第5話 うきうき、ふわふわ
ついにこの日がやってきた。
電車で一目惚れしてから八十五日。晴れてデートである。
今はまだ新しい友人のポジションだからなんだというのだ。希望しかない。
いつもより濃いクマをきちんとカバーして、パール感が上品なピンクのハイライトで可愛く仕上げる。顎の先にちょっと乗せておくのも忘れない。柔らかな、ふわふわなイメージ。
定期が使えるうちに花塚で遊びたいという瑠栞の希望を叶えるべく、住み慣れた街でのデートとなった。完全にイニシアティブはこちらにある。
ランチより少し早く待ち合わせ、まずはショッピング。
……の、はずだったのだけれど。
「あ」
「どうしました?」
ペチコートを履き忘れた。
とんでもない事に気づいて全身から汗が噴き出す。顔が熱い。絶対真っ赤になっている。
「トイレ行きますか?」
瑠栞は生理がきたと解釈したらしい。
しまった。普段はふんだんに裏地のあるワンピースかスカートばかり身に着けているから、今日の空色のスカートが透ける事を忘れていた。裏地はついているのだけれど、薄いのだ。あたしならもっときちんと透けない素材で作るとは思うのだけれど、絶妙な色合いとギャザー使いのふんわり感が気に入っている。
初夏のデート日和。白いレースのブラウスとあわせて、爽やかにしたのに。スカートの中まで爽やかなのは望むところではない。
「違うの。ペチコート忘れちゃった」
「え?」
瑠栞が半歩下がってあたしを眺める。
瑠栞は黒のカットソーにネイビーのワイドパンツ姿。スカートよりパンツスタイルの方が好きなのだろう。でも絶対、今日はスカートを見立てる。見たい。
「言われてみれば、少し、影が見えるけど。これって」
「裏地ついてるの。でも薄いから。見ないで、恥ずかしい」
「じゃあまずは下着屋さんですね。行きましょう」
歩き出した瑠栞を、膝を擦り合わせながら追った。
恥ずかしい大失敗の言い訳をするなら、昨夜とても大変だったのだ。店で商品のトラブルがあり対応に追われ、なんとか区切りをつけてタクシーで帰宅したのが朝の四時。シャワーを浴びて、それでも三時間半は眠れたけれど、寝不足の顔にたっぷりスキンケアとマッサージを施してから急いで身支度を整えたからうっかりしてしまった。
エスカレーターで前に乗った瑠栞がふり向いた。
真正面に、瑠栞の顔。近い。
思わず状況を忘れて見入っていたら、瑠栞が話し始めた。
「人と行くの初めてです。下着屋っていうか、普通ランジェリーショップって言いますよね」
その瞬間、あたしは弾けた。
そうか! 瑠栞ちゃんと、ランジェリーを選んじゃうんだ! スカートどころの話ではない。
あたしは瑠栞ちゃんのブラを!
ショーツを!
ベビードールを!
ガーターを!
見立てていいのだ! なんという幸せ!
「うん。楽しみ」
「沙橙さんていくつですか?」
無論、胸の話だ。
「E」
「やっぱり。それくらいですよね」
「瑠栞ちゃんは?」
「Bです」
エスカレーターで四階まで上がり、夢の国に着いた。
「おおお」
静かに歓声をあげる瑠栞ちゃんの背中を押して店に入る。
先取りのサマーセールが始まったようで、パステルカラーのセットアップや夏らしい柄のモールドブラが前面に並んでいる。
「いらっしゃいませぇ~。ただいま全品十%オフでーす」
店員の声に、いい時に来ましたねと瑠栞がふり仰いだ。控えめな膨らみを隠す黒い布地を透かしてその奥を想像する。ああ、のっけから刺激が強すぎる。
「よろしければご試着もできますよ」
楽しい。
前面の季節物を挟む形で、左の壁はその延長のやや価格帯が上のラインナップだ。右の壁はプチプラのラックがあり、柄も素材も学生が手を出しやすい範囲、隣にナイティのラックも並んでいる。奥は左から、試着室とバックヤード、レジ、総レースや補正下着などのコーナーになっていた。
「あ! 瑠栞ちゃん見てあれ可愛いっ」
「なに言ってるんですか。あなたペチコート買うんでしょ」
「お探し物ですか?」
奥のコーナーへ進む瑠栞に手を取られ、満面の営業スマイルを貼り付けた店員にぴったり後をつけられる。
「大丈夫です。ゆっくり見ます」
と追い返そうとしたのに瑠栞が食いついた。
「ペチコートです」
「ペチコートですね。こちらです」
