魔鏡2

 ニフルハイム荘園より北に少し離れた、雪が降り積もる針葉樹の森に魔女の洋館はあった。

 

 雪の合間から所々見える古い赤レンガ造りの壁は、ツタが鬱蒼と生い茂り、まるで来るものを拒むかのような雰囲気を醸し出している。

 冬にも関わらず奇妙な形のキノコやシダの生い茂る庭には、館にそぐわない豪華な装飾の施された大きなソリが停められていた。

 来客は既に館の中に居るらしく、ソリに残された従者と犬達は退屈そうに欠伸をしながら、陰鬱な雰囲気の館を眺めていた。


「ねぇ、この鏡で何処へでも行けるって本当なの?」


 黒髪の少年は紫の瞳を輝かせながら、部屋に置いてあるくすんだ鏡を指さして、白髪混じりの年老いた魔女に訪ねた。

 樫の木のベッドに半身を起した魔女は、少年の突然の言葉に少し片眉を上げるが、無愛想な表情のまま少年の方を見た。


「……本当でもあるし、嘘でもある。その鏡がお前の姿を映す時が来れば、それも叶うだろうね。ただし、帰って来れなくなっても知らないよ」


 少年は袖でくすんだ鏡を拭いながら覗き込んだが、鏡面は周りの景色は勿論、目の前に居る少年の姿も全く映しださなかった。


「え、戻って来れないの?それはヤダなぁ

……せっかく、オルタンシアのお婆ちゃんとお稽古ごとのない世界に行きたかったのに」


「……そんな暇な世界に連れていかれても困るんだけど。ところで、その話は誰から聞いたのかな?私が誰かに話した覚えは無いのだけど」


「うん?このお家に居るミラっていう女の子から聞いたんだよ。お婆ちゃんの知り合いじゃないの?」


 独り暮らしの魔女の館に住むのは使い魔の黒猫ぐらいで、あとは時折森から来る小動物が館に迷う込む程度である。

 ……が、同居人といえば同居人の屋根裏部屋に住まわせているマナ異性体エキュオスのミロワの仕業なのは間違いない。

 近頃は少年の姿に留まらず、老若男女すべてに姿を変えることができるマナ異性体エキュオスとなったミロワは、どうやら少年をからかって遊んでいるようだった。


 その子は女の子ではないと魔女は答えそうになったが、何となく少年がガッカリしそうなので、言うのは思い留まった。


「その女の子はまだ館に居るのかな?ヴォルフラム、案内してくれる?」

 

 魔女の言葉に少年は笑顔で首を振った。


「ううん。用事があるって、お外に行っちゃったよ。近くの家の子なの?外は寒いのに、あんな服装で大丈夫なのかな」


 少年は何も映らない鏡に飽きたのか、魔女の寝室に無造作に置いてある奇妙な道具や置物を物珍しそうに手に取って眺めだした。

 少年は手に取った置物や奇妙な道具について片っ端から聞いてくるため、いちいち答えるのが億劫になってきた魔女ではあったが、その目は心なしか笑っているように見えた。


「壊しても構わないけど、怪我だけは気をつけるんだよ。私が娘……おっと、ヴォルフラムのお母様に怒られてしまうからね。

 さて、そろそろ帰る時間ではないのかい。母上が心配しないうちに戻った方がいいよ」


「ええっ……まだ大丈夫だよ。だって、オルタンシアのお婆ちゃんともう少し居たい」


 少年は口を尖らせて不満げな表情で紫の魔女オルタンシアを見詰めたが、魔女は表情を変えずに首を振った。


「その気持ちは受け取るけど……私がヴォルフラムのお母様に怒られる」


 少年は暫くは駄々をこねていたが、魔女の態度が変わらないので手に取っていた奇妙な道具を元の位置に片付けると渋々帰りの支度を整えた。


「また遊びにくるね。オルタンシアのお婆ちゃん。いつもの約束っ」


 少年が小指を差し出し、指きりの仕草をすると、魔女は少し目を伏せながら少年の手を握った。


「……すまないが、私は暫く旅に出かけないといけなくてね。すぐ戻って来れないかもしれないから、約束はできない。また今度にお預けで良いかな?」


 紫の魔女オルタンシアは少年の髪を撫でながら静かにそう言うと、起こした半身をベッドに戻した。


 「えー、いつ帰ってくるの?帰ってきたら手紙ちょうだいね。約束だよ?」


 「ああ、帰ってきたら連絡するよ……必ずね」


 

 

 窓越しに見える、ソリの上から館に手を振りながら去ってゆく少年の姿を見送ったあと、魔女は深い深呼吸と共に目を瞑った。

 暫くして暖炉にくべた薪も灰に近づくと、部屋の隙間から冷え込んだ空気が入り込むせいか、魔女の吐く息も白くなり始めた。

 

「さて、少し話しておきたい事がある。出てきてもらおうかミロワ」


 魔女は目を瞑ったまま、誰も居ない筈の扉の向こうに語りかけた。

 扉の向こうからはノックと共に、綺麗なドレスを着た少女が恭しく頭を垂れながら魔女の眠るベッドの傍までやってきた。


「ごめんなさい、あの子に余計な事まで教えちゃった。オルタンシアは怒ってる?

