第7話  ナイトウェア


 ソファーに寝転がりスマホを弄っている瑠栞の足が、ソファーにかけているあたしの肘と触れ合う。クッションを敷きソファーに寄りかかり、あたしも自分の瑠栞と一緒に求人を見ている。


「どう?」

「うーん。同じくらいで探すと、すごいカタカナな会社とかベンチャーばっかりで、社風についていけなそう」

「うんうん」

「あとは、いいなと思っても学歴でアウト」


 給与を基準に瑠栞の次の就職先を探しても、思ったより難しかった。

 第一に瑠栞は親族のような待遇だったため、同年代の女性に比べというのはもちろん、職種の面でも高い年収を得ていた。加えて画材を扱う老舗とあり、文化的な社風は現代の若者中心で景気のいい企業とは確かに正反対で、瑠栞自身が苦手意識を持ってしまう。逆に似た雰囲気の企業は人員が固定されていて空きがなく、あっても新入りは初任給となり、瑠栞の年収が四割近く下がる。職務経歴を生かし年収を考慮して大企業の経理や総務の枠を狙えば、学歴がひっかかる。瑠栞にとって大卒の壁は厚かった。


「全部の条件を満たすようなところは、そうそうないですねー」


 さして悲観する様子もなく言ってくれるだけ、こちらも気が楽だ。それは充分な貯蓄と退職金・失業手当・慰謝料が生活の不安は完全に取り除いてくれているからだと想像するのは難しくない。

 勝手を言えば、こちらはそれだけ〝お嫁さん扱い〟されていたのだという方がこたえる。かといって、ろくでもない元婚約者が裏切ってくれた結果、こうして瑠栞があたしの家で寛ぐという現実を与えられているのだから、内心ほくそ笑む部分もある。


「ゆっくり探せばいいよ」


 それだけ瑠栞があたしに割ける時間は増える。

 スマホを置きソファーに顎を乗せ、仰向けに寝そべる瑠栞の姿を眺めた。ライトブルーのカットソーに黒いボトムス。いつもクールな色だ。絶対に柑橘系の色も似あうはずだけれど、今のところ見たことがない。

 平らな腹部の向こうにあるささやかな膨らみと、その奥の小さな鼻。下からのアングルで見る睫毛は今日も密林。あれは天然睫毛だから、すっぴんを想像して悶々とする夜を、早く実物に見惚れる夜に変えたい。


「瑠栞ちゃんお泊りする?」

「今日ですか?」

「うん」


 瑠栞の目はスマホから離れない。


「沙橙さん明日仕事だし」

「でもあたしは朝ゆっくりだから、気にしないでいいよ」

「何も持ってきてないから」

「薬局行く?」


 お泊りを嫌がっているのではなく、外泊が億劫なのだと信じる。

 芯の強い瑠栞だけに、意志を変えてもらうためのゴリ押しは地雷だ。


「また今度ね」


 さっぱり切り上げると、瑠栞は上の空で応えた。

 でもこれだけ寛いでくれているのだから、嬉しさしかない。今日は失業保険の認定を待つためにじっとしている一週間の三日目で、あたしも休みとあって一日一緒に過ごしている。今は眺めているだけでも幸せだ──と思ったのだけれど。


「はあっ」


 瑠栞がスマホを床に落とした。


「喉乾いた?」


 テーブルのレモンティーに手を伸ばしふり返ったとき、瑠栞は拳を額に押し付け呻っていた。只事ならぬ様子に体調を崩したのかと一瞬思ったあと、瑠栞が歯を食いしばって高い声をもらした。涙をこらえている。

 寄り添って肩に触れる。


「瑠栞ちゃん」

「……ごめんなさい、ッ」


 浮かれてばかりのあたしとは違い、瑠栞は現実と向き合っている。失業と失恋の痛手は大きいはずなのに、あたしはついそれを忘れてしまう。

 覗き込んでも顔を見られたくないのか、拳をどけてくれない。

 優しく頭を撫でる。

 しばらくそうしていると瑠栞が腕を下ろした。なんとか涙を堪えたようだ。赤く潤んだ目で見あげてくる。


「どうしてこうなったんだろう」


 傷ついている。気丈に、冷静に振舞っていても、その殻の中には泣くのを我慢する女の子がいる。家で一人の時は大声をあげて泣けているだろうか。あたしには涙を見せてくれた。もっとぶちまけてくれていいのに。


「瑠栞ちゃん。辛いよね」


 顔にかかる髪を丁寧によけて、初めて輪郭をはっきりと見た。いつも髪型で隠れている顎と耳がよく見える。こんな時でも、それ以上が欲しい。全部見たい。全部欲しい。

 髪を撫ででいるうちに、あたしの髪が一房瑠栞の頬に落ちたので耳にかけ直した。まっすぐに見あげてくる潤んだ目が、赤く染まった頬が、あたしの胸を跳ね上げる。


「泣いていいよ」

「何もなくなっちゃった。すごく頑張ってきたのに」

「もう要らないよ」


 滑り出た言葉が強くて、瑠栞も目を瞠った。

 止められなかった。


「男なんてもう要らないでしょ」


 キスをしていた。

 柔らかな唇が少し開いていたのは、あたしを受け入れるためじゃなく、驚いていたからだ。わかっている。それでもキスを重ね、舌をねじ込んだ。初めてぬるりとした生々しい瑠栞の体に触れた。瑠栞の腕が跳ね、あたしの腕を軽く叩いた。

