国境に最も近い宿場であるクジマは身ひとつで脱出した難民達が最初に保護を求める街であり、アナフラが宿屋に偽装した連絡所をここに置いているのは難民達を救済する目的もあるらしい。

 そんな事をぼんやり思い返していた祐樹は、ピケットの鋭い思考を受けて現実に引き戻される。


(ユウキ!)


「魚ならまだだよ!」


(沖に帆船が見える)


 祐樹は聞くなり竿を放りだしてピケットの陣取る岩のてっぺんによじ登る。


「どこだ?」


(わかるかな、あの手前の岩と小島の間)


「判んないよ。ピケットはよく見えるな」


(そりゃ猫だからね。夜目はきくさ)


 手を額にかざして煌々と照る月光を遮る。岩陰に隠れて船の影は全く判らないが、月の光を受けてきらきらと輝く波間に小さく瞬く灯りがかろうじて見てとれる。


(合図っぽいな)


「ああ、そう言えば、出がけに娘さんが渡してくれたランタンが……」


 祐樹はそのままになっていたランタンのシャッターをに挟まっていた皮紙に気づいて引っ張り出す。月の光に透かしてみると、真ん中にただ点と線だけが書き付けられていた。


「・-・-・・、なんだこれ?」


(いいからすぐその通りにシャッターを開け閉めするんだ!)


「ああ、そうか」


 頷くと、沖に向けて光を点滅させる。すぐに同じ間隔で点滅が返ってきた。漁船はすっと動き出し、巧みに岩陰を回り込むと一直線に岸に近づいて来る。百メートルほどまで近づいたところで、船から胴間声が響く。


「お若いの、夜釣りとは風流だね!」

「いえ、目当ての獲物はまだ一匹も!」

「ほう、何を狙ってなさる?」

「アナフラを!」


 船から返答はなかった。だが、船はさらに岸に近づき、四十メートルを切ったあたりで再び停止した。


おかに痕跡は残すな。全部海に投げ捨てて泳いでこい! 暗礁がある。俺たちはこれ以上岩場に近づけない!」


 祐樹とピケットは思わず顔を見合わせる。


「仕方ない。行くか」


 そのまま岩場を滑り降り、竿とランタンを海に放り投げると服とスパッツを背嚢に詰め込んで口を固く絞り、頭に縛り付けるとジャブジャブと歩いて海中に泳ぎ出る。と、次の瞬間頭上に黒猫が飛び乗ってきた。


(おい、自分だけ楽するなよ)

(猫は水が苦手)

(本当かよ)

(常識だよ)


 文句は言うが幸いそれほど距離はない。海の水は暖かく、澄んだ海中は思いのほか快適だった。ゆっくりとした平泳ぎで程なく船に泳ぎ着いた祐樹に船べりから太い腕がぬっと伸ばされる。一方ピケットはその腕を伝って自分だけさっさと甲板に降り立つと、わずかに濡れた前足をぺろぺろとなめている。


「っと、ありがとうございます」


 腕をつかんだ祐樹はそのまま引っ張り上げられるように甲板に運ばれた。目の前にいる筋肉質の逞しい男が先ほど呼びかけてきた人物だろう。男は無言で後を振り向き、さっと右手を振る。数人の男達がきびきびと動き、すぐに真っ黒に染められた四角い帆がバサリと広げられた。


「沖に出るまで口を開くな。黙って座ってろ」


 男はただそれだけ言うときびすを返し船尾に歩み去って行った。あっけにとられてその姿を見送る祐樹に背後から乾いた布が投げかけられる。


「とりあえず体を拭いた方がいい。沖は冷える」


 振り返って見ると長身の若い男が白い歯を見せた。


「ありがとうございます。あの、ユウキです」

「スケイリーだ。君をメンドラクまで案内する。さっきのゴツいのは船長。無口なおっさんだけど悪気はないから勘弁してやってくれ」

「……よろしくお願いします」

「とりあえずどこか邪魔にならない所に座っていてくれ。できれば月が沈む頃までには港に戻りたい。揺れるぞ」

「わかりました」


 祐樹が甲板のくぼみに腰を落ち着けるのを見届けると、スケイリーと名乗った男は部下らしい数人の少年に指示を出す。船首にさらに三角帆が掲げられ、沖へ出た船は追い風をつかんで祐樹の予想を越える速度で海面を滑り始めた。


(この船、見てくれは漁船だけど、実際は密航船だよ。魚はほとんど積んでないのに隠し扉がやたらあちこちにある)


 一足先に船内の探検を済ませたらしいピケットが船内から思考を飛ばしてきた。


(そうだろうね。帆が黒く染められている時点でもうヤバい空気がぷんぷんしているよ)


 祐樹は船首近くの右舷側に座り込み、水平線上に黒々と伸びる陸地の風景を眺めながら無言でそう思考した。日暮れ前、沖に見かけた漁船はどれも白い生成りの帆を上げていた。禍々しくも見える黒い帆は間違いなく夜闇に紛れるためのもので、この信じられない船足も含めて漁船には全く似つかわしくない。


(これがドラクの罠でない可能性は?)

(正直判らない。でももう後戻りはできないし……)

(文字通り「乗りかかった船」だね)


 ピケットの意外な例えに思わず笑いを誘われる。


(君が異世界のことわざにまで通じているとは知らなかったよ。まあ、〝虎穴に入らずんば虎児を得ず〟とも言うしね』)


 ピケットがニヤニヤ笑いの思考を返してくる。


(心配するな。何があっても最後までちゃんとつきあってやるから。それに「終わりよければすべてよし」って言うだろ)


 祐樹は、自分の不安を和らげようと軽口を叩くピケットの気遣いがただうれしかった。





 それから数日。月がかけ始めた頃、メンドラクの街には時ならぬ騒ぎが巻き起こっていた。

 ドラク帝国の王子、グライアの婚約が唐突に発表された為である。

 さらに民衆を驚かせたのはその相手である。大本命として昨年から噂されていた大商人の令嬢ではなく、なんと、かつてドラクによって討たれたアーネアス王家の最後のプリンセス、フォルナリーナ・アーネアスその人だと言う。

 真相を知らぬ多くの国民は祝福よりもまず困惑した。

 そして、かつての仇敵どうしがなぜ婚約などしたのだろうといぶかしんだ。

 一方で、より深刻だったのは旧アーネアス王家に与する者達だった。ドラク派が我が世の春と大手を振って王都をのし歩く中、宵闇に隠れ、地下に潜って密かにレジスタンス活動をする彼らを支えて来たのはアーネアス王の一族、今となってはフォルナリーナに対する忠誠心のみといっても過言ではなかった。

 ところが、行方不明だったプリンセスの帰還が報じられて狂喜したのも束の間、よりにもよって憎むべきドラク帝室に入ると言う。

 彼らは信ずべき対象を足下からすくわれて、ただ呆然とするのみだった。

 しかし、一部にこれをドラクの計略と見る意見もない訳ではなかった。彼らはいまだにフォルナリーナが人前に一度も姿をあらわした事がないことをその根拠とした。


「プリンセスは捕らえられ、意に染まぬ結婚を強要されている」


 その噂はアーネアス派にとって唯一の救いとなった。

 少人数でぽつぽつと無秩序な抵抗活動を行っていたレジスタンスは、激しく揺れ動く足元に不安を覚え、次第に結集をし始めた。


「プリンセスを救い出せ」

「プリンセスを再び我らの元に」


 それが彼らの密かなスローガンとなった。二十年前のクーデターで辛酸をなめた彼らは、ついに頼むべき大きな旗を見つけ出し、今、一致して蠢動を開始した。

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