第2話 マロン作戦
断れない状況を作り出すとしても、相手に負担をかけては台無しになる。
いい事をしたと思ってもらって、気持ちのいい出会いを演出する。
人の心をつかむにはそれなりの演出が不可欠だ。
まずは中学二年の秋に天国へ旅立った愛するマロンの写真を使ってキーホルダーを作った。物心ついた頃から一緒に育ったゴールデンレトリバーのマロンは、今でもあたしの一番の親友で、可愛い妹だ。白っぽいゴールドの毛が光を弾いてきれいだった。ふさふさの尻尾が起こす柔らかな風を、今も感じられる。天使になったあたしのマロン。いつも、これからもずっと傍にいて。
そしてマロン。あたしを助けて。
『次は、花塚、花塚です』
バッグの持ち手とキーホルダーをつなぐリボンがいい感じで解けそうなのを確認して、そっとそっと、気をつけて立ち上がる。視界が高くなったところで小茄子ちゃんが寝ていないかさりげなく確認。うん、大丈夫。起きてる。周りの人にぶつかって大事なキーホルダーが落ちないように慎重にドアまで歩いた。
今日は絶好のチャンス。タイミングが命。なぜなら小茄子ちゃんはドアの脇の席に座っている。
下りる間際、小茄子ちゃんの視界の中で躓いたふりをして体を揺らした。
落ちたか──!
わざとやったわけじゃない。事故なのだ。
気づかないふりではない、あたしは知らない。
ホームに下りたら普通のペースでさくさく歩く。距離を稼ぐ。
今日失敗しても明日がある。明日がダメでも二日待てば月曜日がやってくる。
初戦、ボロを出さない事が大切だ。
初夏の涼やかな風に迎えられ、延びた陽にボケてしまう駅ビルのネオンを眺めた。
そのとき。
「あの、すみません」
鈴の鳴るような可憐な声。
──来たッ!
計画通り。待ちに待った出会いの瞬間がやってきた!
「えっ」
振り向くと、見あげてくる小茄子ちゃんがいた。真剣な表情でマロンのキーホルダーを胸のあたりまで持ち上げる。
「落としました」
やめてそんなぱちくりしないで。鼻血が……
「あ! ありがとうございます!」
小茄子ちゃんに話しかけられて嬉しい。親切な人が大切なキーホルダーを拾って呼び止めてくれて嬉しい。おんなじ、おんなじ。
感激していると、さして怪しむ様子もなく小茄子ちゃんが会釈した。
「じゃ、失礼します」
「え」
もう行っちゃうの?
待って待って、出会ってない。これじゃ通りすがり。
発車のベルが鳴り響く。
グレーのパンツスーツの可愛いおしりが去って行く。
「あーっ!」
とりあえず叫んだ。
「?」
ふりかえってくれる小茄子ちゃんの優しさに感謝です。
「あ。あ……あれ? え?」
キーホルダーを掌に収め、あちこちの角度から眺める。小茄子ちゃん行かないでという焦りが絶大な信憑性を持たせているはずだ。
ベルが鳴る。
駆け込み乗車はおやめください、おやめくださいお願いします。
「あぁ……」
キーホルダーはなんともない。にへらっと舌を出して笑うマロンが最高に可愛い。マロンも呼んで。小茄子ちゃん呼んで。
ドアが閉まった。
ホームには立ち止まったあたしと、小茄子ちゃんがいた。
少しの罪悪感もあるにはあるけど、これからたくさん愛情を注げばすぐ清算できるゴメンナサイだ。やるしかない。うまくいっている。神さまはあたしを応援している。
電車が滑り出す。
もう一間置いて、あたしは安堵の息を吐きながら小さく笑った。
それからキーホルダーを胸に抱いて、バッグにしまって。やっと恩人に気づいたふりをした。
「あ……!」
見ず知らずの人が落とし物を届けてくれて、乗り過ごしたのだ。
お礼をしなくちゃ。
今度はこちらから駆け寄って、勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい! あたしのせいで、乗り過ごしちゃって」
