第二十四話 『活路』の光

 幾本もの深々と突き立てられた黒槍が、内臓を呪いで満たす。

 喉元からせりあがる黒い血液が、抱え込んだ腕の中で喧しい女の悲鳴が漏れた。


「――どうして荒神さんが!?」 

「いいから、今は黙れ」


 歯を食いしばり邪神を見据え、崩れかけた膝に活を入れ大地を蹴る。

 邪神が何かを口走ったのはほぼ同時だった。


 天上から射出される数百はくだらない黒槍が降り注ぐ。

 邪神の天罰は一切の情け容赦なく俺の身体に穴をあけていった。血で視界がにじみ、足りない血液を補うように悪寒で体が震える。

 それでも意識の糸だけは断ち切らせない。朦朧とする感覚のなか直感と本能だけで黒曜を打ち振るい、小脇に抱えたヤエを守り抜いた。


 そのままヤエを抱えて十分な距離を取ったのち、抱えた荷物を放りなげた。

 悲鳴が上がる。そして訪れる一瞬の安堵。


 その僅かな緊張の緩みがギリギリ保っていた意識の糸を断ち切る音が聞こえた。


 膝から崩れ落ちる身体。迫りくる黒い地面が眼前に広がり、けれども倒れることを拒絶した四肢が黒曜を地面に突き立てた。

 縫い留められた身体が寒さに震え、定まらない焦点が紅く濡らす黒い地面を凝視する。

 命の源泉が、流れ出ていくのを止められない。

 どうやら指一本動かせそうにない。


 おそらく呪いが魂の奥深くまで根付いた証拠だ。


 生前の汚染されきった魂であればまだ救いようはあったが、では耐えきれない質の呪いらしい。

 吐き出される血液と共に乾いた笑みがこぼれた。


「ははっ、久しぶりの、――感覚、だな。こりゃ」


 死が、近づいている。

 徐々に弱まっていく心臓。

 汚染する悲鳴と冒涜の怨嗟が脳を揺らし、ありもしない幻聴が鼓膜を震わせる。

 すると、耳元でつんざくようなヤエの叫びが鼓膜に響いた。


「どうして、どうしてわたしなんか助けたんですか!! あの場面ならわたしを切り捨てて彼女にとどめを刺したほうが有効だったのに」


 責め立てる言葉の数々が、脳の中を上滑りしていく。

 言葉の調子から助けたことへの文句を言っているのだろう。

 だが今の俺の身体は、単語の意味を理解できてもその文脈までは完全に理解できないほど壊れかけてしまった。

 

 魂に響く喧騒が何とか意識を現実に引き留め、痛む喉を震わせ、絶え絶えに言葉を落とした。


「荒神さん!!」

「う、るせぇ、耳元で、騒ぐな。……テメェが死んだらあのクソ神の思い通りになっちまうだろうが」

「でもっ!! それでも荒神さんがわたしなんかのために犠牲になる必要なんてどこにも――」

「ああ、ねぇだろうな」

 

 食い下がる悲鳴を遮り一言、掠れた言葉が虚空に溶ける。

 揺らぐ視界が徐々に暗転し、喀血かっけつした血液が喉に絡む。


 苦痛で気道が干上がり、それでも懸命に大きく息を吸い、自分のためとかヒロインチックな思考に浸る馬鹿をせせら笑った。


「うぬぼれんな。ことこの局面においてテメェの役割は、重要だと、判断しただけだ。……


 そう言い終えた途端、むせ返るほどの死臭が蒸気に変わり俺の身体をグズグズに溶かしにかかる。

 時間か。まったく柄に合わねぇことをしたツケがここで回ってきたか。


「もう――、終いか」

「――ッ!? しゃべらないでください。す、すぐに治療しますから。こんなところで、倒れるような貴方じゃないって、わ――わたし、知ってるんですから」


 息を呑む音が聞こえ、震えた声が鼓膜を震わせる。

 なんだよその下らねぇ信頼は。テメェは俺の何を知ってんだ。


 しかし口を開こうにももはや言葉は出ない。


 震えた声が徐々に遠くなる。

 光も声も俺の世界から消えていく。

 もう、何も聞こえない。


 視界は完全に黒く染まり、聴覚から順に視覚、味覚、痛覚と身体の機能が停止していくのがわかる。

 そして、完全なる『死』が顔を出した。


 孤独に苛まれた闇の中、クスクス笑う女の声だけがはっきりと脳裏に響いた。

 聞き覚えのある声。

 これはあの邪神のものか。

 

