仮初
北限の地、ニフルハイムの空は一年中薄暗い雲に覆われ雪も積らない事が殆どない。
昼間でも太陽が顔をみせるのはほんの僅かで、魔術の結界に守られて気温が管理されているニフルハイム伯爵領の街を除けば、人が快適に過ごせる環境とは程遠い。
フレースヴェルグの住む屋敷は、防寒着を着なくて過ごせる程度には快適な温度ではあったが、テラスに出ればやはり肌寒いぐらいで長く居るのには適しては居ない。
そのため夜のテラスに人が来ることは珍しく、屋敷の中で密会をする場合は此処が最適な場所となった。
姉のアンネリーゼがニフルハイム家に嫁いでからもリーゼロッテと会うのは夜のテラスで、フレースヴェルグ伯爵が寝静まった後。
彼女は夜中に寝室を抜け出して、誰も居ないテラスでリーゼロッテと落ち合った。
雲ひとつない夜空の時は稀だったが、星空の見える日には天体観測をするのが二人の習慣となっていた。
リーゼロッテは、フロストロードの魔術師の一人としてニフルハイムの屋敷への行き来を許されてはいたが、アンネリーゼの妹である事を公にはできないため、フロストロードの塔を出るときには常に深くフードを被り容姿を隠していなければならなかった。
二人で夜空を眺める前にリーゼロッテは必ずテラスに人払いの結界を準備し、誰もテラスに立ち入れない事を確認したうえでフードを取ることができるのだった。
「お久しぶりね、リーゼロッテ。元気そうで何よりです」
一緒にフロストロードの塔で魔術を学んでいた時より、少しやつれたように見えるアンネリーゼは、自身の事よりも妹であるリーゼロッテの身体の事をいつも気に掛けていた。
「お会いできて嬉しいです、アンネリーゼお姉様。すこし、お痩せになられましたか?私の方は相変わらず……退屈な塔の中で書物と研究に埋もれる毎日ですけど」
変り身としてリーゼロッテがフレースヴェルグ伯爵と、何度も諸国を同行している話をアンネリーゼは知らず、周囲からも知らされてはいなかった。
それは、姉のアンネリーゼに余計な心配を掛けまいとするフロストロードの意向によるものだが、その余計な足枷によってリーゼロッテは姉に隠し事をしなければならなくなった。
アンネリーゼは星々の点を線で結んだ占星術の話が好きで、星に纏わる予言や伝承を楽しそうに私に話した。
少女趣味の姉の話に合わせてリーゼロッテは相槌を打ちながら、純粋に夜空の景色を眺める事を楽しんでいた。
「ねぇ、聞いてるの?リーゼロッテったら……一つの事に集中しちゃうと、いつもそうなんだから」
頬に姉の指が当たるのに気付き、夜空に魅入っていた私は姉の話しすら上の空だった事に気づいて苦笑した。
「ごめんなさい、お姉様。つい夜空に魅入ってしまって。それで……何のお話でしたか?」
「だから、ヴォルフラムって言うの。フレースの従弟で、紫の瞳がとても綺麗で優しくて……この前は私が落としたイヤリングを一緒に探してくれたんですよ」
「え?」
「え?」
オウム返しに、リーゼロッテの言葉に首を傾げるアンネリーゼ。
瞳を輝かせた姉の口から、思いもがけぬ名前を耳にした妹のリーゼロッテは言葉を失った。
「彼って、ニフルハイム家の男にしては変わってるのよ。詩が上手で、踊りが得意で……年も同じぐらいだから、気が合うみたい」
「あ、あの。アンネリーゼお姉様は、その……ヴォルフラムと言う人が好きなんですか?」
動揺する気持ちを悟られまいと、なるべく平静を装いながらリーゼロッテはアンネリーゼの様子を
アンネリーゼは微笑みながら首を傾け、リーゼロッテの言葉を肯定した。
「ええ、さっきそう言ったのですよ。もう……リーゼロッテったら、本当に話を聞いてなかったんですね」
「お、お姉様!そんな事がフレースヴェルグ様に知られてしまったら、お姉様の命にもかかわります!考え直してください!」
アンネリーゼの肩を強く掴み、思わずリーゼロッテは大声で叫んでしまった。
突然の出来事にやや茫然としたものの、肩を掴んでいだリーゼロッテの手に柔らかい手をアンネリーゼは優しく重ねた。
「リーゼロッテ、落ち着いて……ね。あなた、今日は少しおかしいですよ?」
