第8話 ダブル
一人の電車。
もう瑠栞の姿はない。
車内はすっかり夏の装いだ。これから梅雨が来るとは信じられない快晴が続いている。
ホームに下りると夕方の爽やかな風にスカートが煽られた。巻きあがる髪を耳にかけ、早足で階段を上る。
改札を出たところに瑠栞が待っていた。
「瑠栞ちゃん!」
呟く程度に、聞こえないのをわかっていて呼びかけて手をふる。瑠栞は控えめに口角をあげて応えた。
白シャツとデニムの組み合わせは小柄な瑠栞を幼く見せているし、黒いリュックの中身は宿泊セットだ。テンションがあがる。
駆け寄って、瑠栞の傍でさらに跳ねた。
「お疲れ様!」
目下求職中の瑠栞を労ったとたん、頭が勢いをつけてあたしの胸に埋まった。
「えっ?」
突然のサービスに喜びつつも、やはり戸惑う。
改札を出たばかりの人気の多い場所で抱きしめていいか、瑠栞のような子は確認が必要だ。しかし瑠栞は胸に頭を埋めたまま微動だにしない。
「瑠栞ちゃん? どしたの?」
「落ちた」
乾いた声が胸元で篭る。熱い息も胸元で篭る。
どうやら不採用だったらしい。
抱きしめるのは家についてからにして、今は優しく頭を撫でた。
「そっか、落ちちゃったか。残念だね。でも次があるよ」
しかし首を擡げた瑠栞が胡乱な目で訴えてきたのは別の事だった。
「審査、落ちた」
「え?」
「来月、部屋の更新なんですけど、今無職なので審査通りませんでした」
「えっ?」
「今月中に退居です」
「えええっ!」
──同棲だ!
「ど、ど、どうするのっ?」
落ち込む本人を前に舞い上がるのだけは我慢し、気遣うものの口がにやけて仕方ない。瑠栞は愕然としたまま嘆息して、こちらの不謹慎には気が付かない。それもそのはず、見るからに余裕がない。
「どうしよう。部屋探しますけど、無職の人でも入れる部屋とか恐いですよね」
「うん」
「でも住む場所ないと困るし」
「うんうん」
「実家にはまだ言ってないからその説明までするのも面倒だし」
「うん?」
実家に伝えていないというのは、自立している瑠栞ならばある意味納得できる。気に病む事ではないと思うのだけれど。
「会社都合なんだから、わかってくれるよ」
「いや、そっちじゃなくて」
「……ああ」
あいつの事か。
「顔合わせっていうか、その、親族の付き合いって事で去年、両方の親込みで旅行とか行ってて。もう少し落ち着いてからじゃないと、揉めそうで」
「それは揉めるよ」
そこまで実態を持って進んでいたものを破談にしたからには、よほど金銭が絡む案件なのだろうか。完全に心が移ったなら、瑠栞に愛人関係を持ちかけたりはしないはずだ。
複雑な感情が胸の内に渦巻き、苛立ちをうまく処理できない。
ろくでなしのおかげで、瑠栞はあたしの恋人になった。でも許せない。しかし既に破格の慰謝料が振り込まれているから裁判も起こす必要がない。向こうからすれば痛くもない額の手切れ金で瑠栞の動向を塞いだのだ。
「どうしてくれよう」
「そんな、沙橙さんが怒らないで」
「いや怒るよ。人として在り得ない。あたしと瑠栞ちゃんが幸せに暮らすのとは別の話として、しっかりと制裁加えないと。お金で解決できてないって事なんだから」
「でもでも!」
瑠栞が語調を強めた。二つの拳を胸の脇で硬め、肩を怒らせ、ほんのり頬を染めている。あたしは言葉を失った。
「今は沙橙さんがいるからいいの。蒸し返したくないっ」
これは天使ですか?
鼻血を噴いても許されますか?