 失われたはずの視界に一人の裸形の女が佇んでいた。

 『それ』は全てを向かい入れるように柔らかな笑みを浮かべ、両手を広げて立っていた。

 黒いドレスのように蠢く髪と初雪の如く白く咲く素肌。胸の中覆うには黒ずんだ心臓が何度も脈打ち、黒い血液を体内に循環させている。

 存在そのものを塗りつぶす存在力。

 深淵の奥を覗く黄金色の瞳がまっすぐ俺に向けられる。


 その全ての存在が俺に言い知れぬ欲望を掻き立てた。


 ――そっちへ行きたい、と。


 差し伸べられた右手に無意識に手を伸ばす。

 それは死へと誘う呪いにまみれた本能の呪縛だ。


 そう理解してはずなのだが、麻痺した思考は俺の意志に反して手を伸ばさずにはいられない衝動に駆られていた。

 それは、幼子が母を求めて手を伸ばすような純粋な欲求だった。


 生命の回帰を思わせる、冒涜の安らぎ。


 苦しみも悲しみも全てを委ねたいという感情が胸の内側から溢れ出た。

 あでやかで冷たく澄んだ声が魂を震わせる。


『こっちへ、いらっしゃい』


 邪神の声を初めて聴いた。

 ≪呪い≫の影響で魂が深く結びかかっているのか、魂に直接訴えかける言葉が耳元で囁かれるようにはっきりと聞こえる。


 それは全てを導く神の言葉となって、魂に染み渡った。

 

『もう、あなたは苦しむ必要はないの。さぁ、この子たちと一緒に生きましょう』


 見知った少女たちの姿が淡い輪郭を保って現れる。

 それは互いに身体を抱き合い、揺りかごに揺られるように確かに存在していた。


 マリナとルーナ。助けられなかった魂が、そこにはあった。


 俺は――、休んでいいのか?

 不意に胸の内側に落ちた疑問が、思考を絡めとる。

 差し伸べられた華奢な右手に温かい闇が満ちる。 


 それは終焉を内包した永遠の安らぎ。

 安息と充足を約束した楽園の誘い。


 俺の右手は徐々に女の温もりに惹かれ、


 そして――。

 しかし――。

 だからこそ――、伸ばしかけた右手が不意に止まった。


「……俺もずいぶんと焼きが回ったもんだな。安らぎを求めてこんな子供だましに惹かれるなんてよ」


 驚きに目を見開く邪神。

 その黄金色の瞳の奥に、初めて動揺の色が見えた。


『どうして――?』


 まるで理解できないと言いたげな口調が闇を震わせる。

 それでも、魂がつながった今なら奴の内側に宿る感情はっきりとわかる。


 怒りではなく哀れみ。


 死をもって救いとなす。

 それは邪神になり果てても、信徒を救うという『彼女』が持つ純粋な願いだった。

 

 だからこそ、その安らかな終わりは

 それが答えだ。


『わたしの手を拒んで、またその宿命に身を焦がして苦しむというの? それがあなたの救いなの?』

「ああ、テメェみたいな神には理解できねぇだろうが、それが俺の選んだ生き方だ。今も昔もこれだけは変えられねぇ」


 そこで、言葉を区切り後ろを振り返る。

 誰かが俺の背中を触れたような気がした。


「……それに、こんなところまで迎えに来た正真正銘のバカがいるしな」

『――っ!?』


 途端、いままで感じたことのない温もりが魂を満たし、全ての闇が遠ざかる。

 

 邪神の姿が掻き消え、思考がはっきりしていった。


 震える指先が背中を這い、温かく柔らかな光が落とされる。

 痛みはもはや感じない。感覚は全て呪いに奪われたはずだ。


 それなのに遠く唸る泣き声が、俺に五感を取り戻しにかかる。

 喧しく、それでいて駄々をこねるように。

 全てを否定する柔らかい光が、死を巻き返すように熱く脈打った。


 腐敗して崩れていく身体。それでも運命に抗う『人間』の叫びが魂を燃え上がらせた。


『――まだ何も始まってない。わたしを、一人にしないでッ!!』


 ――バクンッ、と朽ちたはずの心臓が動き出す。


 死と再生のエンドレス。

 