 お詫びにリンゴでも剥こうか。美味しいよ?」


「悪いけどリンゴを食ってる暇も惜しいからいらない。実を言うと、私の残された時間は限りなく少ないんだよ」


「……ううん、でもさ。お話を聞きながらリンゴを剥く時間ぐらいはあるでしょう?リンゴ食べなよ」


「なんでそんなにリンゴを食べさせたいんだか。魔女にリンゴとは何となく笑ってしまうけどね」


 ミロワはベッドの脇のテーブルに置いてあったリンゴを、手際良く果物ナイフで剥いて薄く切ると、その一つを魔女のほうに差し出した。

 魔女はベッドから半身だけ身体を起こすと、リンゴを受け取って一口齧ったあと、ミロワの方を向いた。


「そこにある移送鏡テレポーターの事だが、きみに譲ろうと思う」


 魔女の突然の言葉に、少女の姿のミロワは驚いた様子で目を丸くした。


「え、俺に任せるとか正気なの?だって、自分はマナ異性体エキュオスだよ?知り合いの魔術師に預けた方が安全じゃない?」


「一度の事故のせいで移送鏡テレポーターを壊そうとした人などあてにできないよ。少なくてもミロワに預けておけば、鏡を壊そうとしたりはしないでしょう?」


「確かに……そういう意味では信用してくれてもいいけどさ。死ぬ前まであの鏡の事を考えてるなんて不思議だね。何か想い入れでもあるの?」


 ミロワの問いに、紫の魔女オルタンシアは目を細めながら何かを思い出すように呟いた。


「その移送鏡テレポーターは師匠の形見でもあるから……私も鏡の素材集めの旅に師匠と各地を飛び回って苦労したからね。他の魔術師が造った移送鏡テレポーターとは構造が根本的に違うものだし」


「確かに。ただの移動用じゃなくて、思い描く世界に行ける……というよりだものね。こんな凄いものよく奪われないで隠せてるよね」


 ミロワの言葉に魔女は片眉を少し上げたが、少しは元気が戻ったのかリンゴをまた一口齧った。


「鏡の向こうに箱庭を作る程度の力だよ。別に、たいそうな代物じゃないから……問題は一度空間を創り出すと再びマナを蓄えるまで、鏡としても機能しないガラクタにしか見えないという事だね」


 ミロワは部屋に置いてある、くすんだ鏡を覗き込み「確かに」と頷いた。


「誰かに預けて、棄てられても困るよね……分かったよ。この鏡を一旦預かっておくね」


「預かるとは?私が鏡を引き取りに行けるわけがないのに、奇妙な事を言うんだね」


 首を傾げる魔女に、ミロワはニコリと微笑みながら答えた。


「ほら。ヴォルフラム君とかが、もしかしたら使いたくなる時が来るかもしれないじゃない?」


「いやいや。どういう理由でそんな事になるのさ。そんな日は来ないから安心してミロワがずっと持っていなさい」


「えー、その日が来ないとは限らないよ?賭けようか?」


「ミロワが無理やり、ヴォルフラムに鏡を使わせるように仕向けたりしては駄目だよ?鏡の向こうの世界の事なんて、私ですら分からないんだからね……いや、少しは知ってるけど」


 ベッドの傍に近寄って見つめるミロワに、紫の魔女オルタンシアは少し目を逸らした。


「ええと、じゃ。俺からは使うようには勧めないって事で。賭けは成立かな?」


「いやいや……余命幾許よめいいくばくもない私に、何を賭けろって言うわけ?」


「それじゃね。俺が勝ったらオルタンシアの笑顔を見せてよ?なんなら、前払いでも構わないよ」


 笑顔で答えるミロワに紫の魔女オルタンシアは視線を逸らすと、ふてくされる様にベッドに横になり目を瞑った。


「なにそれ……そんなもの、死の世界かくりよで幾らでも見たらいいよ」


「かわいいねぇ、オルタンシアは。今まで大事に育ててくれてありがとうね、この恩は忘れないよ」


「いい年のお婆ちゃんに何がかわいいんだか……私もかわいいを持って幸せだったよ」


 それが紫の魔女オルタンシアの最後の言葉となった。

 

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