「凹むけど、沙橙さんがいるから頑張れるし、あいつを恨んだり思い出したりして沙橙さんとの時間を汚したくない。自分から振っておいて勝手で申し訳ないですけど、もうこの話ナシで! お願いします!」
「そうしよ♪」
瑠栞の手をとって歩き出す。
これから食材を買い込んで帰るから、二人きりになれるのは短く見ても一時間後だ。この五分でキス百回分が保留にされている。迅速に行動しなければ。時間を無駄にできない。
「でもさ、そうしたら瑠栞ちゃん、お部屋どうするの?」
「探しますよ」
「お仕事も探してるのに、お部屋まで探すの大変じゃない?」
「住所不定で就ける仕事は検討していません」
「一緒に住もうよ」
瑠栞が足を止める。
「沙……っ橙さん!」
サットさん。このあだ名は人生初だ。
そんな事を一瞬考えている間に、瑠栞は真顔になっていた。
「気持ちはありがたいけど急すぎるでしょう!」
「ごっごっごっごめん、ごめんなさいっ!」
「こんな事言える立場じゃないですし、善意で言ってくれているのはわかってますけど」
下心もあるよ。
「もし騙されてたらどうするんですか?」
「瑠栞ちゃんに?」
「そうです。出会ったばかりの相手と住むなんて軽率ですよ」
「瑠栞ちゃんはあたしを騙してない」
胸をはって断言する。
「クソ真面目な瑠栞ちゃんにそんな小細工できないよ」
「んんっ、……まぁ、そうなんですけど」
「ねえ、瑠栞ちゃん。落ち着いて考えてみよう? ルームシェアだって見ず知らずの人と一緒に暮らすんだよ? あたしたちは大丈夫だよ。恋人だもん」
「いや、そういう話ではなく」
恋は理屈じゃない。
「待って待って。瑠栞ちゃん、ねえ、あたしの事恐い?」
「いいえ?」
「あたしに騙されてるかもって思う? 心配?」
「……いいえ。でも」
「でもじゃないのっ」
神さまは真面目な瑠栞から住家を奪うような無慈悲な事はしない。
よってこれはチャンスなのだ。押すべし。
「だって大変だもん。瑠栞ちゃんもっとあたしに甘えてよ。これでもお姉さんだよ。狭いかもしれないけど、契約書には二人まで可って書いてあったよ? 瑠栞ちゃん、住む場所の心配しながらお仕事探すのは辛いよ。ルール決めてくれたら絶対守るから」
「四六時中一緒にいたい人ですね?」
「離れる意味がわからない」
断固として言い切る。
瑠栞は冷静な目で斜め上を睨み、知的な表情を見せた。
「喧嘩したらどうします?」
「仲直りするもん」
瑠栞をつなぎとめる為なら土下座したまま体で床掃除をする事も吝かではない。
濃い睫毛が忙しなく動き、やがて瑠栞が人差し指を立てた。
「妥協案として、部屋が見つからなかったらお世話になるというのはどうですか?」
「んー……」
「いくらなんでも住所移して住むのは甘えすぎです。でも現実的に退去日が決まっている上に無職なので、危うい状況というのも確かです。そこで一週間以内に三件不動産屋へあたってみるので、それで駄目だったら、大変恐縮ですが居候させてください」
頑なに同棲と言わないところが瑠栞らしい。
「これ以上は譲れません」
「じゃああたしも一個条件」
「え?」
棘のある声にも怯まず、こちらも人差し指を立てる。
「花塚から三つ以内の最寄り駅で探してくださぁーい」
「なぜ」
「遠くなっちゃうじゃん。そんなのヤダ!」
「……びっくりし続けてますけど、我儘な人だなぁ」
引いた所で恋が実るわけもない身の上だ。しょうがない人だと思ってもらうために羞恥心は捨てたのだ。
瑠栞と両手の指を絡め、左右に揺れる。
「だって瑠栞ちゃんと一緒にいたいんだもん。好きなんだもん」
そして肝心な一言も忘れない。
「どうしてもって言うなら、あたしが保証人になってあげてもいいよ」
「何言ってるんですか!」
瑠栞が指を引っこ抜いて怒る。
「そんな事お願いするわけないじゃないですか!」
「わかってるけどぉ、一応、言っておかないとって思って……」
「やめてくださいよ。憤慨しますよ」
「ごめんなさぁい」
肩を落として見せながら、内心で舌を出した。
この取り決めをはっきりさせておかないと、墓穴を掘る。万が一、事の巡り合わせであたしが保証人なれば、瑠栞は審査を通ってしまう。
「ちょっと軽はずみな発言が多すぎますよ。しっかりしてくださいよ沙橙さん」
「ごめんなさい」
「まあ、悪気がないのはわかってますけど。親切で言ってくれてるのは本当に、ありがたいです。け、ど。本当に気持ちだけでいい部分ですから」
「はぁーい」
心を鬼にして瑠栞の部屋が見つからないように祈る事、一週間。結果として、あたしはベッドを買い替える事になった。こう見えてあたしは寝相が悪いのだ。
ダブルベッドを入れて部屋は狭くなった。
歌いだしたい気分だ。
ハレルヤ!
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