第3話 希望と絶望
詰めが甘かったのは認めます。
マロンの力添えがあったのに、うかれて大切なところを外したバカはこのあたしです。
ショックでシャワーのあとバスタオル一枚というあられもない姿のままチューハイをあおってぐっすり朝まで寝落ちしたマヌケもこのあたし。
風邪をひいたくらいで欠勤なんて言語道断。
重い心と体を引きずって電車にゆられる帰り道。鼻水が垂れない現状が不幸中の幸い。疲れた顔でマスクまでしているのだから、たとえ遠くから会釈だけなのだとしても余計なご挨拶をしないのが、名前も知らない間柄のマナーと心得る。
しかし辛い。
座席の弾力と電車の音が心地よい眠りに誘う。
命あっての物種だ。風邪をひいているうちは第二ラウンドもお預けと割り切って、バッグを抱きしめ姿勢を崩した。
ただ目を瞑っているだけでも少しは楽になる。
と、思ってから一瞬だった。
そっと肩をゆすられる。
「着きますよ」
ああ、可愛らし声。
柔らかい手で優しく起こしてくれる恋人がいて、あたし、幸せ……
「花塚です」
「んぅ」
心地よい怠さと熱っぽさを感じながら期待をこめて顔をあげた。
やっぱり。心配そうな顔の小茄子ちゃんが前に立っている。
「こ、なす」
「奈須工業大学前はずっと先です。花塚ですよ。立って」
「──」
目が覚めた。
慌てて立ち上がり足からガクンと力が抜ける。小さい体で小茄子ちゃんがあたしを力強く支えてくれて、ますます意識だけは覚めていく。
小茄子ちゃんは、頼もしかった。
あたしをホームまで連れて下りると、真下からじろりと睨みつけてきて、そして言った。
「帰れます?」
彼方からファンファーレが聞こえてくる。
チャンス到来──♪
寝起きでバランスを崩しただけで歩けないほどに体調が悪いわけではないけれど、精一杯つらい顔をしてみる。マスクのせいで目しか見えないのだから、目で訴えるしかない。
小茄子ちゃんは左手であたしの腕を掴み、右手でスマホを操作している。
「もう病院は行ったんですか?」
あたしは首をふった。
「ロータリーの向こうのクリニックが夜九時までみたいですね。行きますか?」
今度は高速で頷く。
そうこうしているちに電車のドアが閉まって発車した。
「ごめんなさい」
「ああ、喉は大丈夫なんですね。でも顔赤いです。寒くないんですか? シースルーにはまだ早いと思いますよ」
今日のワンピースは詰襟をリボンで結ぶタイプで、鎖骨の少し下までは透けている。急いで支度をしたから体調に気が回らず、ただの勢いを回復したのだと勘違いしてしまったのかもしれない。確かに寒い。
「電車」
しおらしいふりをしているわけではなく、今日は本当の罪悪感があった。
風邪をうつしてしまったら申し訳なさすぎる。
「いいですよ、どんどん来るし。歩けます? ここ、階段だけですか? あ、あっちにエレベーターがある。行きましょう」
スマホをしまうと小茄子ちゃんはあたしの背中と腕に手を添えて、とても丁寧にゆっくり誘導し始めた。間違いなく年下だけれども、落ち着きがあって他人の面倒も見慣れている様子に尊敬を覚えた。今日もパンツスーツだ。スカートを履きたくないとかいうふうでもなく、貫禄がある。
お仕事は何をしているのだろう。
「季節の変わり目は体調を崩しやすいですよね」
業務連絡のようなトーンで言われていても、見下ろす横顔は凛としてすてきとしか思わない。小鼻のサイズも角度もすてき。文句なしの美人さんだった。
まさかと思ったけれど、小茄子ちゃんはなにも言わずに定期で改札を出て、素早く目を走らせて出口を確認してさらにあたしを気遣ってくれた。感動した。
ロータリーを越えて下りのエスカレーターまで来ると、小茄子ちゃんはサッと先に乗ってくるりとふり向く。両手を手すりにかけて、胸の下あたりから注意深い目を向けてくる。夢か。夢なら覚めないで。
「家は近いんですか?」
え、来てくれるの?
「四分くらい」
「そうですか。お粥とか常備してます?」
思い出すふりをして、家のキッチンで料理する小茄子ちゃんを妄想してみる。
「スポーツドリンクとか、ちゃんとありますか?」
「どう、かな」
「心配だな」
呟いたのは独り言で、あたしに言ったわけではない。でも心配してくれているのは事実だ。マスクしていてよかった。
「なに笑ってるんですか?」
バレてた。
エスカレーターを下りて、もうクリニックの看板がすぐそこに見える。
「お礼にケーキでも」
「いやいや、すぐ帰って寝て下さい」
んんん、つれない。
さすがに病人の分際でこれ以上わがままを言うわけにもいかなかった。
クリニックの入り口まで送ってもらって、厳しく安静を言い渡されて、最後には早く中に入れと怒られてしまった。受付で保険証を出したところでまたもや名前を聞き忘れたと気づき呆然としたけれど、これで次の挨拶は決まったようなものだ。元気がわいてきた。
本当にお世話になりました。申し遅れてすみません。
完璧だ。これなら始められる。
ところが希望は絶望に変わった。
お礼を伝えようと思っていたのに、小茄子ちゃんは目を合わせてくれない。視界には入っているはずなのに、敢えて見ないようにしているのがよくわかる。初日はこちらの体調を気遣ってくれたのかと思った。翌日も、翌々日も、不機嫌そうな小茄子ちゃんはまったくあたしを見なかった。同じ車両に乗り合わせ、わずかだけれど言葉を交わし、何よりこちらはタイミングを掴もうと今か今かと待ち構えて小茄子ちゃんが現れたら力をこめて凝視しているのだ。
嫌がられている。
その思いが芽生えたとき、治りかけの風邪よりはるかに強烈な眩暈が襲った。
迷惑をかけたせいだ。調子に乗ってしまった。
キーホルダーを拾ってもらって、病院にまで付き添ってもらった。その両方でデートを断られた。そして今は目も合わせてくれない。どうしよう。今しつこく迫ったら絶対に危ない奴と警戒されてしまう。
だけど、一つ深呼吸。アクシデントには冷静に対処するのが鉄則だ。そうでないとリカバリーできるものもできなくなる。あたしは静かに目を配る程度で数日やり過ごすと決めた。一週間も置けば回復を報告するという口実もできる。週末を挟めば小茄子ちゃんもリフレッシュされるはずだ。
期待通り、週が明けてついに小茄子ちゃんがあたしを見た。
胸から熱があふれ、鼓動が高鳴る。
車両に乗り込んであたしを見つけると、小茄子ちゃんは座席の前まで歩いてきてくれた。あたしが一日の疲れを労うと、隣のサラリーマンが気遣って席をずれてくれて、小茄子ちゃんが隣に座る。柔らかな体温にますます頬が熱くなる。
挨拶とお礼のあとは無難な天気の話などして、あまり舞い上がらないようにセーブしつつ、いっそ電車が止まればいいなどと思ったりもした。
とにかく、あたしたちはまだ共通の話題なんて持っていない。
唯一確かなのは同じ路線という事。軽いスタンスで聞いてみた。
「どこまでですか?」
「八賀橋です」
「えっ」
たった三駅という近さに理性が飛んだ。
「ご近所ですね!」
「そうなんですが、近くても実は他県なんですねぇ」
確かに、川を境に都と県だ。
「いいですね、都心も近くて」
「ええ、まあ」
小茄子ちゃんは曖昧な返事をしたけれど、あたしは気にしなかった。
気軽にお出かけできる距離だし、夏は花火大会もある。楽しいデートが待ち受けている!
「駅から四分だと、帰り道にスーパーとかあるんですか?」
しかもこちらの自宅情報まで覚えてくれていた。
「ぜんぜん。帰ってから、もっと住宅地の方に入っていくんです」
「そうなんですか。花塚の駅って栄えてるから、生活用品のイメージないです」
「あは。そうですよね。八賀橋からはどれくらいなんですか?」
「十五分歩きます」
なるほど。小茄子ちゃん宅は駅から徒歩十五分。けっこう歩くけれど、その先に待つものを考えたら何も苦じゃない。ただ歩きやすい靴を選んでおいてもいいかもしれない。
「スーパーは?」
「三軒あります」
それは恵まれた環境だ。どんな献立を日々考えて作っているのかとても気になる。
他愛もない話をしていたらあっという間に花塚に着いた。
名残惜しくて挨拶できないまま腰だけあげると、小茄子ちゃんも立った。期待を込めて見つめていると、少し言いにくそうに目を伏せて小茄子ちゃんは言った。
「あの、よかったらごはん食べませんか。時間、あれば」
「うん食べる」
長い睫毛に釘付けになりながら即答し、気も逸って早足でホームに下りる。小茄子ちゃんが追いつくのを待ってから、さあ並んで歩こうというとき。
「今日で最後なんです。もう、電車乗らなくなるから」
唯一の絆が、砂のように崩れた。
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