第二十六話 神喰らい


 はじめに言葉があった。


「賢神は言う。天は人の上に人を造らず、……しかしてそれは命を縛りつけるための枷ではない」


 それはある種の儀式であり、祝詞。

 昂る気迫が身体のうちに刻まれた原初の記憶を呼び覚ます。


「ゆえに我は我を縛りつける者を滅ぼそう。命とは――、混然とした輝きの内に宿る温もりの闇である」


 静かに吐き出された一つの呪詛が魂を作り替える。

 体内に残留する邪神の呪いを素に魂の格を無理やり高めて昇華させた。


「禁呪解放ッ――鬼人招来ッッッ!!」


 叫びと共に確かな一歩を人ならざる者が踏み出す。

 同時に目の前に踊り狂う触手の群れを斬り飛ばし、禍々しきその御手を捻じ伏せ、無へと還した。 


 抉り喰らう一撃が、狂気を振りまき≪穢れ≫が魂を汚染する。

 それでも俺の魂は屈しない。

 高まる存在感が厳粛な静謐さを魂に内包させ、溢れ出す力の奔流が身体に集約していく。

 

 そして視線の奥――、


 呼応するように薄く離散した呪いの源流が、一つの個となり集約された。

 高まる禍々しき呪いの波動が力の息吹に変わり、周囲を満たす闇の瘴気が徐々に憎悪の焔に焼かれていく。 


『  ゆる■■い  』


 現出した闇の産声のなかで真実の神威が牙を剥く。


 流れ出す理がこの世に存在する全ての法則を捻じ曲げた。

 胸に去来したのはまず畏れ。

 その存在する魂の重圧が、俺の魂を圧殺しにかかる。


 は獣と人が交じり合った姿をしていた。


 全長は変わらない。けれど上半身裸の女は、地面におろした黒い四肢が細くしなやかに地面を蹴りつけ、苛立ちを含んだ視線で俺を睨みつけている。


 生命の讃美と冒涜という性質の両方を兼ね備えていた御姿。

 髪の一本、細胞の一つすら人には理解できない完全なる存在。


 始点にして終点。

 個にして全、全にして個。

 無限に膨れ上がる憎悪と純愛が綯い交ぜになった狂気の渦。

 

 その神格こそマリナ=ローレリアという個体を依り代に受肉した神本来の御姿に他ならなかった。

 

『■■■■■』


 四方からなる空間が裂け、闇を凌駕する無謬むびゅうの触腕が咎人に天罰を下す。

 深淵を押しのける絶望の蠢きが太虚となって押し寄せたてきた。


「紫電一閃――ッ!!」


 筆を走らせる黒い輝きが五つ。名状しがたき闇を喰らい尽くす。

 斬り飛ばされた残骸が塵と消え、直後――おれは地面を蹴った。

 炸裂音と共に視界が一瞬で景色を変えた。


 頬を殴りつける風圧が心地いい。


 天翔。


 人外の域まで昇華させた身体は、一瞬で邪神の前に躍り出た。


 振りかぶる黒曜の一閃。

 被さるように蠢く黒髪が明らかな拒絶を示してみせた。


 返す刀で黒曜を振り上げれば、呪われた地面から身の丈はあるほど太く濃縮された呪いの剣が呼応する。

 

 衝突があった。


 空間が捲れ、地面に亀裂が入る。

 両者の邪気が周囲を震わせ、膨れ上がる呪詛の奔流が周囲を容易く黒く呑み込んでいく。

 しかしその神の一撃に≪穢れ≫と言った不純物は微塵も感じられない。

 純粋なまでの殺意。

 一個の魂を刈り取る一撃が、一合一合絡み合う。

 むしろその一撃は懐かしさすら覚える魂のやり取りだった。


 僅かに逸れた黒曜の軌道をあからさまに避けるシュブニグラス。


「邪気転化ッ!!」


 ほぼ同時に放った一撃は光の黒柱となり、互いの必殺の一撃を相殺し、破壊の余波の先。瀕死の極致に踏み込んだ一閃がシュブニグラスの頬を浅く裂いた。


 黒い鮮血が黒曜に飲み込まれ、口の中に広がる呪いが全てを物語る。

 薄い。薄すぎる。

 それ以上に、この味は――。


「戻りかけているな……」


 人間の祈り程度では巻き返せないほど汚れ切った魂。

 その呪いに満ちた魂に僅かながら神気の息吹を感じる。

 それは通常であればありえない現象だ。


 しかしそのありえない事象を、この少女の肩を借りて立ち上がるちっぽけな人間が繋いでみせた。


 意地と執念の活路。


 人間が一生を賭しても賄いきれない神気の奔流をその身に宿す。

 その自滅覚悟で取り込んだ大量の神気を受肉体に叩き込んだことで、邪神としての意識ではなく土着神としての意識が僅かに逆転したのだ。


 狂気の瞳の奥に確かな知性の色が覗える。

 だからと言って、奴が元の神格に戻ったかと言えばそれは違う。


 濃密な底知れぬ瘴気が迫り、黒曜でそれを受ける。

 拡散する邪気のぶつかり合い。

 せめぎ合うように互いの刃が拮抗し、背後から聞こえる切断音が大気を切り裂いた。


「――正気に戻ってもやることは変わらねぇってか」


 混乱する黒と黄金色の瞳が喰い合うように意識の綱を引っ張り合っている。

 それでも動く身体は、確実に俺の首を刈りに来る。


 無秩序に暴れ狂う大仰な雄たけびが大地と魂を震撼させる。

 慟哭が耳朶を震わせるのと同時に、空間の裂け目から覗く黒槍がアギトのように無数に襲来した。


 呪いの黒槍。

 

 受けるか否かそんなもんは決まっている。


 硬質な音と共に、湧き上がる激情が走り、身を震わせるほどの狂気が悉く黒槍の刃を撃ち落とす。


 その魂の鼓動全てを以て黒槍を弾くと、シュブニグラスの口から不快な音が一切ない声色が鼓膜を震わせた。


『わた、しは――』


 明らかに正気のある声色。しかし、その身体は言葉に反して残酷なまでに俺の魂を抉りだそうと断頭の刃が迫る。


『だれも、殺させない』


 渇望に蠢く確かな叫びと共に、大地が割れる。

 自分が何を口走り、何をしているのかももはやわかっていないだろう。


 邪神が一振りするだけで、自らが形成した神域が悲鳴を上げる。

 まるで自縄自縛に捕らわれた、矛盾極まりない即興劇。

 

 たとえ無自覚であっても、天災は天災であるように。

 奴が存在するだけで大地は腐り、一つ歩けば呪いと死にまみれ、息を吐けば冒涜と享楽の腐臭が大気を満ちる。

 支配であれ、管理であれ、導きであれ、シュブニグラスという存在がこの神域から外に出れば、その愛すべきものの悉くを破滅させるだろう。


 神が堕ちるとはそういうこと。

 それが、邪神になり果てるということ。


 例え人々の安寧を願い。そして慈しむ心が残っていたとしてもその本能にも似た機能は彼女を邪神本来の性質として転化させ、遺憾なくその神威を震わせる。

 命を弄ぶ、というその所業を以て神の在り方を体現する形で。


『貴方を殺して、私は……私は?』


 純粋にして無垢な死が個人に対して向けられる。

 大地が砕け、空がねじれ、命が消失する舞踏会。

 その悉くことごと純真な感情を素直にぶつけてくる神の剣戟に、思わず苦笑を漏らしそうになってしまった。


 それは迷子の子供が自分がどこに立っているのかもわからないのと同じ表情だ。


 混濁する意識のなか、彼女は願う。

 魂の救済を。人々の安寧を。

 しかし彼女はもう

 だからこそ――、


「その願いどおり、俺が喰らってやる。その宿業の全てを」 


 絶望蠢く世界の中で、俺は喜びと共に言葉を紡いで見せた。

 殺すことに躊躇いはない。


 人が宇宙の広さを推し量れないように。こいつもまた俺たちが存在する世界において三つ上の領域に住まう化物だ。

 真に神が人を理解できないように。また人も神を理解することはできない。


 明確な殺意をぶつけてやれば、それだけで応えるように存在力の重圧が俺の魂を締め付け、圧殺しにかかる。

 人外の領域に踏み込んでもまだ足りない。

 空気が張り詰め、息苦しさを覚える。

 干上がる血流が救いを求めて喘ぎ、筋肉が恐れ戦きで硬直し始める。


 生存の放棄を思わせるほど莫大な存在力。

 それでも希望は初めから俺たちに


「望み通り解放してやるよ、その宿業から」


 そのための神域。そのための供物。


 シュブニグラスがこの局面で神域を形成した意味は二つある。

 一つは、効率よく神域内に存在する魂を喰らい、回収するため。

 そしてもう一つは、崩れかけた邪気の補充。つまり神としての存在を固定するための楔を打ったことに他ならない。


 そしてそれは本来、邪神としてのシュブニグラスが行使するつもりのなかった奥の手だ。

 それを使わせたこと自体に意味がある。


 そもそもがおかしかったのだ。

 マリナが邪神の前に現れたその大きな違和感。


 意思をも持たぬ神の片割れは、マリナが持つ神霊シュブニグラスの魂と神核の残滓を追って村に降りていたのだ。

 あの守り神を敬愛し、最後まで慕っていたマリナがわざわざ守り神を見殺しにするあの瞬間に顔を出すはずがない。


 その身に神の魂を宿していた少女が、どうしてわざわざあのタイミングで暴れ狂う半身の前に現れる必要があったのか。

 その結論を俺はあくまで推察することしかできない。

 

 しかし、一つだけはっきりしたことがある。


 『彼女』は死にに来たのだ。


 その命を以てこの無意味な争いを終結させるために。


「……ったく、女にそこまでやられて応えなきゃ、そいつは男じゃねぇな」


 ならばその『覚悟』に見合うだけのことをしてみせなければつまらない。

 だから、そのどうにもお人よしすぎる馬鹿な神のなれはてに―― 


「限界の先を魅せてやろうッ!!」


 加速する剣戟と共に、口上が滑らかな口火を切った。

 輝きを増す命の灯火を前に、最大最上の礼節を以て祝詞を唱える。


「我が怒りを知れ、我が慟哭を聞け、あまねく命の怨嗟が我が魂を燃やし尽くす」


 それは俺自身が課した宿業に対する宣誓。

 そうあらかし、と自分自身に刻み込んだ一つの在り方。


 口ずさむ祈りに穢れはなく、大いなる魂が徐々に剥がれ落ちていく。

 加速する剣戟が形を変え、打ち振るう神威と重なり合う。


「六度廻る生に安寧はなく、全ての存在はことごとく汝を恐れる。しかして我が願いは一つの領域に到達する」

 

 全ての常識、非常識を捻じ伏せ先に到達した自我の発露。

 幾千、幾万の不条理、絶望がその身を焦がそうとも、その悉くを撥ね退ける凶災としてのあると誓った己に課した魂の呪詛。


「我は禁忌に手を伸ばす。受け入れるは破滅。天上の意志を喰らい尽くす一対の牙であればいい」


 身にまとう八岐大蛇が大きなうねりを上げた。

 引き裂かれたはずの鱗は魂の鼓動に従って広がりを見せ、形を変える。


 神々しくも禍々しい黒金の神衣へと。


「縁を断ち切れ。友を裏切り、その魂を血で染め上げろ。それが汝の宿業と知れ」


 白い光の中に、確かな闇が高らかに産声を上げた。

 魂が純化される。

 それは天照開耶という男が到達した≪神憑りかみがかり≫に対を成すもう一つの極致。


「その悉くを犯し、禊祓みそぎはらえ。――鬼神招来ッッ!!」


 そしてここに絶対不可避の因果が成立した。

 渦巻くは存在力の奔流。


 いまここに、人の身で神の領域に踏み込んだ業の化身が顕現する。


「手向けだシュブニグラス、テメェのその罪過、願いと共に俺が喰らう」


 神に男がその神威を振りかざす。


「これで、終いだ」

『あり……が、と』


 言葉の代わりに、全てを喰らう深淵の牙を心の臓へと突き立てた。

 黒曜の内に眠る真価が解き放たれる。


≪神喰らい≫


 神を喰らい、その罪過と存在全てを取り込む究極の死が。

 

 全霊を込めた魂の刃が、神たる存在全てを支える神核と魂を喰らいつくし、咆哮を上げる。

 それはどこまでも慈悲深く、信者を想い謳った一柱の女神。その終焉の嘆きを代弁した悲しみの懺悔だった。


 巻き起こる純白の閃光が、完全に整えられた神域すら突き破り夜空の奥を焼き尽くし、満足げな声を飲み込んでいく。

 

 白く舞い散る神気の結晶が空に溶けて霧散する。


「……テメェの罪は俺が負う。あとは任せて先に逝け」


 吐き出された言葉は敬意と感謝。

 それは生前、生きていた頃には決して抱くことのなかった神に対する純粋な想いだった。

 俺の内側にこんな感情が芽生えていたことに驚くが、不思議と嫌悪感はない。

 全ての穢れを浄化でそそいだ光の残滓を見上げ、息をつく。


 どうやらあの女神は、最後まで神の責務って奴を果たして逝ったようだ。

 あまりにも真面目過ぎて、呆れを通り越して感心させられる。

 夜明けの光に零れる朝日に目を細める。


 目の前に広がるは、清浄なる命の恵みに満ちた豊穣の大地。

 荒れ果てたはずの傷跡に新たな命が芽吹き、青々とした生命の香りが鼻腔を擽る。

 呪いにまみれた穢れの大地はもはやない。

 そして、そのどこまでも広がる恵みの大地の上に一人の幼子が横たわっていた。

 

 静かに胸を上下させ、あどけない寝顔を浮かべている。

 そのどこまでも穏やかな表情を一瞥し、祝福するかのような始まりの朝日が全てを優しく包み込んだ。


 それは、かつて自身の手から多くのものが零れ落ちる宿命を受け入れた者にとって初めて迎えるハッピーエンド。


 失ったものなど、何もない。

 俺の命さえここにある。

 生まれて初めて勝ち取ったを見届け、


「ようやく戻ってきやがったか、が」


 一人確かめるように右手を一瞥し、小さく笑みを浮かべた。

 その手には黒い木刀が握られていた。

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