エピローグ 契約の果てに――

◆◆◆ ???――


 闇。

 漆黒と言っても差し支えない空間の中で、私は静かに揺られていた。

 右も左も前も後ろも上も下もわからない世界。

 それでも不思議と恐怖は感じなかった


 揺蕩う意識だけが永劫に引き伸ばされ、安らかな微睡みを与える。

 

 どこか既視感のあるその闇は素気なくも温かく、『私』の自我が崩れないように優しく包み込んでくれている。


 ……ここは、どこだろう?


 そう認識できるようになったのはいつ頃だったか。

 まるで母の胎内にいるような心安らかな安堵感。


 私がどこの誰で、何をしたかったのかすらわからない。


 でも――、なにかとても大事なものを探していた気がする。

 それが何なのか思い出せないのがものすごくもどかしい。


 それは瞬く間に、私の目の前で奪われ、そして――


「マリナッ!!」


 意識が浮上すると同時に勢いよくベットから起き上がった。

 苛まれた不安と衝撃がよくわからない恐怖で胸中を蝕み、


「――うくっ!?」


 立ち眩みのような目まえ視界を揺らし、胸が締め付けられるように痛んだ。

 突然、飛び込んできた酸素に肺が驚いたのかもしれない。

 それに信じられないほど体がだるい。


 高鳴る心臓を掻き抱き、喘ぐように顔を上げれば、そこは見知らぬ大きな部屋が広がっていた。


 すすけた木造の天井とは違う、白く清潔な天井。

 広がる家具や調度品は真新しく、今まで私の身体を包んでいたであろう布団は手触りだけでどれだけ高価なものなのかわかってしまう。


 身分の低い私が、どうしてこんな部屋に。


 夢、だろうか?

 しかし、開け放たれた窓から零れる柔らかな斜光がカーテンを緩やかに揺らし、私の頬を優しく撫でる。

 そのあまりにも現実味のある空気は、ここが夢でないことを物語っている。


「……ここは、いったい」


 か細く独り言ちていると、右手のドアが開いた。逆光に照らされて黒い影が、大きな音を響かせ、


「起きたんですねルーナちゃん!!」


 勢いよく抱き着いてきた。

 ペタペタとその整った指先を額や頬に当てながら、その黒い瞳に大粒の涙が浮かんでいた。


「どこも悪いところありません? 視力は? 胸が痛いとかそういうのはありませんか? ――ああ、本当によかった」

「ヤクモ様、苦しいです」


 その抱擁が何よりも嬉しくて、ついそんなウソを言ってしまう。

 「ご、ごめんなさい」と慌てたように私から身を離すヤクモ様。

 けれど、本気で私のことを心配してくれてたのだろう。

 大きく胸を撫でおろす姿は、下賤な私に『友達になりましょう』と手を差し伸べてくれた時と変わらぬ優しさがあった。 


「……あの、ヤクモさま? 私はあれから一体どうなったんですか?」

「あっ、まだ無理に起き上がらないでください。ルーナちゃんはあれから一週間ずっと寝たきりだったんですから」

「一週間、ですか」


 身体が石のように重いのはそのせいか。

 でもそれは、決してそれだけじゃないような気がして――、

 脳裏に浮かんだ全ての悪夢が頭の中に洪水のような絶叫を上げた。


 喉が干上がり、身体が凍り付く。

 小さな悲鳴が口から洩れ、私は自分の身体のことなど関係なく、ヤクモ様にしがみついた。


「あの、マリナ。マリナは――ッ!?」

「慌てなくても大丈夫です。全部話しますから。だから落ち着いてください」


 柔らかく背中に手を回され、抱きしめられる。

 怖かったし、苦しかった。悲しかったし、悔しかった。

 だいじな妹のことを忘れていたことがどうしても許せなくて、醜く歪んだ口元から年甲斐もなく嗚咽が漏れた。


「怖かったですよね、わかります。わたしだって二人が死んじゃったかと思って怖かったんですから」


 宥めるような柔らかい口調が私の心臓を落ち着かせる。

 パンパンと背中を叩かれ、思考するだけの余裕が戻った頃。

 


