第23話 老婆

 祐樹は暗闇の中で意識を取り戻した。

 確かに目は開いているはずなのに、まるで墨で塗りつぶしたような暗黒以外に何一つ視界に入らなかった。


(まさか!)


 最悪の予感に怯えた彼は思わずうめき声をあげ、反射的に体を動かそうとして激痛に襲われた。


「……っうう!」

「やっと目が覚めたようじゃな」


 しわがれた声が意外に近くから響いた。

 同時に枕元にランプが灯り、ぼんやりとした黄色い光があたりを満たした。

 祐樹は質素で古ぼけた、しかしきちんと整頓された部屋の寝台に寝かされており、枕元で皺だらけの老婆が彼を見下ろしている。


「近所の木こりがな、岸辺に流れ着いたおぬしを見つけてここに運んできたのじゃ。あのまま川の中に浸かっておったら、今ごろ命はなかったの」

「……」

「まあ、しばらく身体は動かんじゃろ」

(え! っ痛!)


 慌てて身体を動かそうとして、頭から足先まで電撃のように響く激痛に打ちのめされる。


「背中と腰を相当強く打っておるようじゃ。幸い骨は折れてはおらんが、神経を痛めて全身がマヒしているはず。顔にも大きな傷を負っておる。目をやられずに済んだのは不幸中の幸いじゃの……どうじゃ、言葉は出るかね?」

「……い。はぃ」


 何度か言葉にならないうめき声をあげた後、祐樹はどうにかその一言を絞り出した。ひどくかすれて、自分でも聞き取りにくかった。老婆はその事に気付くと左手をひらひらと振ってそれをやめさせた。


「無理に口に出す必要はない、言葉を心の中で組み立ててみるんじゃ」

『これでいいですか?』


 老婆は目を丸くした。


「何じゃ? ずいぶん手慣れておるな。誰か心話テレパスの使い手を知っているのか?」

『黒猫を。ピケットといいます』

「ほーう! お主、ピックの知り合いか。これは大変だ。お主の事をもうちっと詳しく知る必要があるな」


 老婆は自分と同じぐらい古ぼけたガタガタの椅子を祐樹のそばに引き寄せ、あらためて「どっこらせ」とかけ声をかけながら座り直す。

 口元に黄色い乱ぐい歯がのぞく、ひどく醜い顔付きだが、なぜか祐樹はまったく嫌悪感を感じなかった。むしろその瞳の色には懐かしささえ覚えたほどだ。


「さて、おぬしさえよければ直接心を読ませて欲しいんじゃが? 事情説明に何時間もかかるのではお互い体が持たんでな。よろしいか?」

『……あなたは、誰ですか?』

「ピケットのかつての飼い主じゃ。奴が一人前になるまではな。そして以後は奴の友人として親しく付きおうておる。とりあえずこれでよろしいか?」

『判りました。それで、僕は一体どうすれば?』

「なーにも」


 老婆はあっさりと首を左右に振った。


「ただ心を平安に保って。わしを……いやいや、いきなりは無理な話じゃな。とりあえずはピケットを信じて心を開く事じゃ。出来るかな?」

『はい、多分』

「んじゃいくぞ」


 そのまま、恐ろしく静かに時は過ぎていった。祐樹にとっては何時間にも感じられたが、実際は数分、いやほんの数秒の出来事だったらしい。不思議なことに、見知らぬ老婆に心を覗かれながらも心は平穏だった。ただ、心の表面を羽毛か何かでさっと撫でられた様なむずがゆさを感じただけだった。

 それが済むと、老婆は長い時間無言で考え込み、不意に立ち上がると杖をゴトゴトいわせながら部屋を出ていった。

 一人きりで置き去りにされた祐樹は何とか体を動かそうと躍起になったが、体の方は激痛と痺れでまったく言うことをきいてくれない。

 数時間後、わずかに右手を持ち上げる事ができるようになった頃、ようやく老婆が戻ってきた。

 老婆は祐樹の背中にクッションを挟んで身体を起こすと、右手に温かいスープの入ったマグカップを慎重に握らせる。そうして自分はぎしぎしときしむ椅子を引き寄せて大儀そうに腰を下ろした。


「あちこち心を飛ばしての、おぬしの相棒を捜してみたんじゃ。川べりで餌をついばんでおったカワセミが一部始終を見ておったの。お嬢さんは数人の兵士に捕らえられ、小舟で川下に運ばれていったそうじゃ。しかし、幸い命に別状はなかったようじゃな」


 祐樹は安堵のあまり深いため息をついた。思わず目じりに涙がにじんでしまう。

 老婆はそんな祐樹の様子には素知らぬふりで言葉を続けた。


「おお、それから、ピケットは意外と近くにおったぞ。奴の足なら明日の夜明けにはここに辿りつくじゃろう」


 老婆は椅子に深く座り直してさらに続けた。


「ところで、わしは今しがたピケットからもことの成り行きをじっくり聞かせてもろうたんじゃが……」


 老婆は言葉を切り、小さくせき払いをして祐樹の顔を正面から覗き込んだ。


「奇遇じゃが、わしも全くの無関係でもない。ビムロス・アーネアスも、お主の父ダイソック・タトゥーラもわしの古い友じゃ。二人ともこの老いぼれを置いてさっさと逝ってしもうたが、わしは奴らに大きな借りがあるでの」


 皺だらけの顔でニッと笑って見せた。その口から黄ばんだ乱ぐい歯がのぞく。


「お前たちがあやつらの子供ならば、わしも一肌脱がない訳にもいかんだろうて」

『ありがとうございます』


 老婆はカカカと朗らかに笑った。


「別におぬしに感謝してもらうことじゃない。これは彼らに借りを返すいい機会なんじゃ。そこで、実は折り入っておぬしに相談がある」


 老婆は細い目をさらに細めた。


「おぬしが魔道を修めようとしておる事、また導き手を求めていることはピケットからも聞いたし、おぬしの心も読ませてもらった」

『……はあ』

「一方でわしにはわずかながら魔道の心得がある。で、どうじゃろう? おぬし、このばあの弟子になるつもりはないか?」


 予想外の提案に、祐樹は絶句した。

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