マシュマロターン
百谷シカ
本編
第1話 茄子の花
『──急停車します』
アナウンスと同時に圧力がかかり、電車が停まった。
あたしは右に、向かいの席であの子は左に、体が傾ぐ。
都心からベッドタウンへと働きバチを運ぶ私鉄はどれも込み合うけれど、始発から乗り込むあたしはいつも悠々と座ることができる。役得だ。
そしてあの子も在来線の主要な駅から乗り換えてくるから、人の入れ替わりがあって八駅の間おなじ車両で座っていられた。
『ただいま花塚駅にて非常ボタンが押されたため確認作業を行っております』
あらら。
最寄り駅だ。
『安全の確認が取れましたら──』
どんどん乗り込んでくる人の群れが壁になるまで、あの子を見つめるのがここ最近の楽しみ。
艶やかなダークブラウンの髪は、人見知りな猫を思わせる色白の顔を奇麗に包んだボブカット。小柄だけど可愛いおしりをしていて、スーツ姿にリュックサックを背負っている。新卒くらいの年に見えるのに、黒一辺倒ではない着こなしからデキる子だと予想がついた。
真面目そうな澄ました顔で、いつもスマホをいじっている。
尖った顎のライン。小さめの唇。考える時に視線を斜めに下ろす癖。自分で塗っている単色のネイル。機能性重視のパンプス。知らないのは、声と名前。
密かに小茄子ちゃんと呼んでいる。
『お客様には大変ご迷惑をおかけしますが──』
ぜーんぜん。とんでもない。
いつもよりたとえ一分でも長く小茄子ちゃんといられるなら、本当に感謝です。ありがとう。
ただ一つ気がかりなのは、花塚駅で何か起きたらしいという事だった。危険なのか、安全のか、そして誰も怪我していないのか、そこが問題だ。
『お待たせいたしました。安全の確認が取れましたので運転を再開致します』
こんなに早く電車が動くという事は、大した問題は起きていない。
今度は徐々に圧力がかかる。
よかった。何事もないなら、それがいちばん。
時間にしてほんの二分少々。人垣の向こうの席で、小茄子ちゃんはほっとしただろうか。それとも画面に夢中で気づいていないかな。
動き出した電車はスムーズに運転を続けて、あっという間に夢の八駅が過ぎた。
毎日、帰りの通勤ラッシュで会うあの子。
小茄子ちゃんが春の風を纏って颯爽と乗り込んできたあの日から、あたしは恋をしている。
出会うならどんなシチュエーションがいいだろう。どうしたら不審がられずに仲良くなってもらえるだろうか。そんなことを考えて悶々と過ごす夜もそろそろ飽きた。
もう我慢できない。
どうにかして小茄子ちゃんと恋したい。
甘く熱く、溶けあいたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます