第二十三話 黒血の舞踏会
『■■◆■■■』
「黒血の……舞踏会だと?」
「まさか――、魔術ッッッ!?」
吐き出される不協和音が、瞬時に冒涜的な情報を脳へと叩き込む。
薄く血膜の張った大小さまざまなシャボン玉。
一見すれば児戯のようなふざけた形状だが、その存在力は並の人間が一目見れば魂が圧殺されるほどの脅威を持っている。
現に俺の身体は、心臓から送り出された二種類の本能でごちゃ混ぜになっていた。
神性存在への畏怖と純粋な闘争への胸の高鳴り。
「どいつもこいつも狂ってんな、――ったくよ」
あのシャボンにどのような能力が付与されているのかは定かではないが、読み合いなんざ退屈でやってられねぇ。
先制攻撃あるのみ。
神々の恐ろしさなら誰よりも知っている。状況が整う前にこちらから手を出さねば取り返しのつかない場合が多々ある。
黒曜を握りしめその場を飛び出す。
『■■に、■■■?』
爛れた両手を広げ迎え入れるかのように唇の両端が吊り上がる。
命脈する血だまりが大きく鼓動し、死の沼地から泥を溶かしたような赤黒い半透明なシャボンが浮かび上がった。
邪神の手で形作られた呪いの宝珠は、風に揺蕩うたび不定形に形を変え、不気味な存在感を放つ。
その一つ一つを弄ぶように邪神の指先が動き、重力を無視したシャボンの軍勢が一斉に襲い掛かった。
「チッ、メンドクセェ。まとめて吹っ飛ばして――ッ!?」
全てを叩き割ろうと黒曜を身構えた瞬間、死の影が大音量で警鐘を鳴らす。
これ触れてはいけない。
黒槍とは比べ物にならないほどの匂いをかぎ分け、咄嗟に叫ぶ。
「避けろッ!!」
「――ッ、」
寸でのところで動きを止め、すぐさま回避に移る。
本能の赴くまま飛び退れば、割れたシャボンの群れが空間をえぐり取った。
「――なっ!?」
「うそでしょッ!?」
連なるように球体の黒い虫食いが、本来見えるはずの向こう側を拒絶している。
まるで歯抜けのように黒く奥ゆきのない空間。
その奇妙な黒穴は、すぐに色素を取り戻すように修正された。
「(世界の自浄作用すら働くほどの威力だとッ!?)」
世界の知識をまだ十分に理解していない俺であっても、一目見ただけでそうであると確信させられるほど強烈な現象。
脳に直接叩き込まれる真実が、シャボンの脅威を物語る。
ヤエも本能でシャボンの危険性を察知しているのか避けることはあっても、弾くことはしない。
もし触れれば腕一本飲まれるどころじゃすまないだろう。
一つ破裂するごとに世界は綻び、修正を繰り返す世界の修正力は確実に俺とヤエの存在を消しにかかっていた。
纏まればただの的になる。
そう判断し、死線を交わすと頷きが返ってきた。
言葉も交わさず左右に分かれる。
これで連携は難しくなるが、いざとなればヤエの方からステータスの通信機能が入るはずだ。例え一歩通行の会話であってもないよりかは幾分もマシだ。
とにかく今は回避に専念する。
別れたことで邪神の意識が割かれ、追いすがるシャボンの量も少なくなった。
それでも一つ割れるごとに連鎖反応を起こし、点であるはずのシャボンが面の攻撃となって俺の目から景色を奪い去る。
歯抜けの黒の景色が次に続くシャボンの軌道を完全に隠し、死角の隙間から現れる新たなシャボンが左右から殺到する。
「味な真似しやがって」
後方に跳びその身を翻せば、空気を蹴り上げうず高く飛び上がる。
天翔。
邪気で作った足場を用いて夜空を蹴り、上空から一気に距離を詰める。
目標を見失っていた黄金色の瞳と視線がかち合う。
全てがお遊戯であるかのように雑な指捌きが、新たに生まれた死の宝珠をシャボンに変えて打ち出された。
まるでガキの演奏会だ。
風をかき分け身をひねり、雷の如く宙を蹴り飛ばす。そうして純粋なまでにまっすぐ飛んでくるシャボンを全て躱し、黒曜をうならせた。
「邪気転化ッ!!」
刀身に邪気を纏わせ、重力と膂力を加えたベクトルをそのまま頭上で振りかぶり、
「――があッ!?」
背後から伸びた黒槍が腹部を割いた。
内臓が爛れる感覚と共に、魂がぐちゃぐちゃにかき乱される。
咄嗟に軌道を修正し、横に飛び退くと黒曜の柄を腹部から生えた黒槍に叩き込んだ。
「があ、ああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
霧散する呪いの槍が体内を汚染し、脳神経を焼き切りにかかる。
一瞬、天翔を制御しきれない身体が、そのまま地面に叩きつけられ、ボトボトと粘着質のある体液が地面に零れた。
瞼の裏がチリチリと明滅し、思考が散漫になる。
それでも闘志だけが俺を動かし、膝立ちになって現状を把握する。
「……なる、ほど。≪術式≫を併用できるってわけか。シャボンだけでなく黒槍まで精製できるたぁ厄介だな」
鋭利な黒槍から錆ついたノコギリ。ヌイグルミなんてのもありやがる。
邪神の手で創造した異界の門から溢れ出す血だまりは、さしずめ奴のおもちゃ箱というわけだ。
まるで手のひらに転がる虫をいたぶり弄ぶ子供のように、実に厭らしく純粋な解剖道具が、手負いの実験動物を解体しにかかる。
クスクスと音を口の隙間から漏らし、楽しそうに笑う裸形の女。
そんなに楽しいかよ。
そりゃ趣味が合いそうだ。
「だがな――」
黒曜を握りしめ、足裏に力を込め一気に前進する。
射出される呪具の全てを躱し、薄く纏わせた邪気で黒曜を覆い迫りくるシャボンに合わせて黒曜を振るった。
「――いつまでも遊ばれてたまるか!!」
ここで初めて邪神の顔色に変化が生まれた。
割れるはずのシャボンが黒曜に触れても弾けず、後方に流れては時間差で破裂し、空間をえぐり取った。
だが、なにも驚くようなことじゃねぇ。
血のシャボンに触れる瞬間。刀身に纏わせた邪気をシャボンと同質の呪いに変化させ受け流す――ただこれだけだ。
水にぬれた手で泡に触れれば割れないのと同じ理屈。
一瞬でも呪いの性質を見誤れば、腕ごともっていかれる荒業だがやってやれないことはない。
なにしろ――、
「さんざん中身のねぇ呪いに付き合わされたからな、このくらいわけねぇよッ!!」
『■■っ、■■■■■』
興奮気味に愉悦に富んだ笑い声と共に伸ばされる華奢な右手。
凝縮した呪いの五指が俺の喉元に伸ばされ、
その手首から先が唐突に分離した。
『■■?』
「あれ?」とでも言いたげな表情で首をかしげる邪神。
その黄金色の瞳が斜め下に向けられる。
そこには神殺しを握ったヤエが隙を見て、≪神気一転≫を放ち終えた後だった。
「マリナちゃんの身体を傷つけるのは忍びないですけど、それでも――」
「――獲ったッ!!」
返す刀で振り上げる神気を帯びた神殺しと邪気を纏わせた黒曜が交差する。
重なり合う白と黒。
その閃光は黒く拍動する心臓に差し迫り、邪神の淀みない呪詛が鼓膜に流し込まれた。
『■■■■■』
衝撃と雷鳴が同時に鳴り響く。
そして放たれた赤黒い血の障壁が二人の身体を押しのけた。
「――クッソ」
拮抗する二つの刃。振り抜こうにも空中では踏ん張りが利かない。
途端、障壁の一部が不格好に歪み、突き出された硬い衝撃が内臓を通り越して骨まで浸透した。
「――がぁっ!?」
出血した腹部に追い打ちをかけるように内臓を焼いた痛みと浮遊感が身体を襲う。
吹き飛ばされる身体が地面に激突し、土ぼこりを巻き上げる。
何度もバウンドする身体。背中を打つ衝撃と共に身をひねって体制を入れ替え、黒曜を地面に突き立てて勢いを殺しきった。
「小癪な真似を……・」
気道からせりあがる血液を言葉と一緒に地面に吐き捨る。
あいつ、頭を潰せるタイミングであえて負傷した腹部を抉ってきた。
目的は至って明快。
俺の苦しみ悶える姿を観察するためだ。
「いい趣味してるぜクソ野郎」
呼吸を荒立て裸形の女を睨めば、浮かぶ嗜虐の笑みがより一層深くなる。
右手を切り落とした影響か血の門は消え失せたが、再度同じものを発動させる気配はない。
おそらく舞台が整ったという事だろう。
勝算はいくつだ。
勝ち筋はどこにある。
グルグルと回る思考が足りない血液をフル稼働させ、貧血にも似ためまえが脳を襲う。止血は施したが、万全とは言い難い。
強すぎる呪いの影響で、徐々に熱を持ち軋みはじめる身体。
それでも俺は逃げるような無様は晒せない。
杖を突くように黒曜に身体を預け立ち上がる。
慌てて駆け寄るヤエが、俺の現状を見て口を塞ぎ小さなうめき声が上がった。
