輪舞
「嗚呼、ひどく退屈ね」
そう呟く彼女の言葉は、壮言な管弦楽の音にかき消されて誰の耳にも届かない。
今宵は、グランツ国王の結婚10周年の記念日。
ここ首都エスラスの王宮では、近隣貴族達を招いての舞踏会が厳かに行われていた。
退屈な時間は、まるで周りの時間が止まっているかのように進む気配が感じられない。
銀髪の女性は緋色の目を曇らせながら、大理石の柱に背を預けると、広間で踊る人影と懐中時計の針をしきりに見比べては溜息を漏らした。
彼女は北限の勇、フレースヴェルグ伯爵の妻であるアンネリーゼ・ニフルハイムの変り身としてやってきたの妹のリーゼロッテ。
アンネリーゼは魔術師集団「フロストロード」のとある計画に重要な役割を果たす人物。
グランツの首都へ赴く事で、万に一の危険にも晒される訳にはいかなかった。
舞踏会がニフルハイム領内であれば、フロストロードが宮廷内を随時監視するため替え玉など必要ないが、ここはグランツ国王の膝元。
フロストロードがいくらニフルハイム領で権威を持とうと、グランツの王宮へ許可なく入る事は許されていない。
ニフルハイムでは魔術師の地位が保証されているものの、魔術師自体が稀有なグランツ王国においては胡散臭い連中という偏見が、貴族達の間でいまだ拭い去れていないのが実状だった。
そのため、フロストロードに籍を置く妹のリーゼロッテは、フレースヴェルグ伯爵の承諾の元、彼に付き添いアンネリーゼ伯爵夫人として妻を演じる事となった。
姉妹は変装と魔術を用いずともそれほど変わらない容姿であったため、今までに彼女が社交場に出席してそれをリーゼロッテだと気付く者はいなかった。
ただし、今宵は舞踏会。
習ってもいない舞踏で醜態を晒す訳にもいかず、リーゼロッテは壁の花としてただ時間を過ごす事しかできなかった。
「姉さんだったら……もう少し楽しめたのかも」
魔術以外学んだことのないリーゼロッテに対して、アンネリーゼは同じ魔術師であってもニフルハイム家に嫁ぐために最低限の作法と教養は身につけていた。
同じ家系に生まれながら自分は姉の代用品でしかない事を想うと、テーブルに並んだ料理の美味しさを加味しても、リーゼロッテの憂鬱な気分が晴れることは無かった。
「お身体の調子が宜しくないのでしたら、お部屋までご案内しますよアンネリーゼ伯爵夫人」
伯爵夫人を装う彼女が、ふと声の主へと視線を向けると、どこかで見覚えのある紫の目と藍色の長髪の若者が気遣うように傍にやってきた。
リーゼロッテは、彼がフレースヴェルグの従兄弟である事を思い出し、柔らかな微笑みを浮かべて彼に軽く会釈した。
「お気遣いありがとう、確か……ヴォルフラムでしたね。別に疲れてる訳じゃないの……ただ、みんな楽しそうに踊っているから羨ましくて拗ねていただけ」
リーゼロッテが彼に適当に話を合わせると、ヴォルフラムは苦笑いをして舞踏会場を見回した。
踊りの輪の中にフレースヴェルグ伯爵の姿がない事を確認すると、彼はリーゼロッテに向き直って溜息をついた。
「嗚呼、なんて事だ。フレースヴェルグ卿はアンネリーゼ様を置いて、独りで部屋に戻られたのですか。
従兄様らしいといえばらしいですが……もう少し気を利かせてくれてもいいのに」
事情も知らずに親身になって語りかけるヴォルフラムをリーゼロッテは少し気の毒にも思ったが、あまりにも真剣な表情が可笑しくて、ついからかいたくなってきた。
「慣れたつもりでも、放って置かれると寂しくて……ね。ヴォルフラムはニフルハイム家の男にしては、本当に変わっていますね。
武勲にばかり執着して、音楽や舞踏になんて興味を示す人が誰も居ないのに」
リーゼロッテは心の中では笑いを堪えながら、悲劇の妻を演じてみせた。
「あはは……僕は生まれつき身体が丈夫じゃ無かったもので。
これで音楽の才も全く無かったら、こうやって呑気に音楽家なんてやらせてもらえなかったでしょうね」
ヴォルフラムは、頭を軽く掻きながら苦笑いをした。
確か彼の母系がニフルハイムでも高名な魔女の血統だったとリーゼロッテは記憶している。
その紫の目は夢魔の血を引く名残とも噂され、彼の奏でる曲と歌は呪歌という特殊な効果を持つという。
実際にヴォルフラムの呪歌を聞いた経験はリーゼロッテには無かったが、この甘い声に誘われてしまったら魔法に掛けられたようになるのも不思議ではないと思うのだった。
「親切な方からは踊りましょうって誘われはしたけど、実は断ったのです。
私は魔術を修めただけの田舎娘だから……殿方の足を踏みつけてしまっては失礼でしょ?」
リーゼロッテはおどけて、口元に指をあてて見せた。
「僕の足ならいくら踏みつけても構いませんよ。アンネリーゼ伯爵夫人ほどのお方が壁の花になるには惜し過ぎます。ニフルハイムの美しい華の存在を皆にお披露目致しましょう」
ヴォルフラムは優しく微笑むと、彼女の手をとり引き寄せた。
一瞬、リーゼロッテは自分が伯爵夫人を演じている事を忘れ、彼の紫の瞳を魅入られたように覗き込んで彼の胸元でそっと囁いた。
「ねぇ、ヴォルフラム……今宵だけでいいので、私の恋人を演じてみるというのは駄目ですか?」
彼女の言葉に一瞬、ヴォルフラムは考え込んだ表情を見せたが、次の瞬間にはリーゼロッテに微笑みを返した。
「……それが貴女の望みでしたら、喜んで」
リーゼロッテは、伯爵夫人としてはあるまじき言葉であったと我に返って後悔はしたが、それとは別に心に芽生えたときめきを抑える事ができなかった。
一度紡いだ言葉は戻らない。
今日の出来事は私の心に仕舞っておけばきっと大丈夫。
リーゼロッテは自分にそう言い聞かせて、彼との限られた時間を楽しむことにした。
「一夜限りの夢でも嬉しいです。今日は私にとって最高の思い出になるでしょう……」
なにも言わず頷くヴォルフラムに、彼女は最高の笑顔で微笑み返した。
フレースヴェルグ伯爵にこの事が知られて、重い罰を受けても後悔はきっとない。
リーゼロッテの心は躍り、今この時だけ王子に見初められた童話の
壮言な管弦楽は鳴り響き、二人は踊りの輪の中へと滑り込むように消えていった。
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