 徐々に指先から冷たくなっていく死臭が身体中から立ちこめる。

 血が零れ、内臓が腐り落ち、それでも骨を再構成させ、内臓をもとの状態まで回帰させる。

 死神の手を振り払う温かい雫が背中に落ちた。

 視界に光が戻る。そしてその隣には――、


 ぐしゃぐしゃに崩れたヤエの顔があった。


「……んだよ。泣いてんのかよ」

「泣いてまぜん!!」


 水気の混じった叫びが鼓膜を叩く。

 それでも目尻から流れる涙は止まらない。肩を震わせらえるように唇を引き結んでいた。

 その健気な姿に、無常にも微かに笑いが漏れた。


「ぶっさいくだなおい」

「誰のぜいだと思っでるんでずが、誰のッ!!」

「ふっ、誰が助けてくれって言ったよ。――だが、助かった」

「――ふぇ?」


 頭に手を乗せてやれば、驚きに目を見開くヤエ。

 しかしこいつはそれだけのことをして見せた。礼の一つくらい言えない恩知らずになった覚えはない。

 それに――、


「なんとか活路が見えてきたところだ」


 正面を見据えれば、黄金色の瞳が憐れむように俺を見据える。

 救えなかった者を見つめる神の瞳。

 そしてそれは今だ諦めることを知らずに、強い輝きを持っていた。


「(堕ちてなおその願いは変わらず、か。うちのクソ神にも見習わせたいくらいの純粋さだな)」


 立ち上がり黒曜を構える。

 活力のなかった身体はある程度力を取り戻し、

 空間を弄れるのなら距離を取っても関係ない。


 死の淵を彷徨うなか見出した活路に全てを賭ける。


「……ここが踏ん張りどころだな。俺から離れるなよ」

「はいっ!!」


 鼻腔をくすぐる気色悪い匂いに眉根を寄せ、二人同時に飛び出した。


 右手を落としたことで血の門は消え失せたが、それでも邪神の顔色は変わらない。

 堕ちたはずの右手が、液状の黒血に引きずられて宙に浮き、独りでにぴったりと接合する。


『顕現。黒き仔山羊の晩餐会』


 魂にこびりついた呪いの一端が、邪神の言葉を理解させる。

 途端、周囲に赤黒い魔方陣が現れ、十体の黒き触手を振り乱す山羊が鋭い牙を用いて襲い掛かってきた。


 その一体一体が邪悪な呪いの塊だが、邪神単体ほどの存在力はない。

 獰猛な牙を砕き、潰し、一体一体を呪いに還す。


 ダンスを踊るように優雅に舞う黒き女神。

 その接合したばかりの右手首から先が唐突に消えた。


「――どけッ!!」

「きゃッ」 

 

 空間がねじ曲がり、爛れた手のひらが俺の喉を掴み上げる。

 新しく顕現させた神殺しを振るおうとするヤエを片手で制する。


「これで、いい」


 それだけはっきりと口にすると、爛れた指先が軌道を圧迫しにかかる。

 両足は宙に浮き、掠れた音が口から洩れた。


「かっ――!?」


 宙吊りにされ、ギリギリと骨が軋む音が聞こえる。

 すると、空間から伸びた腕が裂け、口のようなものが現れた。


『これでおわり?』


 それは俺のあがきを嘲笑うかのように挑発気味に吐き出される。

 あれだけ啖呵切ったんだ。

 この程度で終わっちゃ憤死ものの黒歴史になっちまう。


「ああ、そうだな。……ようやく、これで終いだ」


 はっきりと勝利を口にし、俺の両手が邪神の右腕を掴みあげる。

 その瞬間、刺青のように腕に巻き付く黒い『封帯』が邪神の動きを拘束した。


 邪気転化を利用した神性拘束具。

 結界呪、天津甕星あまつみかぼし


 神殺しと同時期に生み出された、悪神を封じ込めるための術式。


『まさか、最初から――』


 そう初めの戦闘から俺の役割は決まっていた。

 障壁に阻まれているのなら、こちらから触れて貰うまで。

 そして、その決死の捨て身は全てこの時のための下準備に過ぎない。


「――これで満足か、クソメガネ」

「ああっ!! その高潔な魂と覚悟に感謝するアラガミ=ユウヤッ!!」


 一人の男の一撃が白い光の奔流となって、召喚された全ての黒山羊を一振りで薙ぎ払った。


 ヘルガ=レイブンクロー。


 その聖別礼装に宿る白い神気の一撃が、夜を明るい夜明けに変えてみせた。

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