体を起こす。頭一つ小さい小茄子ちゃんがまたぱちくりと見あげてきた。
「ありがとうございました。大切なキーホルダーなんです」
「よかったです」
優しい微笑みにくらりとしたけれど、なんとか理性を保つ。
「あの、お帰りですか? よかったらお礼に甘いものでも」
「いやいや」
たちまち微笑みが消える。
「本当に大切なものだったんです。十四歳の時に亡くなって、でもいつも一緒にいたくて」
捲くし立てると小茄子ちゃんの目がキラリと光った。また目が合う。深い黒目。吸い込まれちゃいそうな強い眼差し。
「そんなに大切ならリボンなんかで結んでないで──」
と言ったところで、あんぐり口を開けて蒼褪めてしまう。それからさっきまで電車のあったところを振り返り、慌てた様子でまた見あげてくる。
「もしかして、あのリボンも思い出のリボン?」
「え?」
このとき、その小道具の存在すらすっかりさっぱり忘れていた。
「すみません。男性が踏んでいて、あなたは歩いていくから間に合わないと思って」
愕然とレールの先に視線を投げる小茄子ちゃんを見ているうちに、何を言われているのか気づいた。そしてその人柄にますます惚れた。
「いえっ、ぜんぜん! 違うんです。あれはただのあたしのリボン!」
大慌てで両手をふる。
小茄子ちゃんがいてくれるなら、あんなリボンの千本や万本ドブに捨ても構わない。ただその情熱を今ここで伝えるのは得策ではない。
「そうですか。よかった」
安心した笑顔は、さっきの落ち着いた微笑みよりずっと幼く見えて、可愛い。
「本当にありがとうございました。あの、よかったらお茶でも」
「いえいえ」
「お礼がしたいんです」
「あなたが安心したなら、それでわたしも嬉しいので」
お行儀よく断られてしまい、これ以上ゴリ押ししてもかえってイメージダウンにつながるのではないかという恐れがわいた。
「それじゃあ、電車が来るまで」
「え?」
小茄子ちゃんが目を丸くする。
「一緒に待ちます。電車」
理解できない言葉を聞いたかのように、小茄子ちゃんは特に感情の動きは示さないままフリーズしてしまった。
せめて悪い印象を残したり変な奴とか覚えられないように、お行儀よくお見送りしなければ。
初対面であれこれ世間話をするのも、これから関係を築いていこうという下心のない小茄子ちゃんからすれば不審に映るかもしれない。またチャンスは巡ってくる。ほどほどのところで切り上げるのも大切だ。
隣に立って電車の来る方を眺めた。
小茄子ちゃんの視線を感じるけれど、実際あたしは嬉しかったのでご機嫌な姿を見てもう事で沈黙を守った。
あまりはしゃぎすぎて、いい歳なのに落ち着きのない人だと減点されるのは今の時点ではまだ避けたい。ただでさえフリルのついたワンピースとリボンは真面目そうな小茄子ちゃんには珍妙に映っているのかもしれないのだ。
アナウンスのベルが鳴り、ほどなくして電車が姿を現した。
来ましたね、と声をかけようと今一度キュートな顔を見下ろした。
どきん、とする。
待っていたようにそこに小茄子ちゃんのまっすぐな視線があった。
「雰囲気、似てますね。ワンちゃん」
息をするのも忘れて見つめていたら、あっという間に電車が定位置について口を開けた。
「それじゃ」
小茄子ちゃんが笑って会釈してくれる。ハッとして改めて頭を下げた。
「ありがとうございました!」
丁寧にお見送りするはずだったのに、悲しい。
それでも小茄子ちゃんとまともに話せた嬉しさから鼻歌まじりに階段を上り、改札を抜けた。
「あっ」
雷に打たれたような、衝撃。
なんということだ。
名前を聞き忘れた。
「あああ」
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