第9話 狩りの獲物

(いったぞ)


『オーケー』


 祐樹は夕闇が次第に迫る茂みの中でひたすら息を殺していた。

 日中のジリジリとした日差しはやわらぎ、時々茂みを吹き抜ける風が、汗ばんだ肌にひんやりと心地いい。

 彼は頭を軽く振って目に入りそうな汗を飛ばし、緊張をほぐすため両手を握りしめ、開く動作を繰り返す。

 マヤピスへの道中、一行はピケットが獲物を追い立て、祐樹が取り押さえるといった初歩的な狩りに励んでいたのだ。

 体を動かすのが大の苦手な祐樹は、なかなかコツを飲み込む事ができなかった。この一週間、特に最初の三日はさんざんな失敗続きだった。だが、一昨日からはようやく、わずかだが獲物にありつく事ができるようになった。

 ピケットと声を出さずに会話する事にも随分慣れた。

 心の中で言葉を組みたて、立体感と方向性を与えて送り出すようにイメージすれば、どんなに離れていても間違いなくピケットは聞き取ってくれた。


(そっちに出るぞ!)


 草むらが大きく揺れ、うさぎに良く似た小動物が走り出てきた。

 飛びかかるようにして素早く押さえつける。腕の中で獲物の首筋の筋肉が硬く緊張し、獣臭い匂いが祐樹の鼻を刺激する。

 相手は長い後足で祐樹を蹴りつけ、猛烈に暴れて逃げ出そうとするが、こっちも夕食ディナーがかかっているのだ。手を離すわけにはいかない。

 耳を掴んで素早く仰向けに転がすと一瞬獲物の動きが止まる。その瞬間に両方の後ろ足を革ひもできつく縛り、その場に転がして息をつく。


「やったぞ。三匹目!」


(これまでで一番大きな獲物だな。きっとうまいぞ!)


 祐樹は立ち上がって大きく伸びをすると、灌木のとげで小傷だらけの腕で額の汗をぬぐった。毎日茂みの中を這い回るおかげで、傷は癒えるどころか次第に増える一方だ。

 いつの間にか日焼けした肌に、コバルトブルーの上着が一層鮮やかに映える。


「よし、これで今日は終わりにしよう」


(まだ明るいうちに狩りが終わるなんて初めてじゃないか)


「……少しは進歩したかな?」


(最初はもう、絶望的だと思ったけど)


「……微妙な褒め言葉をどうも」


 祐樹はため息をついて肩をすくめる。


(あとは血抜きと解体まで自分で出来るようになれば)


「うう! あれ、苦手なんだけど」


 それまで祐樹は、〝肉〟と言えばきれいに切り分けられ、スチロールのトレーにのってパックされているモノだと思っていた。

 生きた動物の首筋を切り裂き、逆さに吊して血を抜き、腹を裂く。

 狩りにはつきものの作業に、祐樹はいまだに強い抵抗感を持っている。

 吹き出す血液、その独特の鉄臭さ。ベタベタとねばつき、ぬめる触感。何度体験しても慣れることはできない。

 フォルナリーナが眉一つ動かさずにこなすその作業を目の当たりにして、心底情けないことに、初日はその場で嘔吐して気を失った。

 とどめを刺すのに失敗し、のたうち回る獲物に思わず悲鳴を上げる。腸や膀胱を傷つけ、せっかくの肉をダメにする。うっかり骨に刃物を入れてナイフを欠けさせ、さらに毛皮のなめしに失敗してウジ虫を湧かせる、などなど、わずか数日で祐樹が犯した失敗は両手の指でもまだ足りない。


「……やっとここまで来たって感じだな」


 長い道のりだった。

 この世界なら子どもでも簡単にこなすことが自分にはできない。その事実はただでさえネガティヴな祐樹を苛んでいた。失敗のたびにフォルナリーナはなぐさめてくれるけど、気を遣われているのが丸わかりで、彼の劣等感を余計に刺激する。

