第22話 転落
数時間後、二人はマヤピス湖から流れ出る川の一つにボートを乗り入れていた。
濃密な川霧が逃避行の二人を霧のベールに優しく隠している。他に行き交う船の姿はなく、彼らはオールを引き上げたまま流れに任せてゆっくりと川を下っていた。
「はぐれちゃったけど、ピケットはどうしたかな?」
「彼は大丈夫だと思うわ。ああ見えても私達よりずっと長生きしているんだし」
「へえ、彼は何歳くらいなの? 外見はどう見ても子猫にしか見えないけどなあ」
「はっきり覚えてないけど、私が物心ついた時にはもうそばにいたわ」
「へえ?」
「忙しい父の代わりに、彼がつきっきりで私の子守をしてくれたようなものだし。父がタースベレデに逃げ延びた時に一緒について来たらしいから、少なくとも20年は生きているはずよ」
「普通の猫の倍近いのか。けっこう爺さんだったんだな」
祐樹は霧の向こうを透かし見ながら感嘆の声を上げる。
「フフフッ、本人が聞いたら怒るわよ」
「まあ、ピケットは普通の猫じゃないからな。人の言葉だって理解できるし……」
「それに、簡単な魔法なら使えるらしいわ」
フォルナリーナの声音には、家族を褒められたときのような誇らしさが込められていた。
「へえぇ、そのうちしっぽが二つに割れてくるんじゃないか?」
「フフ、猫又じゃないわ。本人が聞いたら怒るわよ」
祐樹は、フォルナリーナが、彼女にとって異世界である日本の妖怪にまで通じていることを知って、小さくため息をついた。
「そうだな。ヤツは俺なんかよりずっと役に立ってるし……」
祐樹が自嘲気味にこぼしたつぶやきに、フォルナリーナは眉をしかめた。
不意に腰を浮かし、ボートを揺らしながら彼の隣に移って来た。ボートの幅は二人並んで座ってもなお十分な余裕があったが、彼女はあえて祐樹に寄り添うように腰を下ろした。
「ユウキ、私の顔を見て!」
いきなり言われて当惑する祐樹に、フォルナリーナはさらに身を乗り出す。
「私、ずっと気になっていたんだけど、あなたはどうしてそう自分を見下した話し方をするのかな?」
祐樹の右手をとり、両手で優しく包み込みながら祐樹の顔をのぞきこむ。
「ユウキは良くやってると思うわ。お世辞抜きで」
「いや、でも……」
「何の知識も経験もなく、いきなり放り込まれた異世界よ。他の誰かがあなたと同じ境遇に放り込まれたとして、今のあなたよりうまくやれるとはとても思わない」
「そんなことは……」
「それに、ユウキがいたから荒野であの二人組に捕まらずに済んだし、私ひとりではマヤピスまでたどり着くのも無理だったと思うわ」
「……いやまさか。さすがにそれは買いかぶり過ぎだ」
祐樹は気まずくなって目をそらした。彼女の言い分はもっともだが、自分自身がどうしても自分の成果に満足出来ないのだ。
結果がたとえどうであれ、それは関係ない。
「目をそらさないで!」
フォルは祐樹の頬を両手ではさむと強引に自分の方に向き直らせた。
「いい? 自分で自分の価値を勝手に決めないで欲しい。ユウキが側にいてくれるだけで私がどんなに安心できるか、あなたは気付いてもいないでしょう?」
「……そう言ってくれるのはうれしいけどさ」
「うーん、もう! どうしたらまっすぐ受け取ってくれるのかな」
ふんとため息をついてフォルナリーナは頬をふくらませる。
「俺は君をうまく守れない。さっきだって、ああやって助けてもらえなかったらどうなっていたかわからない。君の期待に応える事も……」
それ以上は続けられなかった。
彼女が不意に彼の口を塞いでしまったからだ。彼女自身の唇で。
固まってしまった祐樹の右腕に、フォルはしっかりとしがみ付く。
「……はしたないと思わないでね」
彼女は頬を赤く染めてうつむいた。
一方、驚きのあまり言葉にならず、ただ目を丸くするだけの祐樹。
「私は、一度もあなたに守って欲しいなんて頼んでない」
「え、でも……」
「今、私が欲しいのは、同じ目的を持って、いつも一緒にいてくれて、同じ物を見て、同じ事を体験して、一緒に悩んで、一緒に笑ってくれる人。そして、それこそが私の期待、私の望み。それ以上必要な物なんてない……」
二人は再び見つめ合う。
「ねえ、約束して。かってに変な遠慮して、独りでどこかへ行ってしまわないで」
その言葉に、祐樹はすぐには返事できないまま、ほてった顔でコクコクとうなずいた。
生まれて初めて他人に必要とされ、祐樹は混乱していた。
自分が彼女にとってどれほど重要な存在なのかをゆっくりと実感し、彼女の期待に応えたいという思いが、心の中で急速に膨れ上がるのをのを感じた。
そして、ようやく理解した。あの時、祐樹が自分の世界を捨てて彼女と一緒に行動するつもりになった本当の理由を。
二人の会話が一段落し、ふと我に返った祐樹は周囲の変化に気づいた。川の流れがしだいに速くなり、ボートが不安定に揺れ始めている。
「なんだか、急に流れが速くなってきたね」
「そうね。霧も思ったより濃いし、先が見通せないわ」
フォルナリーナが不安げに呟く。祐樹は霧の向こうを見つめ、何かを感じ取ろうとする。
「なんだか、音が聞こえないか?」
「え?」
フォルナリーナが耳を澄ます。遠くから、低い轟音が聞こえてくる。
「何だろう、この音?」
二人は顔を見合わせた。音は次第に大きくなり、ボートの揺れもさらに激しくなる。
強い流れに巻き込まれ、あらがう二人の努力を無視してボートはぐんぐんスピードを上げていく。
「やばいな、何とか先の様子が判らないか?」
どうにか転覆だけは避けようとオールを下ろし、必死でバランスを取りながら、祐樹は額に汗を浮かべていた。
「霧で何も見えない」
彼の向かいに戻ったフォルもまた不安げな表情で霧を見透かすが、視界はほとんどゼロに近い。前方からは低い雷鳴のような音がかすかに響いてくる。
「ホントに、何だろう、この音?」
フォルナリーナの問いに祐樹は無言で首を傾けた。そのうちにも音は次第に近づいてくる。
「なあ、もしかして……」
轟音がさらに近づいたところで、祐樹はふと恐ろしいことに気づいて口を開く。
「ねえ、早く岸に着けて! 滝よ!!」
フォルも同時に同じ結論に達したらしい。祐樹は全力でオールを漕ぐが、気付くのがあまりに遅すぎた。
轟音が耳をつんざき、周囲の景色が急に途絶えて川霧の向こうに虚空が見えた。次の瞬間、二人を乗せたボートは、なす術も無く巨大な滝に落下した。
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