「荒神さん無茶です!! その傷じゃ五分も持ちません。ここはいったん引いて態勢を――」
「うるせぇ。どうせどこにいたって逃げられやしねぇんだ、グダグダ言ってねぇで手を離せ。俺は逃げねぇって決めてんだ、……どんな運命からもな」
「それでもわかってます。でもこのままじゃ貴方の命が、――荒神さんッ!!」
背後からなるヤエの言葉を無視し、放たれた黒槍の調子を外す形で間を空けて、一気に肉薄した。
彼我の距離は約一メートル。
一歩踏み込めば会心の一撃を叩き出せる必殺の間合い。
障壁ごと心臓を叩き切る。
たかだか俺の命がなんだ。クソ女神に偶然拾われただけのそんな蛇足の人生だ。
この戦いで死んだとしても思い残すことなどはなから何もない。
「邪気転化ッッ!!」
魂を燃やす咆哮と共に邪気を纏わせた黒曜を何度も打ち振るう。
それでも、障壁が邪魔で黒曜の刃が邪神に届くことはなかった。
バシッ! と雷鳴の音が弾けるたびに俺の身体は僅かに仰け反り、赤黒い燐光が黒曜を明後日の方向に弾き飛ばした。
「まずっ――」
背筋が凍りつき、筋肉が強張る。
勢いに身体が流され、たたらを踏む。
その一瞬の隙をついて空間から漏れ出た無数の魔素の匂いを感知した。
完全に刺さる絶妙なタイミングだ。迎撃も回避も間に合わない。
小さく舌打ち、覚悟を決める。
まともに喰らっても、内臓が溶けて腐り落ちる程度だ。
その程度であればまだやれる。
思考をまとめ終え、刀身に込めた邪気を素早く身体に循環させようと黒曜を固く握り締めたところで、
硬質な破壊音が鼓膜に響き渡った。
「――おまっ!?」
背後から引っ張られた。
そう理解した頃には目の前でいくつもの火花が飛び散り、見慣れた小さな背中が眼前に広がった。
無防備に晒される背中。しかし右手に握られた神殺しは根元から折れ、弾き損ねた槍の破片がヤエの頬を浅く裂く。
『■■■■■?』
矢継ぎ早に動く唇と瞳が正確に俺からヤエに移り変わる。
武器を失ったヤエに邪神の一撃を防げる手立てはなにもない。
例え天恵を使ったとしても間に合わないだろう。
それだけ僅かなインターバル。
避けろッ!!
と、咄嗟に開きかけた言葉は、邪神の前で満足げに笑みを浮かべる表情によって封殺された。
その笑みには覚えがあった。
『とある儀式』で生贄になることを許容したクソガキと同じ類の笑み。
自己犠牲。希望。喜び。そして寂しさ。
背後でねじ曲がる空間から、一つまともに突き刺されば絶命は免れない死の黒槍が出現する。
照準は定められた。あとは引き金を引くだけで目の前の命がたやすく消し飛ぶ。
いまから黒曜に邪気を纏ってもヤエを守り切れる確率は限りなく低い。逆に余計な手傷を負う可能性の方がはるかに高い。
助からないという結果が弾き出され、見捨てた方がはるかに懸命だと心が叫ぶ。
それに変態女ごと心臓を抉ってしまえば全てが片付く可能性のほうが高い。
少なくとも失敗しても俺が死ぬことはない。
身代わりとなった女はその結果を笑って受け入れるだろう。
『荒神さんのお役に立てるなら本望です』
そんなくだらない妄言を残して。
「ざまぁねぇな、おい」
その一瞬の雑念が生死を分けた。
開きかけた小さな唇が何かの言葉を紡ぐ前に、黒い刃がヤエの身体をズタズタに引き裂きにかかる。
高速に打ち出される黒槍。
パシュッと、空気と皮袋の液体がはじける音があった。
それは一度ではとどまらず、パタタ、パッタタと連続して地面から鳴り響いた。
悲鳴と共に真っ赤な血飛沫が大地を汚した。
馬鹿な女だ。俺の身代わりになって死にやがった。
胸の内側で吐き捨て、咽かえる血臭が肺を満たす。
凄惨たる死のオブジェ。
しかし合理的な思考とは裏腹に俺の身体は温かく柔らかい魂を胸に抱えていた。
腕の隙間から震えた声が零れる。
「どう、して」
その細い指先が背中に深々と突き立てられた杭に触れる。
大地を汚す血潮。
それは死を受け入れた少女の身体から流れたものではなく、たった一つを切り捨てられなかった愚者から溢れ出た生命の源だった。
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