一幕

 ―翌日。


「……昨日の舞踏会でアンネリーゼが失踪した。事が公になる前に、お前がフレースヴェルグ伯の元に行くのだ……くれぐれも、気づかれるな」


 フロストロードの最高指導者プルシタールの命により、リーゼロッテは姉のアンネリーゼの失踪を隠蔽するためにニフルハイム領の伯爵夫人となった。

 フレースヴェルグ伯爵は、何年か寄り添ってきた筈のアンネリーゼ伯爵夫人の面影を覚えていないのか、入れ替わったリーゼロッテを疑う事は無かった。

 ただ、結婚指輪を付けていない事をフレースヴェルグ伯に指摘され、どこかで無くしてしまったと謝った時。


「それは不思議だな。無くしたとしても、対の指輪を持っているわしが見つけられない筈が無いのだが。壊れたかそれとも……まぁよい」


 お咎めを受けることは無く、新しい指輪を作り直すことになり無事に難を逃れた。


 リーゼロッテはフロストロードの一人の魔術師として寒い塔で暮らすより、伯爵領での優雅な暮らしと相応の地位に満足し、理由は分からないが何処かへ失踪してしまった姉に心から感謝した。


 だが、偽りの生活をつづけるにはいささか問題があった。

それは長女のアルフラウには幾ら偽っても、リーゼロッテおば様と呼ばれる事だった。


「アルフラウ様、私はアンネリーゼ。あなたのお母です……どうしてそういう事をいうのですか」


 アルフラウは彼女の言葉に笑顔で首を横に振り、必ずこう言うのだ。


「いいえ。あなたの名前はリーゼロッテ。でも……今は私のお母様なのですね。識っています」


 リーゼロッテはアルフラウの反応で周囲にアンネリーゼの失踪がバレる事を恐れ、次第に彼女を避けるようになっていった。



 


 ―しばらくのときが過ぎた頃。

 

 リーゼロッテは子供を授かり、フレースヴェルグ伯爵は次こそは男の後継ぎが生まれるかも知れないと喜んだ。

 

 生まれてきた子供の顔を目にした時、アンネローゼの背筋が凍るのを感じた。

 その子が女の子であった事も原因のひとつではあったが、それよりも狼狽えたのは片目はリーゼロッテと同じ赤であったが、もう一つの目の色はニフルハイム家では見た事のない色……紫だった。


「アンネリーゼ様、お気を確かに……確かに変わった目の色ですけど、天より授かった特別なお印なのかもしれません」


 動揺するアンネローゼを宥めるかのように、オッドアイの赤ん坊を抱いていた侍女は言った。


「え、ええ……そうね。大丈夫……ただ、フレースが誤解をしなければ良いのだけど」


 赤ん坊を侍女から受け取ると、アンネローゼはその紫の目に何か懐かしい誰かの面影が重なるのを感じた。


「でも、この目の色……何か懐かしい。どこかで出逢ったような……」


 消えかかった記憶の糸をアンネローゼが紡いでいくと、名も知らない成年の顔が不意に思い浮かんだ。

 

「名前がもう少しで出てきそうなんだけど……」


 何度も思い出そうとするが、大事な所でその名は浮かんでは消えるので、アンネローゼは思いだすを事を諦めた。


「そうだ、この子に名前をつけてあげましょう。この子の名は、そうですね……オリフラムなんてどう?」


「とても素敵なお名前ですね。フレースヴェルグ様もきっとお気に召されると思います」


 侍女の言葉に頷き、アンネローゼは泣きじゃくるオリフラムを優しく撫でた。


「そう、あなたの名はオリフラム……愛しき人、ヴォルフラムの……」


「アンネリーゼ様?今、何と仰ったのです?」


 侍女が怪訝な顔で彼女のほうを見ると、アンネローゼの表情は血の気が抜けたように真っ青になった。


「え、なにこれ……酷い冗談。悪夢じゃない」


 この世界にいない筈の彼……ヴォルフラムをオリフラムの瞳を見て思い出してしまったリーゼロッテは、自虐的にわらうと侍女の腕から赤ん坊を奪い取りその首を絞めようとした。

 周りの侍女達が狂ったように暴れるリーゼロッテを抑え込み、フレースヴェルグが連絡を受け彼女の部屋に到着した頃。


 髪の毛を振り乱して錯乱したアンネローゼの美しかった容貌は見る影もなく、その姿はまるで老婆のようになってしまっていた。









 ―ニフルハイムでは無い何処かの場所。

 乳飲み子が揺り籠の中で健やかに眠る姿を、隣のベッドで優しい眼差しで見詰める女性。

 紅い瞳のアンネリーゼは、愛おしい夫のヴォルフラムの紫の眼と自分と同じ紅い眼を持つ我が子が、無事この世に生を受けた事に心から感謝した。

 隣にはずっとそばで寄り添ってくれていたヴォルフラムが、緊張から解放された反動で近くのソファーで無防備にいびきをかいて寝ている姿が可愛かった。


「ずっと傍にいてくれてありがとう、フラム」


 ベッドから少し身を乗り出すと、アンネリーゼは彼の頬にそっと口づけをする。

 その感触で目を覚ましたヴォルフラムは、アンネリーゼの微笑む顔がすぐ近くにあって寝顔を見られていたことに気付いて苦笑いをした。


「ははは……知らないうちに寝ちゃってたみたいだね。おはよう、アンネ。そして、お疲れ様」


 ヴォルフラムはソファーから身を起こすと、揺り籠の中で眠る我が娘の頬を指でつんつんと触れてその柔らかさに和んでしまった。


「そういえば、この子の名前がまだでしたね……フラムは何が良いと思いますか?」


「うん。生まれる子の名前は既に決めてはいたんだ……女の子だったらオルタンシアにしようって。僕の祖母の名前なんだけどね」


紫陽花オルタンシア……素敵な名前ですね。今日からあなたの名前はオルタンシアですよ。この子のこれからに祝福がありますように」


 アンネリーゼは、揺り籠の中で眠るいとしい娘の頬にそっと口づけをして微笑むのだった。

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