アンネリーゼは心配そうに、リーゼロッテの顔を覗き込んだ。
リーゼロッテは心の内を見透かされている気分になり、思わず顔を伏せてアンネリーゼから視線を逸らした。
「はい……私ったら何を勘違いしていたのでしょう。心配させてしまってごめんなさい」
アンネリーゼが浮気などできるような器用な人ではないと、リーゼロッテは改めて思い出した。
それよりも、姉の名を偽ってヴォルフラムとの逢瀬を重ねた事がフロストロードやフレースヴェルグ伯爵に知られた時の事を想像すると、リーゼロッテは背筋が凍るのを感じずにはいられなかった。
「……そろそろ冷えるから帰りましょう、アンネリーゼお姉様。また、夜空が晴れた時にここで」
「ええ、そうですね。リーゼロッテの手……とても冷たくなっているもの。
風邪を引かないうちに部屋に戻りましょう」
結局、アンネリーゼに気配を悟られるのを恐れたリーゼロッテは、彼女と別れるまで最後まで視線を合わせる事ができなかった。
―数日後。
リーゼロッテは手紙を書いてニフルハイムの郊外にヴォルフラムを呼び出した。
銀髪の髪に赤色の目、姉のアンネリーゼが少しやつれている事以外に殆ど見た目は変わらないリーゼロッテは、フロストロードには内緒でニフルハイム伯爵夫人の振りをした。
「アンネリーゼ様からお誘いを頂けるなんて光栄ですね。このような場所に呼び出されたという事は何か、悩み事でもありましたか?」
藍色の髪に紫目の青年ヴォルフラムは、リーゼロッテの手紙をアンネリーゼのものと疑うことなく一人で郊外の丘までやってきた。
手紙は、ニフルハイム家の封蝋を用いたので疑う余地は無いのだが、無断でニフルハイム家の紋章を使用した後ろめたさでリーゼロッテは早々に彼と話を済ませて立ち去りたくなっていた。
「わざわざ来てくれて感謝します、ヴォルフラム。実は……最近ね、あなたとの仲をフレースに疑われているの」
「それは……僕の事は未だしも、アンネリーゼ様にご迷惑をお掛けする訳にはいきませんね」
ヴォルフラムは額に手をあて少し考え込むと、意を決したように頷いて私を真剣な眼差しで見つめた。
「アンネリーゼ様は今後、どのように望まれますか?私はアンネリーゼ様にご迷惑をお掛けする訳にはいきませんので、明日にでも此の地を去ろうと思います」
ヴォルフラムの言葉に、リーゼロッテは慌てて彼を制した。
「ま、まって!その……まだ、噂程度の話でフレースには気付かれていないとは思う。
ただ……お屋敷では出来るだけ私にかかわらないように接してほしいの。これはヴォルフラム、あなたの為でもあるから」
……そう。
姉のアンネリーゼにさえ近付かなければ、ヴォルフラムとの仲をフロストロードや姉に知られる事も無い。
そして、ヴォルフラムにも疑いが掛る事は無いのだと、リーゼロッテは自分に言い聞かせた。
ヴォルフラムはリーゼロッテの言葉に少し驚いた表情をしたが、口元に手を当て考え込むような仕草で彼女のほうを見た。
「それがあなたのお望みならば、仕方ありませんね。でもいつの日か、アンネリーゼ様の苦悩の枷を僕が断ち切りますので、それまで暫しの間お待ちください」
雪の降る丘で膝をつき深々と頭を下げるヴォルフラムに、リーゼロッテは思わず駆け寄って肩に積もった雪を払った。
「無茶はしないで、ヴォルフラム!私は人目を忍んで貴方に会えるだけでも幸せですから。元気を出して……ね」
「また、ここで……お逢いできますか?」
「え?ええ、また逢いましょう」
成り行きとはいえ、また余計な約束をヴォルフラムと交わしてしまった事にリーゼロッテは心を痛めたが、彼を護る為の嘘だと自分に言い聞かせて心を落ち着けた。
これは仮初の幸せ、いつか終わりが来る。どこかで終わらせないといけない。
この先に訪れる不安を漠然とリーゼロッテは感じていたが、ただヴォルフラムと一緒に居る安らぎが心地良くて、いつしかその不安を心の隅に追いやってしまっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます