絵本

 ―そこは閉じられた世界。


 私とお父様とお母様しか居なかった世界。

 幼少の頃。

 私は絵本を読んだり、お母様からお伽噺とぎばなしを聞かせて貰ったりして毎日を過ごした。外の世界の物語を知れば知るほど、私はこの世界ではない何処かの世界に憧れを抱くようになっていった。

 独りぼっちの私は、同じくらいの歳の友達が欲しかった。

 ある日、沢山の物語の中から、私の心を惹き付ける登場人物を見つけた。

 

 それは『魔王と森の魔女』という名の絵本。

 森の魔女の名前は私と同じ、オルタンシアだった。

 人々の平和のために王女様は犠牲となり、森の魔女の手助けもあって世界を支配していた魔王は封じ込められた。

 王女様は、とても不幸な星のもとに生まれ、その運命から逃れる事ができなかった。

 王女様へ想いを重ねるたびに、私の心は深い悲しみに包まれた。

 せめて私の夢の中だけは、王女様を幸せにしてあげよう。

 私の作ったお伽噺とぎばなしでは、森の魔女が魔王を倒して王女様は救われるのだ。

 王女様はお礼に、私のお友達になってくれるに違いない。

 彼女とお友達になれば、私は毎日寂しい想いもしないし、王女様も楽しいに違いない。

 そんな夢物語をずっと考えているうちに、いつの頃からか『魔王と森の魔女』の絵本に出てくる王女様が私の夢に出てくるようになった。 

 王女様の名前は……何だったか、よく思い出せない。

 夢の中の王女様は、絵本の人物と同じく、健気で笑うと可愛い少女だった。

 それから私と王女様は、夢の中で歌ったり、お菓子を食べたりして遊んだ。

 アンネリーゼお母様に夢の中で起こった出来事を楽しそうに話した時、お母様は憐みの表情を向け、私の頭を撫でた。


「ごめんね……寂しい想いをさせて」


 私が夢のお話をすればする程、お母様の表情は暗くなって疲れているように見えたので、王女様の事をお母様には話さないようになった。

 

 夢の世界の王女様はずっと子供の姿のままだったが、私は少しずつ子供から大人へと成長していった。

 今ある現実を受け止められるようになってくると、絵本やお伽噺とぎばなしの世界へ想いを馳せる事も少なくなった。

 あまりよく覚えていないが、誕生日を迎える度に息がしづらい世界に生きているような暗い気持ちになった気がするし、いつの頃かお父様とお母様の顔色を窺う癖がついてしまっていた気がする。

 無意識にしてしまう愛想笑いも、知らず知らずのうちに身体に沁みついてしまっていた。

 あれだけ想いを馳せていた夢の中の出来事は、いつしか鮮明さを欠いた、ただの幻想でしかなくなり、王女の事も魔女と魔王のお話も記憶の彼方へと消え去っていった。

 そんなある日、突然世界はほつれ、私の住処は砕け散った。

 

 


 ニフルハイムのお屋敷の、地下倉庫にある鏡の前で私は気絶して倒れていたらしく、偶然通り掛かったアルフラウ女伯爵に助けてもらった。

 アルフラウ様のご厚意により、ニフルハイムのお屋敷に侍女として住まわせて貰える事となり、私は他の侍女達と一緒にお屋敷の仕事を受け持つようになった。

 グランツ王国の一般的な侍女とは、親が貴族や騎士出身の少女達で花嫁修業の一環として他の領主のお屋敷で何年か奉公するのが習慣らしい。

 私はニフルハイム女伯爵の義理の妹とという形で住まわせて貰ってはいるものの、侍女としての仕事は他の侍女たちと同じように与えられ、その仕事が終われば自由にお屋敷の中を使って良いという執事のミリィ様との約束になっていた。


 今日は子供の時に読んだ事のある絵本の『魔王と森の魔女』を久々に読みたくなったので、アルフラウ様のお部屋で本探しをする事にした。

 元々私の暮らしていた世界のお屋敷と、ニフルハイム女伯爵のお屋敷が中身まですべて同じという一致は、恐らくこちらの世界を複製した世界が鏡の中にあったという事だろう。

 しかし、鏡の向こうの世界はニフルハイムのお屋敷と、その周辺のまでしか創ることができなかったようで、少しお屋敷の外に出て散歩をすると白い壁に覆われている場所に出て、そこから先は進む事はできない小さな箱庭だった。

 そして、アルフラウ様がお使いになっている本棚が多い部屋は、鏡の中の世界ではヴォルフラムお父様の書斎として使われていた。


「失礼します。アルフラウお姉様、読みたい本があるので少しお邪魔して良いですか?」


 部屋の中のベッドに乗って座っていたアルフラウ様は、声を掛けたのにもかかわらず、私の顔をじーっと見つめて何も答えなかった。


「……ダメですか?」


 私が居たたまれなくなって尋ねると、隣に居た執事のミリィ様がアルフラウ様の耳元で私の事を説明した。


「オルタンシア様です。アルフラウ様のご親戚の……」


「そうなのですか?では、どうぞ。確かにオリフゥに似てますね」


 何だか初めて会うような反応をアルフラウ様がするので、部屋を使って良いという私の記憶が間違っていたのだろかと不安になった。


「……アルフラウ様は、よく記憶が曖昧になられる事がありますので。オルタンシアはあまりお気になさらず。気にしたら負けですよ」


「気にしたら負けですか……分かりました」


 アルフラウ様に一度お辞儀をしたあと、目的の本棚を探しに向かった。

 私は記憶にあった本棚の前に立ち『魔王と森の魔女』の絵本を探したが、そこには違う題名の絵本が置いてあって、私は首を傾げた。

 私は本棚の他の本も調べてみようと目を凝らしたが、一つ大事な事に気付いてしまった。


「あれ……この世界の文字、私の住んでいた世界とよく見ると文字の形が違う」


 今まで意識しないで読めていたはずの文字が、いざ読もうとしてみると読めない自分に驚いた。

 何となく鏡の向こうの世界の文字と似ていたので、全然読めない訳ではなかったが、仮にこの状態で絵本を読んだとして、感情移入して読めるほどの読解力は今の私には無さそうだった。


『魔王と森の魔女』の絵本も、もしかすると背表紙が私の読めない文字で本棚のどこかに置いてあるのかもしれない。

 本の所在に関しては、お部屋を使っているアルフラウ様の方が詳しそうだった。


「あの、アルフラウお姉様。この部屋の本棚の中で『魔王と森の魔女』という題名の絵本を見かけた事はありますか?私と同じ名前の魔女が出てくるお話の本なのですが」


 アルフラウ様は私の質問には反応してくれたものの、首を横に振って本の所在については知らない様子だった。


「私の識る限りでは、そのような名前の絵本はこの部屋の本棚にはありません。

 魔王と題名の付く絵本なら幾つかはありますが、オルタは読みますか?」


「あ、いえ!あまり文字が読めない気がするので、必要ありません。教えて下さってありがとうございます」


 アルフラウ様がベッドから立ち上がって本を探そうとしたので、私は慌てて手を振って誤魔化した。


「文字が読めないのに本を探していたのですか?オルタは面白い子ですね」


 アルフラウ様は目を真ん丸にしたまま、ベッドに座り直した。

 私はアルフラウ様と執事のミリィ様に一礼すると、そそくさと部屋を出て行った。

 調べものをするのに文字がうまく読めないというのは、致命的にまずいのでは?

 私が文字を読めるようになったのはを見つけるまで、しばらく先の事だった。




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