「まず結論を言います。マリナちゃんは無事です。そんな心配しなくても大丈夫ですよ」

「そう、ですか。……よかった」


 ヤクモ様はしっかりと私の目を見て笑ってくれた。

 ヤクモ様が言うのだから間違いない。きっと私の想像の及びもしない方法で助けてくれたに違いない。

 あの時の衝撃。目の前でたった一人の妹が生きたまま食べられたのを見たときは尋常じゃないくらい恐怖だった。

 でもそれ以上に――、


「あの、……こんなことを聞くのはおかしいのかもしれませんけど、いいですか?」

「ん? なんですかそんな改まって」

「どうして私は生きているんですか。私は確か、邪神様に魂を奪われて――」


 死んだはずなのに。

 すると大きく柏手を打つヤクモ様が、近くにあった椅子を引き寄せて、


「ああ、それに関しては荒神さんのおかげです」


 当然とばかりに嬉しそうに口を開いた。


「アラガミさまの……」

「はい。厳密に言えば荒神さんの持つ黒い木刀、黒曜のおかげなんですけどね」


 詳しく話を聞けば、アラガミ様の持つ黒曜という武器は、神様を殺し、その魂を喰らうことでさらなる大きな力を得ることができるらしい。

 アラガミ様のファンを名乗るヤクモ様でも知らない使い方があるみたいだが、その中でも私を救ってくれたのは、『魂を識別する能力』。

 邪神となった守り神様を討滅する最中でも、アラガミ様は捕らわれた私の魂を探しだし、一時的に黒曜のなかに保管してくださったらしい。


「そうして奪われたルーナちゃんの魂を、もぬけの殻になった身体に吹き込んで蘇生させたって訳です」

「あの、私は魔術に詳しくないのですが、……そんなことが可能なのですか?」

「まぁゼロから魂を作り上げるよりかは簡単だって言ってましたよ? 器の身体も大して損傷していないみたいでしたし、なによりシュブニグラス。つまり守り神様がルーナちゃんの魂を取り込まなかったのが大きかったみたいです」


 もぬけの殻となった肉体に魂を吹き込むことで蘇生させる。

 聞けば聞くほど信じられないような御業だけど、いまこうして私が息をしていることこそがその軌跡を証明している。


 それに、


「私は、邪神――いいえ。守り神様に知らないうちに助けられていた、ということですか?」

「結果から見れば、そうなりますね」

「あの、それで守り神様は――」


 ピタリと動きを止めたヤクモ様が、気づかうように視線を逸らし頬を掻く。

 そして、はにかんだように笑ってみせた。

 その笑顔の意味は――、


「天に、還られたのですね」

「うん。荒神さんの話ではきっちりとあの世に送ってやったってさ」

「……そう、ですか」


 私たちの不信が彼女を邪神にまで堕としてしまったというのに、守り神様は私たち姉妹を守ってくださったのだ。

 私は、いいや。私たちは守られてばかりいる。

 それに気付けるのはいつだってすべてが終わってからだ。


 でも、その言葉を聞いて寂しさと同時に、僅かばかりの安堵が胸の内に広がった。

 少なくとも、彼女の終わりは痛みと後悔に満ちた最期でないような気がしたから。


「それで荒神さんが気になったことを言ってたですけど、ルーナちゃん。邪神の胃袋の中で荒神さんと出会ったっていったけど本当ですか?」

「――そう、ですね。記憶はおぼろげですけど、出会ったような気がします」

「そのおかげでルーナちゃんを取り戻せると確信したって言ってたましたよ」


 冷たく寂しい闇の中で確かに誰かの温もりを感じていたのは確かだ。

 それでもおぼろげに思い出せるのが、その闇が悲しみと怒りで満ちていたこと。

 それ以外はあまり良く覚えていない。


「あの、それでここは――?」

「ああ、まだ言ってませんでしたね。ここはわたしのお家です。正確には聖王都アルビニオンの首都グリゴリ。その十八番通りにあるお屋敷です」

「ここが、ヤクモ様のご自宅、ですか」


 有名な方だとは聞いていたがここまですごい方だとは思わなかった。

 首都グリゴリと言えば、貴族などが住まう高級住宅街が密集している土地でもある。

 そんな場所に住める冒険者などおそらく一握りもいないはずなのにこの方は――、


 すると私の顔を見て何かを察したのか、ヤクモ様は苦笑を浮かべて右手を左右に振ってみせた。


「あー違います違います。今回の褒章にレイブン卿がこのお屋敷丸ごとくれたんですよ。今後のことを考えると拠点を持っていた方がいいってね」

「こんな素晴らしいお屋敷をですか!?」

「はじめは新しい屋敷を作るとまで言い出したんですよ? でも、さすがにそこまでしてもらうのは悪いんで、なんとか言いくるめてここをもらいました。……なんだか嵌められたような気がしますけど、」


 よほどのやり取りがあったに違いない。ヤレヤレと首を振ってみせるヤクモ様は、疲れたように苦笑して『それに――』と言葉をつけたした。


「全てが丸く収まったって訳じゃないんですけどね」

「それは、一体どういうことですか?」

「これはわたしの独断で話すことなんですけど、ルーナちゃんには衝撃の事実かもしれません。……それでも聞きます?」


 不穏な言葉が室内を満たす。

 きっと私が眠っている間に何かあったのだ。

 おそらく村に関してのこと。


 いままで柔らかく笑みを浮かべていたヤクモ様の表情に鋭い鉛色の光が見え隠れしているのはそのせいだ。

 知るのは確かに怖い。

 でも見て見ぬふりをするのはもっと嫌だ。


「はい。一体何があったんですか?」

「今回の土着神の邪神化の黒幕。その一人が見つかりました」

「そんな!? ――やっぱりあれは人為的だったんですか!! いったい誰がそんなことを――」


 大きく息を吸うヤクモ様の口から真実の言葉が吐き出される。


「黒幕はルーナちゃんのお父さん。ホグレス=ローレリアが一枚噛んでいるという情報が上がったんです」

「そんな、父が――っ!?」


 その強烈な衝撃に思わず身を乗り出し、大きくせき込んだ。

 あまりにも突然のことでギョッと身を固めるヤクモ様が、慌てた様子でベット脇に置かれた水差しを取り、私に手渡した。

 並々注がれた水差しをゆっくりと口に含むと落ち着きを取り戻し、ヤクモ様も大きな安堵の表情を浮かべた。


「やっぱりこの話は刺激が強すぎましたか。……すみません。荒神さんにも目を覚ましても絶対安静ってきつく言われてたのに――」

「いいえ教えてくださりありがとうございます。そして話してください。父は、ホグレスが守り神様の邪神になる関わりがあるというのは本当ですか」


 痛む胸を押さえつけて大きく息を着けば、観念したように。息をつくヤクモ様。

 大きく頷くその宝石のような黒い瞳には偽りの色は見えなかった。


「はい、二人の証言があるので間違いないです」

「二人、ですか?」


 反芻した言葉に反応するように、ヤクモ様は二本の指を立ててみせた。


「ええ、一人はマリナちゃん。十日くらい前に深夜遅くに不審者と森の中をうろつき、黒い≪信者の涙≫を捧げていた、と証言しました。それはもうすごい剣幕で」

「そう、マリナが――」


 マリナならそれくらいのことはするかもしれない。

 なにせ村で誰よりも守り神様を敬愛し、信仰していたのはマリナだ。

 大好きな守り神様が父親の手で邪神に変えられたと知ったのならば、それが例え私たちの親であっても。

 でも――


「子供の証言ではあまり参考にならないんじゃないんですか?」

「ええ。ですから、もう一人の方の証言が決定的です。村人の皆を誘導していた際に、騎士の方に『守り神に復讐される。助けてくれ』と馬鹿正直に告白したそうです」

「それは、また。……救いようがありませんね」

「おそらく、邪神の放つ狂気に耐えられなかったのでしょう。いまは王都の牢獄で詰問中ですが、おそらく実刑が下ることは間違いありません」


 すると饒舌に真相を語っていたヤクモ様の口調が急に歯切れ悪くなる。

 一度視線を伏せ、次に申し訳なさそうな瞳で私を見た。


「すみません。知るつもりはなかったんですけどルーナちゃんたちは、ホグレスさんと血が繋がっていないんですね」

「はい。おっしゃる通り私たちは母の連れ子です。王都で母を見染めた父が私たち親娘を村に引き取り、その後すぐに母は――」


 父の暴行によって殺された。

 証拠はない。私も目撃したわけではないが、たぶんあっている。

