後日談

第11話 ピーマンダイジェスト─①


 珍しく箸が止まり、沙橙さんの顔が曇った。


「どうしました?」


 体調が悪いのだろうか。

 沙橙さんはふんわりとした見た目によらず、かなり働き者だ。四年前に立ち上げた女性向けルームウェア専門のアパレルブランド<marsh-mallow>の経営者として工場との連携や法務関連はもちろん、広報やサイト運営などもこなし、週に六日も店頭に立って接客している。なるべくバランスよく、栄養ある食事をとってもらいたくて炊事当番はほぼ独占させてもらった。なんでも美味しいと言って食べてくれる沙橙さんなのに、今日は困ったように眉を下げている。

 美味しくないわけがない。味付け以前に、それは切って塩コショウとオリーブオイルをかけただけの、ただのピーマンである。


「沙橙さん?」

「ごめん、瑠栞ちゃん」


 漂う悲壮感に心配が募った。

 体調が悪いなら、生野菜はよしたほうがいい。

 けれど沙橙さんはゆっくり箸を動かし、まったく覇気をなくしてピーマンを口に含んで頼りなく噛んだ。


「あたし、ピーマン苦手」


 雷に打たれたような、衝撃。

 沙橙さんは無の表情でピーマンの咀嚼を終えると、まさに薬を嫌がる子どもの顔で飲み下して、そのまままたピーマンを摘まむ。


「え。沙橙さん、無理しないで」


 今夜のメニューはアラビアータにジャガイモとナスのグラタン、芽キャベツとベーコンのスープで、デザートにリンゴを切ってある。無理にピーマンを食べなくても大丈夫だ。

 沙橙さんはペースを上げた。


「いいですって」


 テーブルの上で腕を伸ばし、箸を持つ手を押さえる。けれど沙橙さんは軽く躱し、ついには闘志を見せた。


「だめ」

「だめってなに。ごめんなさい知らなかったから。無理に食べないで」

「止めないで」

「沙橙さん」

「だって瑠栞ちゃんが作ってくれたんだもん。食べる」


 極めて積極的な人である。


「作ったって。切って盛りつけただけだから」

「でも瑠栞ちゃんが用意してくれたご飯だもん。もったいない」


 その根性はさすがだけれど、修行僧のような顔でする食事が健康的とは思えない。それに誰にでも得手不得手はある。極端な偏食は別として、みんな嫌いなものは食べずに生きているのだ。


「食べるから」


 沙橙さんは本気だ。

 しばらく見守ることにした。やはり沙橙さんの目は食卓に向かっているものの、心は遥か彼方へ飛ばして箸と口だけ機械的に動かしている。ピーマンの栄養素を摂るだけなら身になる努力だとは思う。けれど、とても楽しい食事とはいえない。


「沙橙さん」

「はい」

「ピーマンの最たる栄養素はビタミンCです」

「はい」

「沙橙さんの好きなジャガイモにもたくさん含まれています」

「でも瑠栞ちゃんが切ってくれたピーマンだから」


 食べます、と。沙橙さんから滅多に聞かない丁寧語が洩れ続けている。


「沙橙さん」

「はい」


 はい、なんて。今日まで聞いたことがなかった。人格を切り替えなければ喉も通せないほど苦手なのだろう。悪いことをしてしまった。かなり無理をさせている。


「ジャガイモ以外にも、沙橙さんの大好きなサツマイモにも豊富に含まれています。イモのビタミンCはでんぷんに守られているので加熱しても壊れず、きちんと接種できます」

「でもこのピーマンは、瑠栞ちゃんが盛りつけてくれたピーマンだから」


 つらそうだ。我ながら、瑠栞補正にたいした効果は期待できない。箸が来る前にてのひらでガードした。ぴたりと沙橙さんが固まる。


「大好きな緑茶もビタミンCは豊富です。それにビタミンEについても、沙橙さんの好きな大豆やナッツにも多く含まれます。沙橙さんの健康を支えるにはピーマンじゃなくても充分です。無理はやめて」

「ムリジャナイデス」

「そんな、一昔前のロボットみたいに」

「ポン、コツ」


 強硬手段をとることにした。ピーマンを皿ごと没収だ。


「あ」

「ご飯は美味しく頂きましょう」

「やだぁ」


 沙橙さんが急に半泣きで駄々をこねた。なぜだ。


「あたし頑張れるよ」

「必要ありません」

「だって瑠栞ちゃんが作ってくれたご飯なのに」

「ピーマン大好き、独り占め、やったー」

「瑠栞ちゃん棒読み」


 大袈裟なため息をついて沙橙さんが項垂れた。手が焼ける人だ。でもそれが、感情の豊かさや温かい心からの言動だとわかっているから、嫌ではない。嫌ではないとしても、慈愛に満ちた心をこんな些末なことで煩わせているのが申し訳なかった。


「あたしダメな大人だね」


 いやいや。


「そうでもないかと」

「子どもじゃないのに好き嫌いなんて」

「嫌いと苦手は別では」

「瑠栞ちゃんに呆れられちゃう」


 なんだって?

 さすがに慌てて、箸が止まる。沙橙さんが暴走して落ち込み始めた。


「ちょっ、ちょっと待って。そんなふうに見えたの?」

「淡々と呆れている様子で」

「ええ!? 違うもん!」


 つい、こちらも感情に負ける。

 するとなぜか、沙橙さんの頬に血の気が戻った。


「……もん……」


 語尾について思うところがあるらしい。こちらは沙橙さんの復活したこの機を逃さず、説得にあたる。


「沙橙さんには美味しく食べてもらいたい。それは、作ったものを四の五の言わずにって意味じゃなくて、沙橙さんが美味しいって思えるものを作りたいって意味だから……ピーマンは一人のとき食べればいいの!」

「瑠栞ちゃん……っ」


 左手が伸びてきて、箸を握る手をきゅっと握られる。背が大きいから、手も沙橙さんのほうが少し大きい。そして細く長い指が本当に美しい。しっとりしていて、柔らかくて、触れられるたび心地よさにうっとりする。

 収束がつきそうだ。

 妙な騒動だったものの、生ピーマンは除外という動かしがたい事実を知ることができてよかった。


「そういえば、瑠栞ちゃんはコレダメ~って食べ物、あるの?」

「なめこ」

「なめこ……」


 まさか、という音で復唱された。


「あと、なめたけ」

「なめたけ……!」


 吐息に混ぜて、戦慄するかの如く目を瞠っている。

 なるほど。沙橙さんは好きみたいだ。さっそく今夜、食卓を飾ろう。

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