忘却3
翌朝。
目を覚ましたアルフラウ様の顔色がいつもと同じに回復した事に一安心した私は、彼女の額に手を添えて熱が下がった事を確認した後、朝の挨拶をした。
熱は下がったのは良いものの、逆に体温が低すぎなのでは?
という懸念もあったが、健やかな表情をしているのできっとこれが平熱なのだろうと理解する事にした。
「おはようございます。アルフラウ様。今日の体調の方は如何でしょうか?
昨日の今日ですから、あまり無理はされませんよう」
起きたばかりのアルフラウ様は、私の顔を怪訝そうに見つめた後、目を伏せながら私に囁いた。
「おはよう。貴女は誰?オリフゥは何処にいるか、分かりますか?」
いつもと同じ彼女の言葉に私は失望落胆し、表面上は平静を装うように努めたが……今日に至っては感情が堰を切ったように溢れだし、我慢の限界に達してしまった。
「私の名前はミリィ……とお呼びください。と、何度申し上げましたでしょうか?
アルフラウ様……昨日の今日で、そのお言葉はあまりにも酷い冗談です」
アルフラウ様は俯いたまま肩を震わせていいたが、その姿は本当に初めて会った相手に責められて怯えているように見えた。
「すみません……取り乱してしまいました。不躾な発言をどうかお許しください」
アルフラウ様は伏せていた視線を私に向けると、じっと顔を見つめ始めた。
しばらくそのままだったが、彼女は手を差し伸べ、いつの間にか濡れていた私の目頭を優しく指でなぞった。
「泣かないで、ミリィ。貴女はずっと私の為に尽くしてくれていたのですね。気づけなくてごめんなさい」
その言葉にハッとなり、私は自分が泣いていたことを認識した。
慌ててアルフラウ様から視線を逸らし、溢れ出る涙を拭った。
「ミリィ……私の心の時間は、呪いでずっと止まってしまっているのです。だから、あなたを知っていた私は、もう此処にはいないのですよ」
アルフラウ様の言葉の意味が理解できぬまま、彼女に謝られた事に対し、また胸の奥からこみ上げてくる感情に支配され、嗚咽を止めることが出来なくなってしまった。
「それは、理解しかねます。アルフラウ様は此処にいらっしゃるでは無いですか……そして私の事をこうして慰めてくださってます」
アルフラウ様は潤んだ
「それはあなたが、私を想って泣いてくれているからです。それでも……明日になれば、私は何事も無かったようにあなたに振る舞ってしまうでしょう。
私の記憶は今日しか生きていられないのです」
「今日しか生きられない……その呪いは、どうやったら解けるのですか?」
「違うのです、ミリィ。これは私が自ら望んだこと。私はもともと、大人になるまで生きることが出来ない身体でしたから、仕方のない事なんです」
「死なないための呪い……それはオリフラム様の為に、ですか?」
私の問いに、アルフラウ様は静かに頷いた。
「私は言霊の加護を
「勿体ないお言葉です。私こそ、アルフラウ様の苦悩を何一つ知ることができずに、今まですみませんでした」
「私がミリィの事を忘れてしまっても、ミリィは私の傍にいてください……これは私からのお願いです」
「分かりました。私はアルフラウ様への生涯の忠誠をここに誓います。今日の事をアルフラウ様が忘却してしまっても、私は絶対に忘れません」
私がアルフラウ様の呪いの事を憂いたところで、呪いが解ける訳では無い。
ただここに有る事実だけを受け止めればいい。
そう思うと、今まで心の奥底にあったわかだまりが薄れてゆくのを感じた。
「ありがとう、ミリィ。私もあなたが大切な人だと覚えておかないといけませんね。そうだ……こうしましょう」
アルフラウ様は弾んだ声と共に一つ拍手をすると、ベッドを抜け出して本棚にあった一冊の本を取り出した。
「これは、私が子供の頃に使っていた日記帳です。私がミリィと過ごした時間をこれからはここに記しますね」