 なぜなら幼い頃、母と湯あみをするたびに見覚えのない痣が母の身体に増えているのを見たことがあるからだ。


 だから、私は父が怖かった。

 父に逆らえば、捨てられる。母のようになる。

 でも父の言うことを聞いていれば、期待に応えればマリナも私も平和に暮らせる。

 そうしていつしか、自分でも気づかぬうちに私は父の傀儡に変わっていたのだ。


 アラガミ様に叱ってもらうまで、私はそんな事にも気づけなかった。


「兆候はなかったんですか?」


「いえ、思い当たる節ならいくつかあります。例えば、私とマリナが荒神さんに助けられたあの日の父の狼狽えようです」


「あの日、ですか? 特別不自然な所はなかったように見えましたけど」


「いいえ。いつも人当たりのいい振りをしている父ならばあんな感情的に他人を拒絶するようなことはしません。きっと死ぬはずだった私たちが戻ってきたのを知って、真実に近づいたのだと勘違いしたんだと思います」


 十日前という事は、当然私たちが守り神様に信仰を捧げに行く前の日から『守り神様はもう手遅れ』だという事は知っているだろうし。全ての原因の一端を父が担っているのなら、アラガミ様に対する数々の非礼や振る舞いにも納得がいく。


 つまり、私たちはあの時点でいらない子供として父に捨てられていたのだ。

 でなければ、邪神と化した守り神様の前に義理とはいえ二人の娘を祠に送り出すはずがない。


「まっ――この件はレイブン卿が何とかすると思うので大丈夫でしょう」

「はい。あのそれで――」

「うん? どうしましたそんな心配そうな顔して?」

「あの、村の者は。……いえ、今後の私たちの処罰はどうなったのですか?」

「ん? ああ――、それなら心配ありません。共謀者の疑いがあるホグレス以外は無罪放免。つまり恩赦がでたんです」

「全員ですか!?」


 驚きの声に肯定するように大きく頷くヤクモ様。

 村の主導者が大罪を犯したのだ。反逆罪とみなされて村にもばつが来ることを覚悟していたのだが、まさかそんな破格の恩情が与えれているとは思わなかった。


「それじゃあ皆はいまどこに――」

「マリナちゃんとルーナちゃん以外はリオン卿の領内で新しい生活してもらっているはずです。プライドの高いレイブン卿が保証人としてわざわざリオン卿に頭を下げてまでね」

「そ、そんな下賤な私たちのためにですか!?」


 村から共謀者がでてましてや守り神様を邪神に変えたのだ。村全体が処罰されてもおかしくないのに。


「まぁ、これは荒神さんのおかげですね。褒賞が出ると知って珍しく『ロンソン村の住人の今後の生活の保障と、村の復興及び保護を求める』ってレイブン卿に申し出たんですよ。さすがのレイブン卿も一番の戦功労者の頼みを無下にできなかったみたいです」


『まっ、さすがに共謀者のお父さんまで庇いたてるつもりはないみたいだけど』

 と言い残して二ッと笑って見せる。


「で、でもどうしてアラガミ様が私たちのためにそこまで――」

「どうにもシュブニグラス様との約束みたいでして。『俺はあの神様の心残りって奴を晴らすと誓ったんでな、このくらい当然だ』だって言ってました」

「そんな――」

「ふふっおかしいでしょう? 神様が嫌いで神喰らいになった人が、神様の願いを叶えるってのはちょっと皮肉ですけどね」


 そう言って楽しそうに笑うヤクモ様。

 その笑顔は、まるで愛しい思い人を追いかけるように眩しい色を瞳に灯していた。


「まぁだから、ルーナちゃんが気に負うようなことじゃないので安心してください。あれは正真正銘、荒神さんの選択です。神様に頼まれようと、同情だからとか正義感だからとかじゃなく、荒神さんが望んだことなんで」