 熱いのはあたしだけ。唇を離し、間近で見つめ合っても、瑠栞は驚いているだけ。

 次の瞬間、瑠栞が勢いをつけて起き上がった。ぶつからないように急いで身を引いた。


「ごめんなさい! かっ、帰ります!」

「瑠栞ちゃん」


 哀れな声が出ても気にしていられない。


「違います。でもごめんなさい、今日は帰りますっ」

「瑠栞ちゃん待って」


 俊敏に荷物をまとめ玄関に向かう後ろ姿を追えない。足に力が入らない。

 

「瑠栞ちゃんッ」

「ごめんなさい! おやすみなさい!」


 大きな音を立てて扉が閉まる。

 何が起きたのかはわかっていた。体が震え、寒くなった。フラれたのだ。


「……っ」


 失敗した。もっとちゃんと、瑠栞の心を大切にすればよかった。

 ただ傍にいるだけの親友でも、我慢すればよかった。

 後悔しても、状況が元通りになるはずはない。瑠栞と二人で飲んだレモンティーのグラスと、二人で食べたマシュマロとクッキー。幸せだった。楽しかった。視界がぼやけ、すべてがぐにゃぐにゃに歪んでいく。

 終わった。


「うああぁぁぁっ!」


 号泣した。

 ソファーの前でぺたんと座ったまま、自分のスカートを握りしめて、ただ泣いた。

 受けとめてもらえなかった事もとにかく辛いけれど、自分が無頓着に瑠栞との時間をただ楽しんで、瑠栞の傷ついた心を大切に守ってあげられなかった事を酷く後悔した。

 瑠栞は出会ったばかりなのに、心を許してくれた。

 あたしはそれを、丁寧には受けとめられなかったのだ。

 大切な人を傷つけてしまった事が失恋の痛みを倍増させる。

 ただひとつ繋がれるとすれば、この痛みだ。胸が張り裂けたらこんなに辛いのに、あたしは瑠栞の痛みを軽く見ていた。

 恋人としては、失格だ。

 

「……っ、うっ、ひ」


 考えれば考えるほど後悔ばかりで辛い。

 世界は終わった。明日からどう生きていけばいいのか。

 と絶望していたら、勢いよく扉が開いた。


「ぅえ?」


 瑠栞だった。

 急いで靴を脱ぎ、鞄を放って小走りにあたしの前まで戻ってきて膝をついた。


「瑠栞ちゃん……っ」


 柔らかな手が戸惑いがちにあたしの頬を包んだ。それから、そっと唇が近づいてきて、重なった。

 涙が止まる。

 唇が離れ、間近に瑠栞の顔があった。さっきよりずっと熱く潤む目が、あたしを映して揺れている。


「沙橙さん……沙橙さんっ、す、好きです……!」

「あたしも大好きだよ!」


 叫んで力いっぱい抱きしめる。

 背中に回った瑠栞の手も、確かにあたしを抱きしめてくれた。一瞬で地獄から天国へ打ち上げられて、あまりの幸せに時間よ止まれと本気で思った。

 今度は大切に瑠栞の気持ちを守っていこう。

 見つめ合うと、瑠栞の瞳はまだ熱く揺れていた。


「あ、あの……初めてで、どうしたらいいか……っ」

「大丈夫だよ。あたしがリードするから」

「りっ、リード?」

「恐がらないでね。絶対に嫌がる事はしないから」


 優しく労わるようにキスをする。

 瑠栞は柔らかく、たどたどしく、応えた。

 その夜は念願の初お泊りデートとなった。マシュマロみたいなあたしのナイトウェアに身を包む瑠栞の可愛さは奇跡で、眠れない夜となったけれど、朝になっても羽が生えたような浮遊感は続いていた。

 ただ──、


「顔が痒い」


 あたしのスキンケアが合わなくて、瑠栞の肌が荒れた。

 一気に頭がさえ、肌荒れのためにストックしている精製水のボトルを開けてパックを用意し、瑠栞の顔を全力で癒す。薬局の開店に合わせ家を飛び出し、薬用のスキンケアを買い込んで戻り、慌ただしいままに出勤時間を迎える事態に陥った。

 その間、瑠栞はきょとんとあたしを見つめ、時折まぶしいくらいに笑った。

 駅の改札前で別れる間際、瑠栞があたしの袖を掴んだ。


「これから宜しくお願いします」


 休もうかな──♪

 と思ったけれど、真面目な瑠栞がそれを許してくれるわけがない。

 そこがまた、よかった。

 

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