第12話 ピーマンダイジェスト─②

  


 リップを塗った沙橙さんが、肉厚な唇を上下あわせて馴染ませている。今日は夏らしいオレンジベースのメイクで、甘い印象に瑞々しさが加わって奇麗だ。ゆるくうねる髪を簡単に編み込んで、項にまとめている。白いフリルのカットソーをミモレ丈のフレアスカートにインして、ふんわりしているのにスタイルの良さが際立っている。スカートは黒なので、沙橙さんにしては貴重なモノトーンコーデの日だ。イヤリングをつけて、バッグを持って、沙橙さんは念入りに鏡の前で角度を変える。


「きれー」


 ついつい甘えた声で囃してしまう。沙橙さんは照れたように肩をすくめ、唇をすぼめた。悩殺されそうだとしても、態度に出してはいけない。沙橙さんは出勤だし、こちらも午後からセミナーに出席するための事前準備がある。お洒落だろうとオフィシャルモードは保たなければ。

 エレベーターは幸い二人で独占した。


「瑠栞ちゃん」


 習慣とは一種の麻痺を伴う。セキュリティーに厳しい女性専用マンションの防犯カメラから庇うように沙橙さんが立って、肝心なところが映らないようにキスをする。蒸し暑く狭い箱の中で、互いの体にそっと触れながら、いってらっしゃいのキスに祈りを込める。

 今日も善い一日でありますように。守られますように。

 間近で見つめ合うと、頬に沙橙さんの髪がかかった。沙橙さんが長い指で避けてくれる。


「んまんまってして」


 ブラッドオレンジのリップが、唇に移っているから。

 言う通りにすると、沙橙さんが優しく目を細めた。もう一回キスがしたい。背伸びをして唇を突き出すと、ぬめる唇が今度は深く食らいついてきた。頭を手で挟まれて、一階につくまでのほんの数秒でも、甘く溶けあう。

 そしてドアが開いた。沙橙さんは目を煌めかせて笑いながら、親指ではみ出したリップを拭ってくれた。擽ったい気もちのまま、再びんまんまでリップをなじませる。


「帰りにチューハイ買わないと!」


 エントランスに一歩踏み出して、とてもご機嫌な声があがった。

 一歩弾んでリュックを均し、隣に並ぶ。


「もうなかったでしたっけ?」

「瑠栞ちゃんが作ってくれる冷奴、美味しいんだもんっ」


 切って並べるだけだという理屈が通る人ではない。


「ああ、なめたけ乗せてネギ散らしましたからね」

「お酒が進んじゃうよ!」

「じゃあ豆腐を買いにいくついでに買っておきます。いつもの」

「え、待って。お酒買ってきてもらうのは悪い。ダメダメ」

「沙橙さんヒール高いし。こっちは自転車なので」

「でも」


 変なところで気を遣う沙橙さんが、前のめりになりながら手を掴んでくる。そうして立ち塞がって、しょうもないことで駄々を捏ねるターンに入りかけた、そのとき。


「朝から酒の話なんてみっともない」


 知らない声が割り込んできた。女性だし、単純に話したことのない住人だと思った。だから焦りもなく、むしろ一理あると我に返ったりもした。

 けれど沙橙さんは違った。

 恐れるように息を詰めて、振り返った。


「なんでいるの……?」


 それは問いかけではない。口から洩れた心の声だ。

 沙橙さんは警戒している。招かれざる第三者の出現なら、住所が知られているのは恐怖でしかない。沙橙さんの手を握った。


「知り合いですか?」


 そっと問いかける。沙橙さんは答えず、マンションの入口を凝視したままだ。

 影が動いて女性が現れる。

 遅ればせながら息を呑んだ。

 女性とは思えない高身長に、日本人離れした目鼻立ち。豊かな長い黒髪をかきあげて、ついでのように首元を扇いでいる。でも汗一つかいていない。知った顔だ。広告でよく見るモデルだった。加治かじアンナ。ファッション雑誌はもちろん、株やコスメの動画広告にも起用されている。なぜここに。

 目鼻立ちがいい分、不機嫌な表情はかなり恐ろしい。抜群のプロポーションだとしても最早凶器にしか見えない長い手足。ノースリーブにカーディガンを羽織り、ショートパンツから延びる見事な美脚で左右に体重移動している。


「あんたメール見てないでしょ」


 苛ついたように言って近づいてきた。美しいとは思うものの、大迫力だ。つい沙橙さんの手を握った。沙橙さんの手は、急に汗ばんで、そして逃げていった。

 ちくりと、胸の奥に棘が刺さる。


「プライベートでブロックするのは勝手だけど、こっちは事務所通して会社に問い合わせしてるんだから読みなさいよ」

「だからって来なくても……」

「社長失格」

「……」


 鈍い痛みがたちどころに消える。急に自宅に押し掛けて、なんて失礼な人だ。距離が詰まると、加治は聳え立つ彫像のように見えた。クールな印象に傲慢や高圧的といった印象が加わり、体が強張る。

 よくないことが起きている。

 それは間違いなかった。


「あとで確認する」


 聞いたこともない冷たい声で沙橙さんは言った。


「今して」

「これから仕事だから」

「仕事の話を二週間も前から再三コンタクト取ってんの。時間切れ」


 今度は沙橙さんが憤然と言い返す。


「仕事なんて二度と一緒にしない。そう決めたでしょ」

「誰が一緒にやるって言った? あんたのところにあるカシモト時代の画像」

「全部下げてあるけど」

「サイトからじゃなくて、あんたのPCから全部買い取るって話」


 沙橙さんの喉がごくりと動いた。

 二人は少なくとも、元から知り合いのようだ。


「わかった」


 乾いた声で答え、沙橙さんは加治を見あげる姿勢のまま硬直している。著名人に当たるモデルとブランドオーナーの金銭が絡む話だ。席を外すべきだったものの、もう遅いしそのチャンスは元からなかった。

 加治は牙を剥いた豹のように沙橙さんに詰め寄ってくる。


「写真集を出すから、あんたには何一つ権利を持っていてほしくないの。金額に納得したら余計な小細工しないで全部

「あたしは何も奪ってない」


 沙橙さんの声が震えた。引き結んだ唇がひくひくと動いて、大きな目には涙を溜めている。

 只事ではない。

 加治は不躾に鼻を鳴らし、怠そうに腕を組んだ。そして初めて、こっちを向いた。


「可哀相に。人生乗っ取られる前に逃げたほうがいいよ」

「──!」


 瞬間、体の中でなにかが弾けた。

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