第31話 アナフラの娘

 クジマの村は覚悟したよりも近く、そこから二時間足らずでたどり着くことができた。

 幸いにも村はまだ寝静まっておらず、酒場からはいい感じにできあがった酔っぱらい達の明るい笑い声が漏れ聞こえている。彼らはその前を通り過ぎ、村でたった一軒の宿屋にどうにか空き部屋を確保する事ができた。

「お部屋はこちらです。今日はお客さんが少ないですから相部屋はありません。食堂はもう閉めますから、すぐに一階に食べに来て下さいね。お酒も飲めますけど別料金です。他に、何か質問はございますか?」

 宿の若い娘が手慣れた様子で祐樹を部屋に案内する。そんな会話を聞きながら、ピケットは背嚢の中でほっとしていた。相部屋だったら今夜は屋根の上で野宿になるところだった。


「ところで、ちょっと聞きたいんだけど」

「はい、何でしょう?」

「この村に、アナフラさんという……」

「しーっ! お静かに」


 祐樹が全部言い終わらないうちに娘は祐樹の口を塞ぐように手のひらを押しつけて言葉をさえぎった。

「その名を不用意に口にしてはいけません。今晩は部屋の鍵を閉めずにお休み下さい」

 それだけ小声で素早くささやくと、まるで何も無かったように後を続けた。

「……お昼まで滞在されますと延長扱いでもう一日分いただく事になりますのでご注意下さーい。それでよろしいですか?」

「あ、はい」

「では、ごゆっくり」


 娘はそれだけ説明すると部屋を出ていった。


「ピック、君はどう思う?」


(さあね。それよりもおなかが減ったよ。早く行って僕の分も忘れずに持ってきてくれよ)


 ピケットの言葉に、祐樹は自分の腹もさっきからグウグウ鳴っていた事を思い出した。

 考えてみれば朝から何も食べていない。喉もからからだ。


「判った。まずは腹ごしらえだ」





 カチリ

 祐樹はかすかな物音で目を覚ました。

 何者かが忍び足で部屋に入って来て、内側から扉に鍵を掛けたらしい。正体は判らない。彼は扉の方を向いて眠らなかった事を後悔した。

 夜更けまで待ってもアナフラは姿を見せなかった。現れるまで起きているつもりだったのだが、昼間の疲れでつい眠り込んでしまったらしい。

 彼はゆっくりと悟られないように手を伸ばし、枕元の短剣をベッドに引き込んだ。

 ピケットは村の偵察に出かけてまだ戻ってはいない。彼の為に細く開けた窓はそのままで、カーテンが夜風にかすかにはためいている。

 侵入者の気配はさらに近づいた。祐樹の顔をのぞき込んでいるらしい。

 今だ!

 祐樹は短剣を相手に突きつけると、同時にくるりと体の向きをを入れ替えた。侵入者の息をのむ気配。

 意外な事に侵入者は宿の娘だった。眉間に短剣の切っ先を突きつけられ、固い表情のままで低くつぶやいた。


「アナフラ、私がアナフラです」


 安心感のあまり全身の力がどっと抜けた。祐樹は深いため息をついて短剣を降ろすと、ベッドの端に体を起こした。


「最初にそう言ってくれればいいのに」

「この合言葉をどこで?」

「マヤピスの地下水道で。ドラクの商人から」

「……そう」


 その言葉に彼女はふっと態度をやわらげた。どこか緊張していたのがほっと緩んだ様子だった。


「安心したわ」

「どういう事?」

「時々いるのよ。どこで漏れたのか判らないけど、合言葉を知って探りに来るドラクの密偵が。そんな時の為に合言葉には二重三重の意味があるの。本来の相手以外の人間にとっては、合言葉は麻薬取り引きの暗号だったり、女を買う隠語だったりするのよ。どっちにしても後ろ暗いことには違いないけど、真実を隠す為にはそれなりに有効な方法よ」


 そう言うと彼女はベッドの端に腰をおろし、ゆっくりと足を組んだ。丈の短い薄手の夜着のすそから、白い太ももがのぞく。月の光を浴びて、そのまぶしさは彼の視線を抗いがたく引きつけた。

 よく見れば、彼女は、はおっているガウンの下には最低限の衣服すらつけていないらしい。思わず顔を赤らめた祐樹は必死に視線を彼女からそらそうとした。

 彼女は気付いてクスリと笑う。


「あなたの話は伝書鳥ですでに伝わっているわ。確か、相棒を助ける為にメンドラクに入りたいんでしょう?」

「あ、はい」

「それなら、ここから海岸沿いに東に歩いて。国境の手前の岸辺に鳥の頭の形をした岩があるから、明後日の夜更けにそこで待つといいわ」


 娘はそこで足を組み替えた。

 祐樹はつい目が行きそうになるのを必死でこらえて彼女の顔を凝視する。


「いい? 月が中天にかかるころ、漁船が通りかかって、『兄さん、夜釣りかい?』って聞くから、そしたら合言葉を言ってちょうだい。アナフラを釣ろうと思っているって言えばいいわ。アナフラは私個人を指す暗号じゃないの。実際は私達の組織全体を指す隠語でもあるのよ」

「……なるほど」

「じゃあ、話は終わり。ところで聞きたいんだけど、あなたの相棒は長いこと行方不明だったフォルナリーナ姫だって話は本当なの?」

「ああ」


 娘はベッドの反動を利用して一息で立ち上がった。


「本当に生きていたのね! ずっと行方不明だったから心配していたの」


 そのままうっとりと天井を見上げて言う。


「すばらしい事だわ。今度こそ、ようやく歴史が変わりそうね」


 そう言うと、すっと祐樹に顔をよせる。甘い匂いが祐樹の鼻を刺激する。


「頑張ってね。勇敢な魔道士さん」


 言葉を切って、いたずらっぽい表情であらためて口を開く。


「ところであなた、合い言葉のもう一つの意味には興味がないかしら?」

「え?」

「今からでもどう? 安くしておくわよ?」

「あ、いや、け、結構です!」


 祐樹の顔が首までさっと朱に染まった。うろたえた表情をたっぷり鑑賞して満足したらしい彼女は、にっこり笑って音もなく部屋を出ていった。

 祐樹は額の汗を拭い、襟元をくつろげてパタパタとあおぐ。


(惜しい事をしたな)


 いつの間にか戻ってきたピケットが、窓辺でニヤニヤ笑いながらそう思考した。


「ばか言うなよ。僕は……」


 しかし、彼の顔の火照りはその後しばらくおさまらなかった。

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