第13話 ピーマンダイジェスト─③
知られている。
それだけじゃない。加治は、同じ関係を沙橙さんと結んだことがあるのだ。
でも一瞬で我に返った。理想的とは言えない形で破局するのは、大なり小なりよくある事だ。加治には濁る思い出があろうと、大切な人を侮辱されて黙ってはいられない。
加治を見あげ、沙橙さんの手を握った。
しっとり柔らかな、少し大きなてのひら。吸い付く肌の感触がそのまま皮膚にじんわりと溶ける。はちみつみたいに、甘く馴染むように。
苛立ちがすっと鎮まって、微笑んでいた。
「お気遣いどうも。だけど、幸せです」
「そのうち商売の種にされる。忠告はしたから。じゃあ」
こちらがどう返すかなんて、初めから関係なかったようだ。言いたい事を言って、髪を靡かせて、長い脚を交互に出して遠ざかっていく。けれど辛辣さはまるで気にならない。明白な現実がある。今、ふたりは幸せなのだ。誰に何を言われようと、風と同じ。
「迫力のあるひとでしたね。沙橙さん、行きましょう」
手を握り直して歩き出すと、沙橙さんは緊張した面持ちのまま狭い歩幅でついてきた。普段ふんわりとした優しい表情ばかり見ているせいで、沙橙さんが現在かなりパニックに陥っているのがよくわかる。
加治が強く美しい女豹なら、沙橙さんは巨大なうさぎかアルパカみたいなものだ。
過去にどんな別れ方をしたにせよ、力負けしているのは、優しいから。他人を攻撃するのではなくて、受け入れるひと。出会った頃から折に触れて向けられた雑り気のない愛を、場面ごとに思い返す。
失恋して、失業して、宿無しになって。そんな情けないものを捕まえて、ただ愛情と励ましを与え続けてくれた。だから勇気が湧いた。力が湧いた。並んで歩く未来を信じさせてくれた。あの苦々しい日々は怨みをこじらせて腐ってもおかしくなかった。決して元から強い人間というわけではないと、自分の事はよくわかっている。
今、幸せなのは。
沙橙さんが愛してくれたから。
「とりあえず、帰ったらそのメールをチェックしましょう。ビジネスライクに片付けちゃいましょうよ。金銭の絡む話だとしても、そう難しくないでしょう」
「瑠栞ちゃん、気にならないの?」
恐る恐る尋ねてくる沙橙さんに満面の笑みを返すとき、足が弾んだ。
「沙橙さんも気にしなかったでしょう。今手をつないでるのは勝田瑠栞。沙橙さんのことが大好きな、沙橙さんの恋人です。モチベーションも上がって然り」
「瑠栞ちゃん……」
やっと沙橙さんの緊張が解けた。八の字に下がった眉の下で、大きな瞳が潤んで揺れている。感極まって立ち止まろうとしている沙橙さんを、ぐんぐん引っ張って歩いた。
「もし、要求を呑んで尚、不遜な態度で交渉に臨んでくるようであれば、そのときにはパンチしてやりますよ」
「えっ?」
「瑠栞パンチ」
握っていた手をぎゅっと掴み返される。沙橙さんは結構、力は強い。
「だ、ダメだよ。それはダメ」
「ときには物理的に抗う姿勢を見せることも大切」
「そうじゃなくてっ。パンチなんて可愛いよ。あたしにして!」
「え……」
ついに足が止まった。沙橙さんにがっちり手を握られたまま向かい合う位置に立たれる。身長差を埋めるため中腰になった沙橙さんの右の頬が眼前に迫った。
「はい」
差し出されている。沙橙さんは本気だ。
「瑠栞パンチ」
名称を噛み締めるように真顔で催促してくる。
日差しにクラリとする暇もない。いつもどこか熱くなる。胸がいっぱいで、一緒にいると照れて血が上って、体中が煮立ったジャムみたいに沙橙さんで甘く溶けてしまう。
右の頬にキスをすると、沙橙さんはかき氷を食べたときのような声をあげてくるりと左の頬を向けた。靡いた髪が鼻先をかすめて擽ったい。左の頬にはさっきより少し長めのキス。それから素早く、沙橙さんから唇に短いキス。見つめ合って、笑って、また歩き出した。
沙橙さんがいるから、なにも恐くない。
沙橙さんも同じだといい。
見あげた横顔はうっすらと陽の光を纏って、とてもきれいだった。
(了)
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