第14話 ナマコディスタンス
「バスケ部だったんですねぇ、
瑠栞の呟きは鈴のように可憐だ。
ダイニングであたしの卒業アルバムとパソコンを並べている瑠栞の息遣いまで鞭のように感じる。
晏奈とは高校二年の四月につきあい始めた。入学式から一年かけて隣の組の晏奈を口説いたことまでは瑠栞に話していない。初めて他人のために服を縫った。晏奈を引き立てる美しい下着や部屋着を縫った。祭日や学期と学期の間には親に許される限り遠出をして、晏奈を飾って写真を撮った。
緊張して冷蔵庫までいつもの倍は恭しく閉める。
「二人で現を抜かして、留年しかけました」
「情熱的ですねぇ」
嫌味ではないと声のトーンでわかるけれど、気が気ではない。十年も前の話なのに。
「これだけ撮れば写真集五冊は出せる」
「その写真をとっておいたのはまだ気持ちがあるとかじゃなくって」
「そりゃそうですよ。初期作品はかなり先鋭的なんですね。これすごくきれい」
瑠栞がどの写真を見ているのかわからない。もで心から感心してくれているようだ。
晏奈は褐色の肌が美しく、野生動物の女王に似た風格があった。きっといい選手だったからだ。けれど二年の夏、大会までにコンディションを整えることができなかったのを皮切りに、彼女は部活に情熱を失ってしまった。あたしも自分のブランドを持つ構想があって、恋が盛りあがるのと同時にモデル兼被写体として晏奈にのめり込んでいった。
あたしは大学の経営学部在学中にネットショップを開き、メインモデルの晏奈はスカウトを受け去っていった。加治アンナとなってからは疎遠になっていたのに、押しかけて来るなんて。
「彼女が写っているのは創成期だけとなると、加治アンナのファンからすれば超プレミア、このデータは宝の山というわけですか」
「肖像権は向こう、服のデザインの著作権がこっちでうちは上場しちゃったから」
「ああ、権利が絡むと面倒ですよね」
晏奈の所属事務所からメールが届いていることは気づいていた。けれど晏奈は別れ際にかなりあたしを恨んでいて、身も竦むほど罵られたのだ。トラウマになった。確認を先延ばしにするべきではないとわかっていたとしても、晏奈と関わるのは嫌だった。
片付けておけばよかった。
「でも双方の弁護士に任せればうまく調整してくれるはず」
「うん。でも、どうかな。向こうはうちとの関係をできれば隠したいはずだし、あたしの名前をクレジットに載せるなんて以ての外だと思ってるはずだし」
「浮気したんですか?」
怪訝な顔をあたしに向けて、瑠栞は細かい瞬きを繰り返す。
「ちっ、ちがうよ!」
「ですよね。沙橙さん、包丁。気をつけて」
「うん」
まな板に包丁を持つ手ごと置いて、半身でふり返る。
「あの人はスポーツの世界に行きたかったし、本来は男性が恋愛対象だし、あたしのせいで未来が変わっちゃったと思って怒ってるの。ずっと」
「恋愛は人生を変えるところがいいのに」
徐に瑠栞が椅子から立ち上がって滑るようにこっちに来た。あたしの作ったルームウェアを纏って最高に可愛い。愛する瑠栞がもし晏奈のようにあたしを憎むようになったらと思うと、いっそ永遠の眠りについてしまいたくなる。
そんな瑠栞がすり寄ってきた。腰に腕を回して、目を閉じて動物が甘えるように頭をこすりつけてきた。緊張で高鳴っていた心臓がキュルンキュルン歌い出す。
「瑠栞ちゃん」
「誰も知らない、ふたりだけのナイトウェア作ってほしいなぁ」
神さま!
あたしの天使が覚醒しました!
「早急に作るよッ」
「沙橙さん独り占めするもん」
「……かッ」
言葉が出ません。
瑠栞の実直な上目遣いに、髪が流れて見えた耳、つるんとした頬、小さく尖るような形のいい鼻先。なんて可愛いあたしの恋人。
力が抜けて、久しぶりに微笑んでいた。あたしは幸せだ。
「なに作ってるんですか?」
と、あたしの体越しにまな板を見た瑠栞が凍りついた。
「瑠栞ちゃん?」
瑠栞はあたしの体に回した腕を万力のように締め付けると、口を台形にして震え始めた。
「るる、瑠栞ちゃん?」
「そ、そ、そ」
世にも悍ましい怪物を見て恐れ慄いた様子で瑠栞が再び仰向いた。あたしと目を合わせるつもりが、目線だけはまな板のナマコに釘付けだ。
「それは、なんですか」
息も絶え絶えの掠れた声。
「ナマコの酢の物」
「ナマコ……」
「瑠栞ちゃん、酢の物好きだから。お祖母ちゃんがよく作ってくれて……」
失敗した。納豆もなめこもなめ茸もオクラも好きな瑠栞ちゃんが、まさかナマコが駄目だなんて。コリコリして美味しいのに。
「あたしが全部食べるね」
「せっかく、作ってくれ──」
そこで我に返った瑠栞は、至極真面目な顔で頷いた。
「これは無理」
白黒ハッキリさせるところも瑠栞の魅力。
瑠栞は今、あたしの恋人。
幸せだ。
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