 恋人を同僚に寝取られたきっかけだって、祐樹の陰気さに嫌気がさしたというのが本当のところだろう。

 でも、慣れ親しんだ環境を捨ててここまで来たからには、変わりたかった。

 祐樹はそんなことをぼんやり考え、ぶんと頭を振って心の中のモヤモヤを振り払うと、転がしていた獲物を拾い集める。

 だが、悩んだ末に一番小柄なウサギモドキを放す。地面に下ろされた途端、相手はまるで放たれた矢のように駆け出し、またたく間に藪の中に消えた。

 残った二匹の首に素早く刃を走らせ、両手にぶら下げてしばらく待つ。ほとばしる血の勢いがほぼおさまったところで、祐樹はキャンプに向かって歩き出した。

 黒猫ピケットはその様子を見て小さくため息をついたが、それ以上は何も言わず祐樹の後に続く。しかし、キャンプ地に人影は無い。


「ピック、フォルは?」


 ピケットが頭を持ち上げ、あたりを見回す。


(小川の方にいると思うよ)


「そう、じゃあ、ついでにこれ、川にさらそう」


 血抜きをした獲物は可能なら早めに川などに浸けて冷やすほうがいい。その方が肉が締まるし、毛皮についた血や汚れをきれいに洗い落とし、ダニなどの寄生虫も取り除ける。それに、苦手な解体処理までに心の準備をする余裕もできる。

 それにもう一つ。子どもっぽい感情とは自覚しつつ、自分の成長した姿を彼女に早く見せたい。

 祐樹はウサギモドキをぶら下げたまま小走りで灌木の茂みを回り込み、岩影をひょいとのぞき込んだ。


「あっ」


 ゴンッ

 一瞬の間を置いて、顔面でまともに石の直撃を受けた祐樹は丸太のようにぶっ倒れた。


「わっ! ご、ごめんなさい! ユウキ!」


 代償は大きかった。

 祐樹の顔面を直撃した石ころは、幸い小振りだったものの、額から鼻にかけてズキズキと鋭い痛みが走る。

 彼は眩暈めまいに襲われ、目を閉じてその場にうずくまったまま呻いた。


「ユウキ! 大丈夫!? 私の声が聞こえる?」


 慌てたフォルの姿が目の前に現れ、彼女はそのまま祐樹の顔を覗き込む。


「鼻血が出てる! ごめんなさい、でも、いきなり現れるから……」


 上目遣いに謝るフォル。だが、なんとか薄目を開けようとした祐樹の意識はもはや彼女の言葉など届いていなかった。

 先ほどまで彼女が身につけていた白い装束が、今は岩の上に広げられている。

 つまり、彼女は今、ほぼ裸に近い姿で目の前にいるということになる。

 たとえ相手が同性でも、他人の裸を見るのは日本人のメンタリティからしてかなりハードルが高い。

 ましてや今目の前にいるのは、この世界で唯一心を許せる異性だ。しかも、彼女はまだ祐樹が意識を取り戻していることに気づいていない。

 結論。

 これはいけない。理性が警告を発している。だが、目は勝手に彼女の肢体をなぞっていく。

 ほっそりとしてはいるが、これまでの旅で鍛えられたフォルの身体は程よく引き締まり、スリムな筋肉が浮き上がっている。

 ところどころに擦り傷の痕が見えるのは、少し意外だった。

 そして、彼女自身が何度も口にした小ぶりなコンプレックスの象徴。


「う、うーん」


 祐樹が声を上げた途端、フォルはあわてて立ち上がり、岩の陰に隠れるように後ずさった。

 彼女の恥じらう姿、そしてついさっきまで座っていた岩の上の水滴。

 祐樹はそれらを見て思わずごくりと喉を鳴らしていた。

 いけない。

 見てはいけない。

 そんなことをしている場合じゃない。

 彼は再び目をつぶる。もう少し、気を失ったフリを……。

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