「……私、アラガミ様に迷惑かけてばっかりです。まだ、助けていただいた借りも返せていないのに、また大きな借りができてしまいました」

「それはわたしも同じかな。結局わたしも最後まで荒神さんに任せちゃったし。借りばっかり膨れてこりゃいよいよ人生全部使って恩返ししなきゃだめだよね」


 妹と自分の命を救ってもらい。あまつさえ村の命まで。

 そしておそらく守り神様まで――


 記憶にない。けど、胸の内側で鼓動するこの心は知っている。

 穏やかに私たちのもとから去っていく守り神様の姿を。


 誰も殺さずに済んだことに嬉しそうに微笑む彼女の姿を。

 すると隣で椅子い腰かけるヤクモ様が唐突に立ち上がった音が聞こえた。


「それで目覚めてすぐこんなことを聞くのは酷ですけど、今後どうするつもりですか?」

「……そうですね。私たちには頼れる親戚はいません。レイブン様にこれ以上ご迷惑をおかけするのも気が引けますし、もう少しだけ御厄介になったあと――」


 二人で慎ましく暮らす。

 そう言いかけた唇に柔らかい指先が添えられる。

 そして――


「そういうと思ってました」

「えっ?」


 ヤクモ様の口からとんでもない提案が飛び出してきた。


「ルーナちゃん。この家、ひいては私たちに仕える気はありませんか?」

「――へっ?」


 私の素っ頓狂な声が上がる。

 見上げれば、してやったりというような、悪戯っ子の幼い笑みがヤエ様の顔に張り付いていた。


「ふふっ――。何言ってんのコイツって顔ですね? でも考えてみてもください。レイブン卿の心遣いで褒賞としてここをいただきましたけど、私は冒険者で貴族じゃありません。当然、召使いなんていない状況です」


「たしかに、そうですよね」


「簡単に手放したらそれこそ良くしていただいたレイブン卿の顔が立ちませんし、こんな最良物件を手放すのは惜しいです。でも、ここを荒神さんとわたしの二人で拠点にしても管理できません」


 まるで芝居めいたような口調で天井を仰ぎ、


「そこで、あなた方の出番です!!」

「ふぇっ!?」


 痛みも忘れて驚きで身をすくめる。


「わたし考えたんですよ。どうせここに拠点を置くならマリナちゃんとルーナちゃんをメイドとして雇っちゃえばいいんだって。信頼関係もばっちりだし、二人が働き者であるという事は私がよく知っています。どうです? いい案だと思いませんか?」

