無重力下に投げ出されたかのように見えたバケモノは、しかし再び眼の前に着地した。それはまるで、吸い付くように。

 バケモノが丁番を踏み抜き、閉じようとしていたハッチが停止する。唖然とするドロシー。眼の前に舞い戻ったバケモノは、緩慢な動きで二人に迫っていた。

 ドロシーが起爆装置を投げつける。それなりの質量を持った金属の塊は、しかしバケモノに触れると瓦解してしまう。粉となって崩れ落ちたそれは、空気を再充填するコンプレッサーから流れた風に吹き飛ばされた。鉄粉の舞う中で、バケモノはこちらを見失ったのかその動きを止める。

 あいつがどうやってこちらを認識しているのかは、さっぱりわからない。しかし逃げるには今しかないように思えた。

 ……いや、逃げたところで、どうするというのだ。

 もはや、万に一つも勝ち目はない。ついぞ正体のわからなかったバケモノを相手に切ることのできる手札は、もう存在しないのだ。いいや、最初から手札なんてなかったのかもしれない。偶然その場にあったカードで場当たり的な対処を続けてきたに過ぎないのだから。

 悔しいなあ。

 このまま彼女を見返すこともできないまま、無残な肉片に成り果てるなんて。

「……次。次がある」

 ドロシーは諦めていないらしい。脂汗を垂らしながらも、その瞳はキッとバケモノを見据えている。追い詰められているだけなのに、その姿には、気高さすら感じた。

 しかし現時点で有効と言える手段はない。物理的な破壊は不可能。宇宙に捨てるのも二度失敗した。他には……こちらが逃げるぐらいだろうか。しかし脱出艇は既に遥か遠い宇宙へと旅立った。生身で宇宙に飛び出したのでは、ただ死を待つのと変わらない。

 ……いや、待てよ。

 なぜここで力尽きた彼らは、こんなところに足を運んだのだろうか。それにここに転がっている死体は、どれも人間の形を留めているではないか。

 彼らの死因は、なんだ?

 周囲を見渡す。渦巻く鉄片の隙間から、キングサイズの作業用ポッドが覗き込んでいた。積み込まれているのは……酸素ボンベだろうか。他にも何か詰められている気がするが、目視では判別できなかった。

 ……そうか。

 彼らは、諦めていなかったのだ。

 作業用ポッドに資材を満載にして脱出を試みたのだろう。しかし所詮は作業用。あれだけ資材を積めば、確保できる乗員は良くて一人。容積を確保するために資材を降ろせば、今度は救助が間に合うかもわからない。銀河救難信号SOSを発しても、こんな辺境宙域に到着するのは早めに見積もっても三日後。現実的な視点で見るなら、一週間分の資材は欲しい。食料はなんとかなるだろうが、水と酸素は……どうしても嵩が張る。

 恐らく彼らは、そのバランスを巡って争ったのだろう。そして、全滅したと。

 しかしここにいるのは二人だけ。そのうえドロシーはまだ気づいていないらしい。抜け駆けするなら、いくらでやりようはある。

 最後のチャンスだ。ミランダは周囲を窺いながら、作業用ポッドへの距離を詰める。ドロシーはバケモノと睨み合っていた。最後の最後に出し抜かれるとは汁ほども思っていないだろう。私を見くびった酬いだ。

 生還したら、まずは天の川を見に行こう。それから、貯まった貯金と保険金でしばらく遊んで暮らして、適当なタイミングで再就職する。それから、それから……。

 このバケモノのことは、どうする?

 遠い宇宙の隅まで逃げれば、もう追いかけてこないだろうか? しかしこの怨霊じみたしつこさを持つバケモノは、宇宙のどこかで生き続けている。きっと、いつまでも、永遠に。 次もまた、誰かを無残な肉片に変えるだろう。この未知の恐怖に対して、人類はあまりにも無力だ。

 ミランダも調査員の端くれ。分不相応なプライドもある。

 なればこそ、誰かが戦い続けるしかないこともわかる。今すぐにとは行かないまでも、何十年、何百年先までには――この生物と呼べるのかすらわからない未知の脅威に立ち向かうことができるように。

 そのためには何が必要だ? 先を見据える目的意識。困難を前にして諦めない根性。誰かを巻き込む影響力。頼る相手を選ぶ判断力。そしてなにより、人類のために身を粉にする、気高い使命感。

