「だ、誰!?」

 咄嗟に足音の方向へと振り向く。人間だ。血の気が引いて青白くなった男が、おぼつかない足取りでこちらへと向かってきていた。右へ左へ、不規則に歩みを進めながら、こちらに視線を向ける。

「い、生きてる? 大丈夫な、人?」

 ついに壁にもたれかかった彼は、ミランダの顔を見て少しだけ態度を軟化させた。震える声で、絞り出すように言う。

「よかった、僕以外、みんな死んじゃったのかと思った……」

「死んじゃった? って? 一体、どういう……」

 彼がその疑問に答えるよりも先に、もう一人の影が飛び込んできた。

「下がれ! 奴が来るぞ!」

 プラチナブロンドを短くまとめた女性が、鬼のような形相で両手にコイルガンを構えて叫ぶ。

「早く!」

「は、はい!」

 ミランダは無我夢中で駆け出した。コイルガンの女性――彼女のことは知っている。機動隊長のスカーレットだ――に追い立てられるように、走る。

 背後から、男の悲鳴が聞こえてきた。先程の彼が逃げ遅れていたのだ。思わず立ち止まってしまいそうなところで、強く背中を叩かれる。

「振り向くな! 走れ!」

 スカーレットに促されるまま、ミランダはとにかく走り続けた。ミーティングルームに飛び込むと、何もしていないのにシャッターが下りた。息も絶え絶えに辺りを見回すと、白衣を着た女性がコンソールに触れている。一心地ついたところで、彼女はこう言った。

「いや間に合って良かったですよ。生き残りは一人でも多い方がいい」

 特徴的なしゃがれ声でそう言った彼女は、確か……研究部のジャック・イクリプスだ。どこか能天気な調子で、ジャックは言う。

「しかもあなたはスカーレット隊長。本当、心強い限りですよ」

「買い被るな。俺だってあいつには手も足も出なかった。逃げるのだけで精一杯だ」

 スカーレットがそこまで言うのだ。直面している危機というものは、それほどまでのものなのだろう。多分、もう知らないでは済まされないのだ。意を決して、ミランダは手を挙げた。

「その……すいません。一体、何があったんですか……?」

 何者かが宇宙船内に現れて、阿鼻叫喚の大騒ぎになった……そこまでは、なんとなくわかる。しかしその何者かが、一体なんなのか。人間なのかどうかすら、ミランダにはわからなかった。

 軽口を叩くように、スカーレットは言う。

「見てのとおりだ。バケモノが現れて、阿鼻叫喚の地獄絵図。俺が居ながらこのザマだよ」

「バケモノ……っていうのは……」

 ミランダの疑問に、ジャックが説明を引き継ぐ。

「それが私にもわからんのですよ。あんなバケモノ……見たことも聞いたこともない。生体反応がないからレーダーに引っかからないし、サーモに映らないから熱量もない。外皮の質感からして、金属ってわけでもなさそうですし」

 研究部のジャックと言えば、生物学のスペシャリストだ。その彼女がわからないと言っているのだから、少なくとも既知の生命体ではないのだろう。

 ますます混乱していると、机の影からムクリと誰かが起き上がった。

「まだ、生き残りが……?」

 短く切り揃えた白髪を揺らし、ハスキーなボイスで彼女は言う。立ち上がろうとする彼女を、慌ててジャックが止めに入る。

「ああ、ドロシーさん。まだ無理しちゃ駄目ですって」

「もう大丈夫だから。それに生存者が居るなら把握しておきたいし」

 ドロシーと呼ばれた女性は、まずスカーレットに目をやった。

「スカーレット隊長、ご無事でしたか」

「俺だけはな」

 自嘲気味に吐き捨てる。口ぶりからして、二人は知り合いなのだろう。

 ……いや、こんな狭い船の中だ。私のように交友関係の狭い人間の方が、むしろ少数派になるのだろう。ミランダは内心で自嘲する。それを裏付けるように、ドロシーはミランダの存在を認知していた。

「それと、あんたは……航海日誌の人だっけ?」

「え、ああ、はい」

 彼女はぐいと身を乗り出してミランダに迫る。期待を込めた眼差しを向けられて、思わずたじろいでしまった。コンパクトカメラを指差し、彼女は言う。

「それでなにか撮った?」

 記録映像としての価値を期待しているのだろうか。しかし残念なことに、持ち出したときから電源を落としたままだった。

「いいや、何も……」

 すると彼女は露骨に肩を下ろす。

「なんだ、なにか手がかりになると思ったのに……」

 ミランダへの興味を失ったらしい。彼女はスカーレットへ振り向いて、なにやら真面目な話を始めてしまう。それがどうにも気に食わなかった。

「ねえ、それだけ!?」

 ほとんど勢いだけで食って掛かる。ミランダの豹変を受けて、ドロシーは少しばかり困惑したようだが……すぐに軽蔑の視線を向けた。

「あんた、普段のままの人だよね」

 意味がよくわからない。しかし、蔑まれていることだけはわかる。ほとんど初対面のようなものなのに、これは礼を逸しているのではないだろうか?

「それがどうしたって」

 なおも食い下がるミランダに、ドロシーは溜息を吐いた。

「態度も悪い、職責も果たせないで、あんたがなんの役に立つっていうの? 役に立てないなら、せめて邪魔だけはしないで」

 沸騰した頭に冷水を浴びせかけられ、破裂しそうになったところをギリギリのところで踏み留まる。彼女の言い分は……誠に遺憾ながら、全面的に正しい。自分がなんの役にも立たない人間だとは思わないが、少なくともこの場では何もできないのだ。

 黙り込んだミランダを無視して、ドロシーは話を再開した。真剣に話し合う二人を見ていると、ジャックがこっそりと耳打ちしてくる。

「恨まないであげてください。ドロシーさんは今、気が立ってるだけなんです。怪我までしたのに私だけしか助けられなかったのを、気にしてるっていうか……」

 見ると、ドロシーのスーツには血痕が付着していた。大きな怪我ではないようだが、この状況ではなにが命取りになるかわからない。たとえばあのバケモノが血の匂いを辿ってくる可能性だってある。

 不意に、肩を叩かれた。

「うひっ!?」

 ドロシーの怪我に注目していたため、接近するスカーレットに気づかなかったのだ。彼女は部屋の外を指差して言う。

「ここにはダクトの開口部がある。ねぐらにするには心許ない。ブリッジに移動しよう」

 彼女が言い終わったのと同時に、ミランダの背後――ダクトの開口部から、水気の多い音が降り注ぐ。途端に広がる悪臭。身の覚えのある……あの時の臭いだ。糞便と鉄分の入り混じった、あの――

「ッ、来るぞ、逃げろ!!」

 スカーレットが叫んだ。

 開口部を塞ぐ溝蓋がガタガタと揺れる。

「逃げろ! 走れ走れ!!」

 無我夢中で走る。

 何かが背後に下りてきた。

 構わず走る。走る。走った。

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