第10話 真面目な営み


 ランプが点いた。視界の隅で踏切が下りる。

 もうすぐ電車がすべり込んでくる。

 瑠栞は、一人で帰れと言うだろうか。それとも、一人で帰りますと。

 切なそうに眉を寄せて歯を食いしばっている表情が、怒っているようにも、裏切りに傷ついているようにも見える。

 いっそ世界が終わればいい。

 隕石、来るなら今だ。──来て!


「沙橙さん」


 やっぱり待って。


「知らなかった。仕事順調そうだなと思っていたけど、経営側でしたか」

「瑠栞ちゃん……あの」

「誓って言います。知らなかった。だから」


 瑠栞の手が、あたしの手首を、締め付ける。


「……え?」

「だから、あいつの言うような不純な動機はありません。不安にさせて申し訳ないと思います。もし、私が……お金目当てに見えるなら……ッ」

「えええっ」


 たちまち涙をためて、瑠栞が震えた。

 咄嗟に握り返す。


「そんな事思ってないよ! なんならお金目当てでもいいもん」

「違います!」

「それはわかってるよ!」

「ただ沙橙さんを好きになっただけ。それだけです!」

「瑠栞ちゃんッ!」


 轟音と共に電車が滑り込んでくる。抱きしめた瞬間あたしのスカートが巻き上がり、瑠栞は抱擁を返してくれた手で直後お尻をガードした。


「家出ます」

「やだよっ」

「本質的に沙橙さんに甘えている今の状況では──」

「じゃあ、あたしが倒産したら養って!」


『ドアが閉まります。駆け込み乗車はおやめください』


 誰に見られていても構わなかった。

 離さない。その思いを込めて、力いっぱい抱きしめる。

 ドアが閉まった。重い音を引きずってゆっくりと電車が滑り出す。再びスカートが巻き上がるのをやり過ごした後、人気のないホームでひっそりと瑠栞は言った。


「承りました」

「瑠栞ちゃん……ッ」

「いざという時、沙橙さんを支えられるよう、職探し頑張ります」


 勢いで口から出たものの、そんな格好悪い事態はできれば避けたい。なんと言ってもあたしの方がお姉さんなのだ。そこは威厳を保ちたい。そんなものの存在なんて瑠栞は感じていないだろうし、あたしも信じていないけれど。

 今は瑠栞が納得すればそれでいい。


「うん。よろしく、おねがいします……っ」


 安堵から涙がこぼれた。

 瑠栞が身じろぎしたのをきっかけに、腕を解いた。瑠栞も目尻を拭っている。瑠栞の顔を見たら堪え切れなくなり、嗚咽が洩れた。


「沙橙さん、座りましょう。十二分待つから」

「フラれちゃうと思ったぁ」

「こっちが。っていうか、あんな奴に引っ掻き回されて、本当に不甲斐ない。嫌な思いさせてごめんなさい」

「瑠栞ちゃん悪くないもんッ」


 手を引かれベンチに座る。瑠栞は自動販売機でドリンクを買ってから、密着して座った。手にはレモン風味の天然水。静かに開栓し、豪快に半分飲んで、渡してくる。


「ありがとう」

「これだけはけじめつけたいので、認めてください。経済的に頼りません。だから家賃水道光熱費、折半させてください」

「ごめん持ち家」

「……そう、です、か」


 正確には大学入学に合わせて兄がオーナーの部屋を一つ貰ったのだけれど、その説明はそれほど重要とは思えない。事実家賃は発生していないのだ。


「じゃあ、どうしよう……食費とか生活費入れる形で」

「それきっちりやらなきゃダメ?」


 ハンカチで涙を押さえながら訊ねると、瑠栞は苦い顔で嘆息して黙ってしまった。商業高校を卒業して単身で上京し、自立してここまで築いてきたのだ。瑠栞が丸投げしたいと思えば、喜んで受け止める。けれど、そういう性格ではないのだ瑠栞は。

 あたしは、瑠栞から金銭を受け取りたいとは思わない。


「でも、絶対にコストがかかるわけで。一緒に生活してるんだから」

「──」


 今、なにか聞こえた。心地よい響き。

 一緒に、生活、し・て・る。

 

「沙橙さん。やっぱり、生活費持たせてください。無職なのに生意気かもしれないけど、ちゃんとパートナーでいたいので」


 更に素敵なワードが木魂する。


「パートナー?」

「そう、願います」


 少し照れたような顔で俯く瑠栞の、綺麗な鼻筋をじっと見つめて、あたしのパートナーはこういう人なのだなと納得した。その瞬間、拘っていた金銭面の問題が溶けて、温かなお花畑に変わる。

 しっかり者なのだ、あたしの瑠栞は。あたしが助け舟を出したなんて烏滸がましい。瑠栞は今のままで充分あたしを支えてくれる。あたしは、瑠栞と支え合って生きていくのだ。


「わかった。そうだよね、二人で暮らしていくんだもんね」

「沙橙さん……」

「帰ったら、それぞれ確認する。瑠栞ちゃんも確認できるようにするね。電気と、ガスと、水道」

「あと食雑費」

「うん。一緒に食べる物と一緒に使う物はお願いします。持ちつ持たれつだね」


 通信費は話題に乗ってこないので、気づかないふりをしておこう。

 瑠栞が力を抜いて、少し困ったように微笑んだ。


「本当に、生意気言ってすみません」

「そんな事ないよ。瑠栞ちゃん、真面目だから。あたしも見習う」


 瑠栞の手を握り、微笑みを交わす。

 本当はキスしたいけれど、住み慣れた町の駅のホームでは嫌がるかもしれなから、我慢した。

 帰ると早速、瑠栞がパジャマのタグを確認して、掲げたりひっくり返したり、揉んだり引っ張ったりしながら眺めまわした。その興味津々といった様子がとにかく嬉しくて、くすぐったい。

 ずっと恋愛に仕事を持ち込むのが嫌だったけれど、瑠栞は、認めてもらえて初めて満たされる部分があると教えてくれた。瑠栞もきっと、誇りを持って働いていたのだ。

 ああ、眩しい……そして可愛い。

 あたしの作ったパジャマを眺めている瑠栞を眺めていたら、手が止まっていた。でも動けない。瑠栞はその場で服を脱いで、素肌に直接パジャマを着ると、宙を睨みながら上半身を捻ったり、腕を伸ばしたり、自分で自分を抱きしめたりしていた。

 あまりにも瑠栞が可愛くて、あたしは絶叫した。

 けれど夜になって、瑠栞が着慣れた自前のナイトウェアではなく、あたしの作ったパジャマを着て隣に寝そべっていると、叫ぶどころではなくなった。


「……沙橙さん」


 呼ばれても寝たふりを貫く。

 

「……本当に、女の子の気持ちわかってるんだなぁ……」


 呟いた瑠栞はあたしの気持ちが半分もわかっていないと思う。その半分を毎日少しずつ、確実に、これからあたしが埋めていく。手で、目で、唇で。瑠栞とあたしが溶けあって、ひとつの、同じ色になるまで。

 もぞもぞと動く瑠栞の気配を感じて、また生地の感触を確かめているのかと思ったけれど、違った。瑠栞は横向きになると甘えるように擦り寄って、上になった手と足をそっとあたしの体に乗せた。

 体温が、流れ込んでくる。

 

「おやすみなさい」

 

 囁きというより、呟き。

 密着しすぎ。悟られてしまう。胸の高鳴りと、汗と、ともすれば震えそうな嘘の寝息を。いいかな。もう、いいのかな。最初の夜は完璧にしたい。色とりどりのキャンドルをたくさん焚いて、花を散らして、優しいオルゴールを聴きながら、甘いお酒を用意して。

 瑠栞の寝息が首筋を撫でる。雑念が、吹き飛ばされていく。

 特別な日と、そうでない日の区別なんてないのだ。

 瑠栞と積み重ねる一日一日、一瞬ごと全部、大切なのだから。瑠栞がいてくれたなら、この人生はもう完璧なのだ。

 それなら特別ロマンチックな演出をするのはその余裕がある時にして、今は、かけがえのない日々の愛を一歩進めてしまおうか。


 もう瑠栞とあたしは、ほとんど、ひとつ。


 瞼をあげ寝返りをうち、瑠栞の髪を撫でてキスをした。そっと背中に回る腕。足が絡んで吐息が混じる。言葉はいらない。溶ける。



 ──ここからは、とびきり甘い、二人の時間。




                                (了)

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