第4話 つぶれたミルフィーユ
「なぁんだそれぇっ!」
ミルフィーユにフォークを突き刺したのは無意識にただ手が下りただけで、どちらかといえばテーブルを叩きたい気持ちだった。
小茄子ちゃんは
ほとんど自己紹介をしながらピザを食べた。駅ビルにあるお洒落なイタリアンレストランで、ここのスウィーツバイキングに通っているあたしは味と価格に魅入られたファンの一人である。
デザートに小茄子ちゃん改め瑠栞はベリーパイを頼んだ。そして当の瑠栞は、フォークを行儀よく使ってパイを食べ、あたしにナプキンを差し出した。
「こぼれました」
「あ、ありがと」
楽しい時間を経てかなり甘い気持ちで終盤に近付いた今、信じられない話を聞いた。
瑠栞は今日、会社を辞めた。それでもうあの私鉄に乗る生活ではなくなるという。幸い、たった三駅の距離に住んでいる。だったら尚の事、時間もあるし親身になってくれる友人が一人増えてもいいじゃないかと踏み込んでいろいろ訊ねたら、酷い話なのだ。
瑠栞は商業高校を出て上京し、今日まで務めた会社で5年間経理を担当していた。親族経営に毛が生えたような零細企業だけれど、画材を扱う老舗で待遇もよかったらしい。常務と交際していたと聞いて軽いショックを受けたものの、これだけ可愛いのだからまあ当然だとも思った。その常務だ。そいつは瑠栞に結婚の約束をして付き合ってきたが、なんと今月の頭に食品メーカー大手の社長令嬢と婚約したという。もちろん瑠栞にとっては寝耳に水だった上に、常務は舌を出して謝り、これからも関係は続けていく事を望んできたそうだ。それで退職届を提出した。
「けっこう参って。ここ数日は電車でも無視してしまって、すみませんでした」
「そんなの、ぜんぜん! 参って当然だよ!」
なんという下衆だ。有り余る不幸を身に受けて苦しめばいいと思う。
「怒ってくれてありがとうございます。なんか、誰にも言えなくって」
瑠栞が笑って目を伏せた。寂しそうで、けれど人を寄せ付けない強さが滲み出ている。
結婚を見据えての関係なら将来のポストも見えていたはずだ。出世欲云々ではなく、ゆくゆくは社長夫人となり跡取りを産んで経営にも携わる、その人生設計が崩れたと同時に、失恋した。瑠栞は参ったと言うけれど、強いが故に本当の傷の深さには気づいていないように見える。誰にも言えなくて、と自分で言うのだ。瑠栞のような立場では人間関係も限られてくるだろうし、まして将来の夫や親族に囲まれているのだから、相当仕事にも相当打ち込んだはずだ。
「瑠栞ちゃん」
手を伸ばし、フォークごと包み込んだ。
瑠栞は一瞬目を丸くして、瞬きを繰り返した。
「身近な人には言いにくい事ってあると思う。ね、あたしがいるよ。あたしなら何言っても誰にもバレないし、後腐れないし、楽だよ。今夜、全部ぶちまけて」
本当なら隣に座って抱き寄せてナデナデしたいところだけれど、さずがにまだ我慢する。
瑠栞はまたきょとんとして、それからクシャっと頬を染めて笑った。
「宮島さんみたいた人、初めて」
ほかの初めてもいろいろ体験してほしい。
「沙橙。ミヤジマサンじゃないよ」
「いえそんな。年上だし」
実際あたしは二十六歳で、瑠栞より三つ上である。ただ精神の成熟度はあたしより瑠栞の方がはるかに高いと思う。小柄で黒髪ボブの可愛らしい容貌に備わった貫禄。ギャップがいい。
それでも瑠栞は傷ついているのだから、できる限り最大限力になりたい。
気を許してくれたのか、瑠栞は話を続けた。