「ええっと、つまり――」


「四人でいっしょに暮らしませんか?」


 頬に伝う雫が、シーツにいくつもの染みを作る。


 いいのだろうか。

 こんな幸せなことがあって。

 命を助けられて、住む場所を与えてもらって。好きな人たちに囲まれて生きていけるなんて。


 差し出される右手がまるで救いの手のように見える。

 柔らかく微笑むその美しい笑顔は、守り神様のように穏やかだった。


「わ、わたしなんかが、お二人の御傍にいてもいいんですか?」

「ふふっ、そう自分を卑下しちゃダメですよ。わたしはルーナちゃんたちだから一緒に住みたいんです。ちゃんとお給料も出しますし、どうです?」


「私は、わたしは――」


 喘ぐように息を吸う。

 思わず伸ばしかけた右手、そして――


「おねぇちゃんが起きたってホント!!」


 どたどたと激しい足音のあと、二つ目の幸せが扉をあけ放った。 

 一番会いたかった女の子。

 私を見るなり、その女の子の瞳に涙がたまり、


「おねぇちゃん!!」

「――っ、マリナ!!」


 涙が堪え切れず、飛び掛かってきた唯一の繋がりを抱きしめる。

 二人の顔は涙で濡れていた。


「よかった。無事で本当によかった」

「ごめんさいおねぇちゃん。マリナのせいでおねぇちゃんがおねぇちゃんが――」

「ううん、いいの。私も不甲斐ない姉でごめんね。あなたの悩みに、……気付いてあげられなかった」

「ごめんなさいおねぇちゃああああああああ」


 わたしの胸の内で激しく泣きじゃくるマリナ。

 その栗色の髪を何度も何度も撫でる。そしてゆっくり視線をあげれば、そこには私がこの世で三番目に会いたい人が立っていた。


 一人はマリナ。二人は守り神様。そして三人目は――


「アラガミ様」

「よぉ、目が覚めたみたいだな。そこの変態から連絡があった」

「はい、おかげさまで」


 いつも通り素気ない口ぶり。

 でもその一言が何より私の胸を燻ぶらせる。


 大きく高鳴る心臓の音が聞こえないか、慌てて胸に手を当てると横からしたり顔のヤクモ様が


「それでどうですか。考えてはくれませんか?」

「あん? 一体何の話だ?」

「マリナちゃんとルーナちゃんにこのお屋敷のメイドさんになってもらいましょうって話です」

「はぁ!? 聞いてねぇぞ」


 どうやらヤエ様はアラガミ様になにも話していなかったようだ。

 あまりの驚きっぷりに目を見張っていると、胸から顔を離すマリナが身を乗り出すように興奮気味にヤクモ様のもとに駆け出した。


「わぁあああ!! すごいすごい。マリナ、メイドさんになりたい!!」

「そうでしょ? 四人で一緒に暮らせるんですよ?」


 すると目元を赤くしたルーナがヤクモ様の手を取りながら無邪気な笑みを浮かべて振り返った。


「ねぇおねぇちゃん。いっしょにメイドさんになろう?」

「で、でも――」

「ふっふっふ知ってます? 子連れの女を口説くにはまず子供に気に入られることが重要なんですよ?」


 それでも煮え切らない反応を見せる私に、ヤエ様は耳元までそっと口を近づけると、


「(メイドさんになれば、それにこれからは立場を気にせず、ずっと荒神さんと一緒にいられますよ?)」


 ボンッッ!! と私の体が沸騰した。

 思わず目を剥いてヤクモ様の方に視線を向ければ、しししと歯の隙間から悪戯っぽい笑い声が返ってくる。


「なななななな、なんでそれを――」

「最初からわかってましたよ? 優等生が不良少年に惹かれやすいってのはテンプレですし、何よりあなたに彼の話を語って聞かせたのはわたしも同じですから」


 そう言って改めて、契約の右手が差し出される。

 

「それでどうします? 一緒に暮らしませんか?」

 

 その視線奥、壁に寄り掛かるようにして身体を預けるアラガミ様を見る。

 窓の外に視線を向け、どこか遠くの空を見つめている。


 私は彼のことを何も知らない。


 それでも今までの人生で、が孤高に生きてきたというのは知っている。

 居場所がなかったのか。それとも居場所を造れなかったのか。

 荒神裕也という存在はいつも一人だったとヤクモ様から聞かされている。


 でも、私の目の前にいるのはアラガミ=ユウヤだ。

 どこの世界にいるかもわからない住人の荒神裕也じゃない。


 アニメとかマンガとか、ヤクモ様の言う世界は馬鹿な私にはよくわからない。


 けど――もし、が真に居場所を欲しているのなら。

 もし、誰かと寄り添う場所が必要だと感じたときが来るのなら。 


 私はアラガミ様の役に立てる自分でありたい。


 それが例え、報われない未来だったとしても。


「それで答えは?」

「はい!! よろしくお願いします」


 自分の意志でその手を掴む。


 依存のためではない。真に私が私らしく自由に生きるために。


◆◆◆ 荒神裕也――


 ため息が口から洩れる。

 なんだってそんな結論に至るのかわからねぇ。


 だが、結局のところどうこうするのも奴らの自由だ。

 なにせこの世界はそういう理で出来ているのだから。


 頭を抱えるように額に手を当て、大きくかぶりを振る。


 どいつもこいつもお人よしばっかりだ。 

 哀れを通り越して、いっそ滑稽だな。


 けれど、彼女たちの大きな息づかいはどこか晴々と嬉しそうな響きがあった。

 三人の少女から視線を外し、空を見上げる。


「お前の願い、確かに果たしたぜシュブニグラス」


 誰にも聞こえないよう小さく独り言ち、大きく息をつく。

 これでやり残しは全て片付けた。思い残すことは何もない。

 そう考えて壁から体を離そうとしたところで、不意にあのクソ女神の叫びが唐突に脳裏を過ぎった。


 諦めかけていた魂を震わせた痛みの言葉。


『そんなあなたが最後になにを願い、どんな思いで散っていったか知らないわたしじゃない!!』


 涙を流し、俺の行く末を見届けたたった一柱の憎き神の言葉。

 全てを託すことによって手を伸ばすことを諦めた、所詮叶わないと握りつぶした――


「……俺の、願いか」


 窓の向こう。

 俺の望んだ世界は確かに『ここ』にある。

 喧騒が止まぬ小さな箱庭。

 飛び出したくなるほどの雄大に広がる青空。

 そのどこまでも高く、広く、自由にその翼を伸ばす世界こどもたちを見つめ、


「……ふっ。いい世界じゃねぇか、クソ女神」


 その眩さに目を細め、『アラガミ=ユウヤ』は一人満足げに呟くのであった。

 

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