第一話 なにげない挨拶

◆◆◆ 荒神裕也――


 聖王都アルビニオン。

 その第七区三十六番通りのとある屋敷の朝は早い。


 小鳥のさえずりが朝を運び、開け放たれた窓から柔らかな風がカーテンを揺らし朝飯の匂いを招き入れる。

 ベーコンエッグと昨日の残りのシチュー。

 鼻腔に飛び込んでくる匂いが脳に強烈な情報を叩き込み、空腹感を覚える。

 おそらく雇い始めた『三人』のメイドが朝餉の支度をしているのだろう。


 食い扶持を無い者から奪い、自分で確保するような荒んだ世界でないぶん、『あの頃』より怠惰な生活を送ってしまう自分がいる。


 待っているだけで飯が出てくるなど、幼少期に≪楽園≫に移住していたころ以来の経験だ。

 ゆっくり目蓋を持ち上げ、カビに立掛けられた古時計に目を向ければ、時刻は七時を指していた。


「……まだ、寝れるな」


 微睡む意識のなか、大きくあくびを噛み殺し布団をかぶる。

 安全と信頼を金で買う亡者共が住まう街。

 それがここ聖王都が誇る内地ローゼリアだ。


 格差社会が生まれるのはどこの世界でも同じだが、壁が仕切られ基本的に自由に行き来できないという訳でないだけまだマシか。

 少なくとも、俺が『死ぬ前の世界』よりかはずっと平和だ。


 それにしても昨日の歓迎会で少しばかり夜更かしすぎたようだ。油断が死に直結する世界とは違い、脳が休息を求めているらしい。


 もう少し寝るか。

 ――と、そのまま微睡む世界に意識を手放しかけたところで、


「(……最悪だ)」


 悪魔の足音を確かに聞いた。

 それはまっすぐ俺に用意された部屋に向かっており、個人の尊厳を守るはずの堅牢な鍵はあっさりと白旗を上げた。

 そして――宙を舞うように黒髪の女が突撃してきた。


「あーらーがーみーしゃーん、あーさーでーすよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ――ぶらっっ!!!?」


 獣じみた眼光を煌めかせる女の顔に渾身のクロスカウンターが突き刺さる。

 堅牢な鍵はもはや意味をなさず。

 ドアを派手に開け放つなり、奇声を上げて突っ込んできた変態女こと八雲やくも八重やえを廊下に吹き飛ばすことで荒神裕也の朝は始まった。


 もはや日常と化した最低最悪のルーティン。

 おはようからおやすみまで毎日特攻されば、嫌でも身体が対処法を覚えてしまう。

 故に顔面殴打なのだが、この変態にはどうやらご褒美の類らしい。


 実力があるぶん全力で打っても響かないというのが癪だが、俺も好き好んで女の顔をぶん殴りたいわけじゃねぇ。

 全力で殴っても傷がつかねぇならそれはそれで結構だ。


 だが壊れた目覚まし時計でも、もちっとマシな起こし方をする。コイツの頭はもはや手遅れだと諦めているが、これ以上悪化だけはしてほしくないものだ。


 心配からくる親切心ではない。ただ単純にこれ以上は手に負えねぇという意味での不安だ。

 まったく、こいつが俺と同じ異世界の渡航者と思いたくねぇ。


「ふっふっふっ、物憂げにふける荒神さん。あんたぁ今日も最高に輝いてるぜ。……ぐふっ」


 最低の言葉を残して、幸せそうに昇天するヤエ。

 その変態の末路を一瞥し、俺は早々に着替えて自室の扉をあけ放つ。

 そしていつまでも廊下に横たわる変態を足蹴にすれば、

 

「改めまして、おはようございます。荒神さん!!」


 ――と、横たえたままはにかむように笑うヤエが何気ない挨拶を交わす。


 それは、昔までの俺からは考えられない言葉。

 同時に仲間内では絶対に口にしなかった言葉でもある。


 それでも二週間のヤエとの攻防の末、自然に身についた何気ないたった一言が俺の口から零れた。


「ああ、おはようさん。……さっさと飯食いに行くぞ」

「はいっ!!」


 素気なく言い放てば満面の笑みが返ってくる。 

 その時だった。

 獣じみた動き飛び掛かるヤエ。

 一瞬の隙をついた狩人の黒曜石の瞳がギラギラと輝き、変態の口から欲望の叫びがとどろいた。


「じゃあさっそく目覚めのチューを――」


 そして、俺の中にあるか細い線が、断裂したのはほぼ同時だった。

 左右にいれた残像を見切り、拳を鳩尾に叩き込む。

 そうして調子に乗った馬鹿を完璧に沈めたのち、階段があろうとかまわず引きずりまわし、


「あれ? おねぇちゃんまたおねんね?」

「……朝からお盛ん」

「ははは、ご苦労様です。本当に」


 三人のメイドから三者三様の反応を頂戴し、食堂の前で投げ捨てた。


 

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