瑠栞の直属の上司である専務は、常務の叔父にあたるらしい。専務は明らかになった当初、兄貴からは何も聞いていなかった、甥が何を考えているのかわからない、と言って本人も動揺していたという。それが翌日には、昇給と給料アップで機嫌を直せと言い、退職届を受け取った後は金一封を渡してきたそうだ。
「はあっ?」
えげつない声が飛び出てしまった。
「そんな気持ち悪い金ほしくないし。あんまり頭にきて、その場で開けてばら撒いて部屋出た」
「そりゃそうだよ。何考えてるのクソ爺」
やれやれといったふうに瑠栞が嘆息する。
「しょうもない男たちに付き合ってたんだなぁと思ったら、ますます凹んで」
「それ瑠栞ちゃんのせいじゃないよ。金持ちっておかしな奴いっぱいいるし。瑠栞ちゃんは真面目に付き合って、真面目に働いてたんでしょ。落ち込むだけ勿体ないよ」
「うん。そう思う」
カクテルが来てからは口調も砕けて、あたしはついそれを喜んでしまう。
ろくでもない男と縁が切れてよかった。その風穴にあたしが填れる幸運に心から感謝する。神さま、ありがとう。
でも事が事なだけに少し気になって、あたしは聞いてしまった。
「いくらだった?」
「五百」
「……五百?」
多い。予想よりはるかに多い金額で、心には暗雲が立ち込める。
慰謝料だ。それも叔父から。つまりは一族総意で瑠栞を「お嫁にくる子」として認識していたという事である。相手の裏切りでキャリアも失い、失恋のダメージも大きい。それでも婚約破棄の相場にしては多い。まさか、と悪寒が走る。でもそれは直後に瑠栞によって打ち消された。
「以前、これ見よがしで嫌だって指輪も断ったから、こっちにも非はあるし。まして妊娠したわけでもないのに額がおかしい」
聞いて力が抜ける。交際期間が長く婚約もしていたなら、肉体関係はあるはずで、もしかしたらと思ったのだけれど、瑠栞の体に大変な傷を負わされたわけではないようだ。同性を好きになるからにはやっぱり覚悟するし、もし相手に子どもがいたらその子どもも大切に愛したいとは思っている。けれど今回は、瑠栞の痛手が一つでも除外できてよかった。
「退職金と失業手当あわせたら年収越えちゃうし、慰謝料もらうなら本人からが筋だし」
「そうだよね。でも慰謝料はもらうべきだよ。酷いもん。ほどよい額のね」
「ほしくない。全部、忘れたい」
力なく言って頭を抱えてしまった瑠栞が痛ましくて、あたしはついに席を移った。
人に話して気が抜けたのか、酔いもあるかもしれない。抱き寄せると瑠栞は静かに泣いた。あたしは瑠栞を抱き寄せて頭を抱え、誰にもその泣き顔が見えないように、丁寧に撫でた。
男なんてくそくらえだ。
あたしなら、好きな人を裏切って泣かせたりしないのに。
瑠栞が傷つけられた事を思えば辛いのに、それは同時にチャンスだと思ってしまう。男なんて懲り懲りで、新しい友達のあたしが最高の恋人だと感じるようになってくれたらいいなと期待してしまう。
最低だなんて思わない。
人を好きになるのは、それだけで奇跡なのだから。
全ての出会いには意味があるのだ。
あたしが勝田瑠栞に出会えたように、瑠栞は宮島沙橙を与えられた。
だから、あたしはこれから、瑠栞のいちばん傍にいる。
「瑠栞ちゃん。辛かったね」
返事はなかった。けれど幾重にも重なるあたしのスカートの襞をしっかりと瑠栞は握った。
しばらくして瑠栞が帰ると言うので、また花塚駅のホームまで送ってお開きとなった。
翌朝九時きっかりに律儀なラインをくれた頃、あたしは瑠栞の名前をひたすらハートで囲んで浮かれていた。
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