第9話 泡と爆弾
色とりどりのウォールステッカーと、アロマキャンドル。
疲れた心と体を癒すべく、瑠栞のために作りあげた楽園。
そう、それが──
「はぁ~。極楽」
チャポン、と。
瑠栞がうっとり天井を見あげて、指を湯で遊ばせる。
「極楽? 瑠栞ちゃん、渋いね」
「じゃあ、沙橙さんにとってはなんなんですか?」
「パラダイス☆」
二人で入ると狭くて幸せなところが、バスタブのにくいところだ。
泡に隠された、瑠栞の体。そして泡から顕わに晒されている、濡れた肩と、首と、顎。結ぶには短いのに無理矢理括ったせいで、首筋には艶めかしく髪がはりついている。
「るぅ~かちゃぁ~ん♪」
バスタブの端から、バスタブの端へ。泡と湯を押し分けて手を伸ばす。
瑠栞はぼんやりと息を吐いて天井を見つめたまま、手を、指先で握り返してくれる。
幸せだ。
「洗いっこする?」
「あ、それはちょっと」
指が離れた。
でも心配などしない。今日は初めての、一緒にお風呂。これが二度目、三度目、あらもう何度目という頃になれば瑠栞も慣れる。
瑠栞の艶やかな髪はきっと、洗う時もコシがあってなめらかだろう。泡で揉んで、指で巻いて……いや巻いてもトゥルンと逃げていきそうな直毛だ。
「沙橙さん、顔」
「ごめんっ」
ニヤけすぎてしまう顔を逸らそうにも、勿体なくて真横を向けない。ほんのり頬を染める、髪をひっ詰めた瑠栞の、愛らしい顔を今拝まずしていつ拝む。
とりあえず鼻まで沈み、眺め続けた。
「飲んじゃダメですよ」
湯の中で膝を抱える姿勢になって、瑠栞が少し、顔を近づけてくる。
口がますます緩んでしまう。
顔をあげた。
「瑠栞ちゃん、お疲れ様」
引っ越しが済んだ。瑠栞が暮らしていた部屋はもう解約を待つのみで、あと一回、立ち合いの為に行くだけである。
「お陰様で。沙橙さん、ありがとうございました」
「なにもしてないよ」
「お世話になります。宜しくお願いします」
「こちらこそ、宜しくお願いします」
業者に全て任せたが、荷解きはこちらの肉体労働である。瑠栞と初めての共同作業、汗を流し、一人ではしゃいでしまった。その間、住民票の手続きに同行したいと何度も打診したのだけれど、却下され叶う見込みはない。婚姻届けみたいで素敵だと思ったのに、残念だ。
洗いっこはできなかったけれど、バスタブの縁に顎を乗せて、瑠栞の洗う様を眺めるのは極上のパラダイスだった。裸で抱き合うのはもうちょっと我慢。瑠栞はまだ求職中で余裕がない。
交代してあたしが髪を洗い始めると、瑠栞も同じようにバスタブの縁に腕をかけて顎を乗せた。
瑠栞も、あたしの体に惹かれてくれたらいいな。期待をこめて、背筋をのばし胸を突き出してから、髪を濡らす。
シャンプーを四回プッシュし上半分に塗り、追加の四回を更にプッシュしていると、瑠栞が低い声をあげた。
「おおお。長いと違いますね」
「瑠栞ちゃん、髪伸ばしたことない?」
「ありますけど、肩甲骨くらいまでだから。そんなには」
あたしの髪は柔らかくて細いので、広がるけれど癖がつきやすくスタイルを決めやすい。髪質を生かしてゆるふわに巻いているから、濡らすと腰まで届く。中間部にシャンプーをもみ込みつつ前に持ってきて、仕上げの三回プッシュで毛先まで泡立てる。
「えええ。すぐ無くなりません?」
「もう、毎週詰め替えてるよ。大きいサイズ欲しい」
「そうですよね。あー、でも。いい匂い」
瑠栞の声が高くふやける。見ると寛いだ様子で目を閉じて、柔らかく微笑んでいた。色白の肌がしっとり桃色に火照り、泡を滑らせている。
──鼻血、ダメ、絶対。
「たぶん瑠栞ちゃんの髪質に合ったタイプも出てるよ。今度サンプルもらっておくね」
「お願いします」
ボタニカルアロマのヘアケアは広くどんな女性にもお薦めだけれど、とにかく、ボトルが違っても瑠栞とお揃いになるのは嬉しすぎる。
洗ってあげたい。
と、突然、瑠栞が立ち上がった。
のぼせたのかと心配したけれど、あたしの方が悩殺されてしまう。控えめな膨らみから平らなお腹へ、お腹から腰へ、腿へと、無数の泡が焦らすように流れ落ちていく。
「やっぱり、洗いたい」
「え?」
瑠栞が子どものように目をキラキラ輝かせ、手を伸ばしてくる。
ほとんど無意識に頭を傾けた。瑠栞の細い指先が、泡まみれのあたしの髪にさし込まれ、頭皮に届いた。
「すごい弾力。髪って重いんですね!」
「あたし重いかな」
「うぅん……沙橙さん身長あるから。でも髪だけで結構あるんでしょうね。胸もあるし」
大量の泡が面白いらしく、瑠栞はとても燥いだ。根本を握り一本に扱いていくときなんか、聞いたこともない甘く高い声をあげるので、あたしは暴走しないように微笑みを貼り付けて鎮座し、息を止めた。
「この泡で洗える」
あたしの髪から搾り取った泡の玉を両方の掌で弄び、ご機嫌だ。眩しい。そして苦しい。そんなあたしの微妙な表情に気づいた瑠栞が、ハッとして言った。
「痒いところありますか?」
あたしは黙って目を細め、ただ、首をふって答えた。
いいのだ。今回は完敗したが、次はあたしが、瑠栞の全身を洗うのだ。
◇ ◇ ◇
退居の立ち合いへの立ち合いを頑なに嫌がるので、八賀橋駅前の喫茶店でレモンティーを飲んで待っている。初めて下りた三つ隣の駅は、花塚と違い、踏切で区切られた同じ高さに歩道と車道と線路があった。
「行ってみたかったなぁ」
呟いてストローを回す。
瑠栞の家に行かず終いでこの日を迎えたのが唯一の心残りだ。瑠栞にとって最悪の思い出で終わらないように、いろいろできたはずだ。今日と言う日は瑠栞にとって、浮かれて過ごす一日にはならない。戻ってきたら、せめて八賀橋での最後の思い出を作ろう。あたしとケーキを食べて笑った楽しい時間にするのだ。
踏切の先は下り坂になっていてスーパーが見える。瑠栞はその手前で左に曲がった。往復で三十分。立ち合いと言っても、そうかからない。
スマホで店の在庫情報を確認し、いくつか指示を出す。恋人の大切な日──前の恋に区切りをつけ、あたし一色になる記念日だから、思い切って休んだ。瑠栞には少し怒られたけれど、後悔していない。
「あ」
曲がり角から瑠栞が現れた。
「すみま──」
ケーキセットを注文するためにメニューをもらおうと手をあげたとき、瑠栞にそっと一台の車が横付けされる。息が止まった。
運転席の窓から、男の腕がのぞく。表情まで見えないものの、瑠栞は足を速め歩道の奥にずれた。後続車がないのをいい事に車はずっと瑠栞の速度に合わせ徐行している。
「──おっ、おお、お会計お願いします!」
車には詳しくないけれど、洗練されたフォルムからそれなりのいい車だと察する。今日が何の日か知る車持ちの男など一人しかいない。
パンプスが壊れようと構っていられなかった。駆けつけると、瑠栞はあからさまに苦い顔をして足を止めた。車も止まる。
「沙橙さん……」
「瑠栞ちゃん、大丈夫ッ?」
そして、あたしは男を睨んだ。
「警察呼びますよ?」
「あ、知り合いです」
よくもぬけぬけと。
二十代半ば、あたしとそう変わりなく見える男は、確かにある種の上品さと堅さを纏っていた。御曹司の余裕だ。
「お友達と一緒ならそう言えばいいのに。でも安心した。全然連絡つかないから、まさか早まった事しないかって冷や冷やしたけど、相手がいるなら大丈夫だね」
「──は?」
瑠栞が険悪な声を出す。
ちらりと、男があたしをいやらしい目で捕えた。
足が竦んだ。
「ちゃんと実業家選ぶ辺り、抜け目ないよホント。さすが瑠栞」
「なに言ってんの?」
冷たい瑠栞の声が痛い。
別に秘密にしていたわけじゃない。ただ、似たような人種だからと拒絶されるかもしれないから先に仲良くなってしまいたかっただけだ。
「え、知らないの? その人ブランドのオーナーだよ。<marsh‐mallow>って女性向けルームウェア。まぁ、瑠栞は興味ないからな。そういう女子っぽいの」
この男は自分の元婚約者が興味ない女性向けブランドをなぜ知っているのかという点を棚に上げて……という怒りも沸くものの、瑠栞にフラれる恐怖の方がはるかに大きい。
瑠栞が嘆息し、車に寄った。あたしには目もくれなかった。
「あのさぁ」
瑠栞が窓枠に手をついて、中を覗き込む。
「あんた終わった人なんで。外野は口出さないで」
「え? あっ、ちょっ──」
不安で立ち竦んでいたあたしの手を、瑠栞が掴んで歩き出す。強い力だった。怒っているように思えた。無言のまま改札を通り、ホームで瑠栞が正面に立った。
密度の濃い睫毛に縁取られた、真剣な眼差し。
始まりはホームだった。終わりも、電車を待つホームかもしれない。
「沙橙さん」
「……はぃ」
泣きそう。
ああ、神さま、お願い。お願いします。終わらせないで────……
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