「日記……ですか。これは、私が読んでも良いのでしょうか?」
「……それは恥ずかしいからだめです」
頬を染めて日記を抱きしめるアルフラウ様に、心が少しばかりときめいた。
「ミリィとの思い出を私は記憶に残すことができないけど、ここに記録として残す事はできるでしょう?」
「それは良いお考えです。アルフラウ様は本の置き場には詳しいですから、その日記帳が
これで、明日お逢いした時にはアルフラウ様が私の名前を聞くところから始めなくて済むのですね」
私はいつもの口調に戻り、アルフラウ様に答えた。
「もぅ。あまり意地悪は言わないで。あ、そうだ。似顔絵もあったほうがいいですね。今日はミリィの肖像画を私が描きましょう」
「アルフラウ様が絵を?意外なご趣味ですね。描いて頂けるだけでも光栄です」
私が
「それと、オリフゥにはこの事は内緒にしておいてください。あの子は気づいているかも知れないけれど、私から余計な心配をかけたくないのです」
「……分かりました。これはアルフラウ様と私の秘密にいたします」
私はアルフラウ様の仕草を真似て、口元に指をあてながら微笑みを返すのだった。
オリフラム様がグランツ王国の王子といざこざを起こしたことにより、謹慎を言い渡された後にアルフラウ様が退屈しないようにとニフルハイム領の外への旅を薦めた。
翌日には勿論忘れているため、オリフゥが屋敷のどこを探しても見つからないとアルフラウ様が泣きついてきた。
「それはアルフラウ様が、オリフラム様にしばらくの間は旅に出ろと薦めたのですよ」
と彼女が納得するまで説明するのには、いささか時間を要した。
オリフラム様がニフルハイム荘園を離れている間、私はオリフラム様の代りに執政官も兼任する事になり、ニフルハイム領においての私の地位は確たるものとなった。
アルフラウ様は、オリフラム様が居ない事に少しは理解が頂けたようで、代わりに私を頼って下さる機会が多くなった。
オリフラム様が居ないからという理由からではあるが、夜空の晴れた日にはアルフラウ様がテラスへと私を誘い、一緒に夜空の星々を眺めたりした。
少し肌寒い夜空下で、アルフラウ様はオリフラム様との思い出を楽しそうに私に語った。
それを微笑ましく聞きながら、夜空に輝く星々をアルフラウ様のそばで眺める時間がとてもゆっくりと流れて、心が癒されていくようだった。
「ねぇ、ミリィ。オリフゥは私の事を好きでいてくれると思う?この星達の輝きのように」
愁いを帯びた瞳で夜空を見上げるアルフラウ様の姿に、私は居たたまれなくなってその身体をそっと抱き寄せた。
「時が流れても変わらないものがあります。大丈夫です……オリフラム様はアルフラウ様の想いを忘れたりするような方ではありません」
「……オリフラムの所に行ってはだめ?」
甘えるように耳元で囁くアルフラウ様
「アルフラウ様、ニフルハイム領から出る事はあなたにとって危険すぎます。自分の身をもっと案じてください。それに、ニフルハイム女伯爵はアルフラウ様が居なくては始まりません」
「……そうですか」
アルフラウ様は、私の言葉に小さく唸りながら頭を抱えていたが、何か閃いたようで指を立てて笑顔で囁いた。
「ミリィが居ればニフルハイムは大丈夫です。ミリィが決めた事は、私が決めた事と同じにしましょう」
「嬉しいお言葉ですが……それは、全然大丈夫ではありません」
「……そうですか」
こういう時の彼女は、どこにでもいる普通の少女のように見える。
この一面は、オリフラム様と私しか見ることができない側面なのだろうか。
オリフラム様の謹慎に我慢ができず、アルフラウ様がニフルハイム領を抜け出してしまった時の対応も、覚悟しておいた方が良さそうだと私は苦笑いしてしまうのだった。
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