 引っ込み思案でコミュニケーション能力に欠ける、卑屈な私には……とても備わっていないものだった。

 むしろ、それらを持っているのは――

 衝撃。気づけば、ドロシーの顔が目前に迫っていた。接触回線を開いた彼女が叫ぶ。

「アタシについてきて!」

 出口に向けて駆け出す彼女。そんな彼女の前に、ミランダは片足を出す。蹴躓いて転んだ背中の赤い染みは、なんとも痛々しいものだった。今度はこちらからメットをぶつける。

「な、あんた一体――」

「そこにポッドがある。資材を積んで逃げよう」

 ミランダに示されて、ようやく彼女はそれに気づく。その事実に、仄暗い優越感を覚えた。

 バケモノはまだこちらに気づいていない。やるなら今しかない。

 ポッドへと向かう。資材を満載にしたそれを覗き込んだドロシーは、頭を打ち付け騙されたとばかりに叫んだ。

「ちょっと! これじゃあ一人しか乗れないじゃん!」

「そうだよ」

 ミランダは彼女を突き飛ばし、その背中を蹴飛ばす。ポッドに落ちて振り返った彼女に構うことなく、ハッチを閉じてやった。

 パネル越しになにやら喚いているようだったが、ゼロ気圧に断絶された声は届くことがない。

 だから私が何を言っても、彼女にはわからないだろう。

「私にはできないけど……お前なら、できるよ」

 絶対に、教えてやらない。

 外部パネルを操作し、スラスターを起動。ふわりと浮き上がったポッドは、躊躇うことなく船外へと飛び出していった。

 終わってしまえば早いものだ。どっと力が抜け、へなへなとその場にへたり込む。

 バケモノは未だにこちらを見失っているらしい。最後の仕上げだ。ミランダはもう一度気合を入れて立ち上がり、臨時エアロックに飛び込む。どこか、最寄りのコントロールルームへ行かなければ。息を殺して、気付かれないように。

 緊急コマンド入力。銀河救難信号SOS発信。ポッドと艦船では出力が違う。より広範囲に発信した方が、彼女の助けになるだろう。私にできることは、ここでおしまいだ。


 ……。


 …………。


 ……………………。





 退屈だ。

 話し相手が居ないのはいつものことだが、一人遊びのための機材も全て部屋に置いてきてしまった。非常灯の赤い光に照らされて、ミランダは何をするでもなく佇む。

 虚無感は、次第に達成感へと移り変わった。やり遂げたんだ。あの感じ悪い女の鼻を明かして、人類に貢献してやった。

 ――遠い部屋で、耳障りな足音が響いた。

 バケモノがミランダを探しているのだろう。椅子の上で膝を抱え、考え込む。酸素があるので、邪魔なヘルメットは脱ぎ捨てた。

 このまま何もしなければ、待っているのは確実な死だ。しかしこれ以上できることはない。せいぜい逃げ回ることぐらいだろうが……もってあと半日だろう。いい加減にお腹も空いた。まあ、食料は腐るほどあるのだろうが……まともに睡眠がとれない時点でもう終わりだ。

 少しずつ迫る足音が、恐怖心を駆り立てる。


 私は、なんてことをしてしまったのだろうか?


 調査員の矜持なんてものは捨て置いて、一人で逃げてしまえば良かったのではないだろうか?


 怖い。死ぬのが怖い。アンメアリーの悲鳴が、名前もわからない誰かの最期が、むせ返るような血と糞便の臭いが、ミランダの脳裏に蘇る。

 どうして逃げなかったんだ。

 自責の念と後悔が、恐怖とないまぜになって胸に渦巻く。

 嫌だ。

「死にたくない……」

 死にたくない、死にたくない、死にたくない。

 無意識に呟いていた。

 何も残すことができないまま、誰にも知られることなく、一人で、この暗く寒い宇宙の中に、魂の抜けた肉片となって、永遠に彷徨い続けるのだ。

 それが怖くて、辛くて、涙が込み上がってきて。

「……そうだ」

 不意に、しまいこんでいたカメラの存在を思い出す。結局役に立たなかったが、捨てる理由もないのでそのまま持っていたのだ。

 震える指で録画を始める。

「私は……ミランダ。ミランダ・アイスマン。スペースオイルインダストリー所属。ステーツ級七番艦、キングス・トランプの、最後の乗員です。私は、今……得体の知れないバケモノに、命を狙われています。足音が……近づいてきました。あれは、カメラには映らないので、皆さんには、見えないかもしれませんが……あの、とにかく、居ます。バケモノは、人間を細切れにします。誰だか、わからないぐらいに……その、目的は、わかりません。捕食行動では、ないと思います。あの、今、多分壁の向こうに居ますね。この壁を破って……来ました。見えますか? 見えないですよね。映ってないし。でも、居るんです。居るんです。眼の前に。もしこの映像を解析して、何かの役に立ったら、私の、お墓を。ああ、何言ってるんだろ、でしょうね。ああ、もう、わかんなくなって

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