第十六話 不倶戴天


「あ、荒神さん!!」

「黙ってろ、舌噛むぞ」

「へ? ――きゃっ!?」


 途端、漆黒の鞭が幾重にも分かれて地面に落ちた。

 樹木並みに太い触手が音速並みに振るわれれば余波だけで凶器になり得る。


 空気を叩く真空の刃が皮膚を割く。鮮血が頬を切り裂き、たて続けに紐解ける漆黒の糸が暴れ狂う突風のように手を伸ばした。

 

 夜に飲まれる。


 しかしその死の指先が目標を触れることはない。

 その致命傷になりうる全てを正確に見切り、躱し、後退する。


 距離にして二十メートル。

 まだまだ触手の範囲内だがこれだけ離れれば巻き込まれることはないはずだ。


「……うっし、こんだけ離れりゃ十分だろう。時間稼ぎご苦労だったな……って、何やってやがる」

「むりぃいいいいいい!?」


 横抱きに抱えたヤエと視線が合えば、腕の中のヤエが突然、慌てて狼狽えだした。

 エルマを腹の上に乗せているので自由に動けない状態だが、神殺しを握った状態で腕を振り回すのはマジでやめろ。


 こっちは両腕ふさがってんだ。

 んな危ねぇもん振り回されても対処できる自信はねぇ。


 そう言ってため息を吐き出してやれば、視線を外して、顔を真っ赤にして、遂には顔を伏せる始末だ。

 

「うーっ!! うーッ!? うーッッ!? あーもー降ろして降ろして降ろしてください。無理無理無理、許容量超えちゃう超えちゃうから!! こんなご褒美貰えるなんて思ってなかったから心の準備がッッッ!!」


 早口で捲し立てるように叫び、変態の暴走はまだ続く。


「こんな堕肉に触れないでいますぐ捨ててください恥ずかしい!! 近すぎて逝っちゃいますって、後生ですから降ろしてください後生ですから――!?」

「さんざん変態行為に勤しんできたくせになにいまさらいっちょまえに恥ずかしがってんだよ」

「それとこれとは話が別なんです。顔近くてマジで見れない。お願い、おろして」


 か細く腕の中で漏れる声に、もう一度大きく息をつく。

 つくづくオタクってのはわからねぇ。

 だが、このまま降ろすわけにもいかない。


「エルマ、生きてるか」


 かすかに息づかいは聞こえてくるが、それでも致命傷寸前の大怪我には違いない。

 腕に滴る他人の生命が腕の中から失われようとしている。

 その事実を考えただけで、の姿が被り胸糞悪くなる。


 瞼が微かに動き、ぎりぎり原形を保った指先が微かに動く。

 疲れ切った青白い声が、絶え絶えにヤエの腕の中から聞こえてきた。


「にゃ、へへ、しくじ、っちゃった」

「……十分だ。邪神相手によくやった」

「あ、れ? ボ、ボクの、心配をッ――、してくれる、のかい」

「俺がそんな奴に見えんのか。部下を勝手に見殺しにしてあの堅物メガネに斬られたくねぇだけだ。……どのくらい持つ」

「そんな、顔しなくても大丈夫――。ボクは、これでも獣人だから、ね。こんなケガすぐに――」


 言いかけた言葉が途切れた。


「えっ!? ちょ、エルマさん大丈夫ですか!!」

「騒ぐな。どうせステータス同期してんならわかんだろ。まだ死んじゃいねぇよ。ただ気絶しただけだ」


 黙ってエルマの言葉を聞いていたヤエが慌てて声を上げるが、俺は小さく胸の中で胸を撫でおろした。

 あれだけの致命傷を胸部に受けたのだ。本来なら死んでいなければおかしい傷だ。

 

 それでも彼女が現在生きているのは、薄っすらだが傷口からあふれる血管を血の膜が止めに掛かっているからだ。

 これが天恵のおかげか、それともエルマの生に対する執念なのかはわからない。

 

 ハッキリ言えることは、それほどまでに生に執着する何かがあるのだろう。

 いままでよく気絶せずに意識を保っていたものだ。


「……降ろすぞ」

「は、はひ!!」


 幸いにも五体満足だが所々の欠損が激しい。柔らかい肉がえぐり取られているように歯型がくっきりと刻まれている。

 おそらく長く苦しむ姿を眺めて遊んでいたのだろう。

 触手に齧られたにしては一口がやけに小さい。


「いい趣味してやがるぜクソヤロー」


 全身を刺すような殺気の塊が全方位を囲う。

 殺意の織り成す万華鏡が、独立した感情を覗かせ牙を剥いてきた。


「だからどぉーした」


 狂気に彩られた感情が静かに灯り、振り向きざまに黒曜を振るう。 


 洗練された質量の衝突。

 瞬間、取り囲うように牙を剥いた全ての触手が不自然に爆ぜた。

 血肉を食み、顎を砕く無慈悲な一閃が邪神の魂を直接捉える。


「唖ッ! 唖ッ!! 亞AAaaAA嗚呼AAAaaA唖亞ああああ嗚呼アア嗚あ唖亞ああ嗚呼ア亞アあAAAアア亜AAァAA唖嗚呼アア嗚呼AあA嗚呼aaあああああッッ!?」


 仰け反り震える邪神の苦痛。

 黒山羊の口からいままでとは比べ物にはならない、苦悶に満ちたが天に轟いた。


 深紅に燃える眼球が俺を捕らえた。

 それだけで並々ならない警戒心をむき出しにする邪神は、幾重に分かれた触手の牙をむき出しにして涎を滴らせた。

 