店員の手を借りずとも下着くらい選べる。二人だけの時間を邪魔されて憤懣やるかたない気持ちになったところで、瑠栞はもしかすると慣れていないのかもしれないと思い至った。
せっかくフォローしてくれているのだ。顔を立てなければ。
悔い改めて店員に話しかける。あたしの事情を聞くと、ものの三秒で色サイズ質感と文句ないグレージュのペチコートが二枚差し出された。ひざ丈と、膝上である。
「お客様はスラっとしていらっしゃるから、長い方がいいかもしれませんね」
セールストークも善意のうちだ。あたりは瑠栞と顔を見合わせてから、素直に膝丈を選んだ。そのまま試着室に通され、リボン付きのカーテンで区切られた半畳ほどのスペースに収まる。ペチコートを履いて安心したあたしは、たちまちやる気が膨れ上がった。
さあ、瑠栞のブラを選ぼう。
「お待たせー!」
「元気ですね。ちょっと見てもいいですか?」
「もちろんっ。瑠栞ちゃん普段どういうの着てるの?」
「普通の」
塩対応がまた痺れる。
行動を見守っていると、やはり瑠栞は無難なレースの白に手を伸ばした。Bのシールが貼ってあるハンガーの、ブラとショーツのセット。それを顎の下あたりに添えて、あたしを見あげる。
「こういうのです」
「うん」
鼻血。鼻血、大丈夫。
「沙橙さんは持ってなさそう」
「シンプルなのが好きなんだね、瑠栞ちゃんは」
「あと安いの。洗濯めんどくさいんで」
「お洗濯は、コースでしないの?」
「全部一緒です。一応、柔軟剤は入れますけど」
生活の一部が知れて嬉しい。
「新しい下着って元気が出るよね!」
「そうですね。沙橙さんは全部ホームクリーニングっぽい」
「うん。ふわふわ大好き」
「香りとか、今日も少し甘い香りするけど、なに使ってますか?」
柔軟剤の話をしながら、瑠栞の手は無難なデザインの白とピンクとベージュをめぐり、やっと水色に至った。なにを着けても似合うだろうけれど、こんな地味なデザインばかりでは勿体ない。
あたしは目をつけていた。入って左の壁にある、シフォン素材でカップを包んだサーモピンクのセットだ。下のシャンパンイエローもいい。細やかな光沢が貝殻のようで美しいのと、肩紐の付け根に珍しくリボンではなくて小花のアクセントがある。ボルドーなどの濃い色やビビットカラーだとラグジュアリー感が増すけれど、あまり瑠栞のイメージと合わない。うん、あれがいい。試着しなくてもいいから、持っていてほしい。
「ねえ瑠栞ちゃん、あれ」
「あ」
誘導しようと腕をあげたら、すんなり通り抜けられた。
季節物の裏はサニタリーコーナーだ。柄ち形と機能とに区切られ、ほとんどが折りたたまれて詰めて陳列されている。その光沢のある布地を指で弾くように、瑠栞は表面をなぞっていく。
「いっぱい可愛いのあるね」
「こういうのって結局は上と合わないから、デザインとかどうでもよいと思っちゃって」
「サニタリータイプのショーツもあるセットなら上と合うよ」
「沙橙さんはセット派ですか?」
「それもあるし、休みたい日はブラトップ着ちゃう」
「大きいですもんね」
興味はあるようだけれど、瑠栞は買う気まではないらしい。
そしてやっと、あっちですね、と言って自ら左の壁へ向かった。あたしは俄然幸福感に包まれて瑠栞を負った。
「ふわふわですね」
「ね。瑠栞ちゃんこれ似合いそう」
「持ってないですね、こういうの」
「せっかく来たんだし、新しいスタートにいいんじゃないかなっ」
「そうですね」
素直に笑みを浮かべて瑠栞はまたBのハンガーを取る。それがまた白からスタートするので、もどかしくもいじらしい。あたしはかねてより目をつけていたサーモピンクを指さした。躊躇って、恥じらって、少し悪戯っぽく目を輝かせてから、瑠栞はそれをレジに運んだ。まだ会計を一緒にするわけにはいかないけれど、かえって時間稼ぎができた。瑠栞が袋を受け取り背中を向けた瞬間、店員に目配せをする。スマホに打ち込んでおいた文面を見せて、シャンパンイエローの取り置きを頼んだ。そのうち渡せる。ランジェリーをプレゼントできる関係になれると、信じている。
「次どこ行きますか」
リラックスした瑠栞の笑顔に迎えられ、有頂天で店を出る。
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