「亞あ亜亜アアア唖亜亜アああAあああ嗚阿呼あああ嗚A呼アあああ亜あッ!!」

「――おせぇ」


 返す刀で黒曜を振るい、打ち下ろし、逆袈裟に黒曜の刃を振り上げる。

 質量をものともせず、全ての触手が黒曜に触れ喰いつくされた。


 空間を削り取ったように不格好な形で齧られる触手。


 まさか自分が喰われるとは思ってもみなかったのだろう。

 慌てふためくように触手を振るう邪神だが結果は同じだ。 


「よーうやく、事態が手遅れなことに気付いたか」


 口の中に、甘美に広がる甘く芳醇な苦みが舌先を震わせる。

 格下の雑魚とは比べ物にならないほど濃密な魂の味。


 その全ての≪穢れ≫が黒曜を通して、魂を汚染し、俺の糧となる。


≪鬼人招来≫


 魂を侵食する邪気を纏うのではなく吸収することで、魂の格を無理やり高めて人外の領域に足を踏み入れる禁術の一つ。

 黒曜を手にした時、神域の神を殺すため初めて犯した禁忌の一つだ。


 奇しくも、生まれて初めて使う禁忌が同じものになるとは運命を感じざる負えない。

 いや、運命ではなく――、


「あのクソ女神が関わってなきゃいいんだがな」


 転生した次の日に邪神と相対する。

 何もかもができすぎている。

 むしろあいつが関わっていてもおかしくないほどの見事なタイミングだ。

 なにせ、アニメとかいう世界で俺の生い立ちまですべて理解しているのだから。


「ヤエ、エルマの護衛を並行して治療する術はあるか」

「はいもうやってます!! 目指すは完全勝利!! 絶対に死なせません。荒神さんはどうするんでですか?」

「俺か? 決まってんだろ」


 そこで言葉を区切り、


「あいつを喰うんだよ」


 爆発があった。

 それは感情の高まりであり、全てを否定する死の黒山羊シュブニグラスが霧散し、霧となって逃亡した足音だった。


 だが――、


「逃がすと思うかぁ?」


 真下にあった聖釘を踏みつぶす。

 途端、白く輝きを保っていた神域に邪気が混ざり、全てが組み代わる。

 黒い闇が神域に弾かれるのと、闇の結界が完成するのは同時だった。


「結界術式、伏魔殿ふくまでん


 悲鳴が上がる。

 それは自分の領域を犯された怒りか、それとも恐怖に怯える感情からくる叫びか。

 何度も黒い霧が結界にぶつかるが神域を完全に掌握した俺の許可なく何人たりとも侵入、脱出はさせねぇ。


「ここはテメェの知る領域じゃねぇ」 

「ああ嗚呼アアあああ亜あ唖ああアアあ阿ああああああああああッッッ!!」

「はっ――、解せねぇって顔つきだな。……確かに俺に神域を築くような力はねぇ。だが、ここはテメェの殺した雑魚どもの怨霊で充満しているからなぁ。騎士共の埋め込んだ聖遺物と一緒に丁度いいパイプ役になってもらったぜ」


 神域の完成精度が高ければ高いほど、その神域を逆手に自分に有利な儀式場を形成する結界術。


 神殺しの儀式場。

 またの名を対神格用絶対封印術式。


 黒い帳は神格の全てを死に導くための儀式場だ。

 強い神格であればあるほど、この帳から外に出ることはできない。


「誇っていいぞ。テメェはそれだけ上等な神だったってことの証明だ。俺にこの奥の手を使わせるほどのな」


 それにせっかくの宴だ、こんな中途半端じゃつまらねぇだろ?

 瞬間、黒い霧から深紅の眼球がいくつも現れ、牙を剥く。


 逃げられないのなら、殺すまで。

 いつだって、手負いの獣が一番恐ろしい。



 黒曜の峰を肩に当て、一歩一歩と距離を縮め、肉薄する。

 すると煙に巻くような闇の渦が俺を取り込んだ。

 

 悦と快と死とが交じり合った酩酊感が身体を包む。

 視界はすべて深淵に包まれ、闇の奥の奥。深紅の眼球が嫌らしく笑った。 

 

 いまここに捕食者と被食者の関係は完全にひっくり返った。

 そう確信めいた声が身体を震わせ、霧に分かれた無数の口がすり潰さんがごとく俺の皮膚をズタズタに切り裂きに掛かる。


「無駄だ」


 たった一言。

 その一言が全ての結果を覆す。

 霧状まで霧散すれば攻撃が通らねぇとでも思ったのか。

 迫りくる鋭い刃が黒曜の牙によって断ち折れた。


 その瞬間、俺を取り囲んでいた全ての闇が液状に飛び散った。


「あいにくだが、その手は経験済みだ。――魂の識別能力。テメェの存在はきっちりコイツが捕らえて離さねぇ」

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 人間大の泥の塊から声が上がる。

 生まれ落ちた憎しみの女の、悲痛な叫びがあった。


 生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい。


 それは空気を震わせ、発声された未知の言葉。

 そんな誰もが当たり前に抱く、当たり前の望みだった。


 生まれ落ち、必要とされなかった者の嘆きの叫び。


 それでもその願いはかなうことはない。


 黒曜は打ち振るう霧状になったシュブニグラスの魂を捕らえ、三割の魂を根こそぎ喰らいつくした。

  

「あ、ああ、嗚呼嗚っ、ああアアああ嗚呼アアあああああああああああああッ!!」

「……俺がお前の死だ」


 霧散した黒霧が収束し、黒山羊の巨体が空から降りかかる。

 穢れ切った黒い毛皮を剥離させ、黒い液溜まりに膨張する異形の神は全ての深淵を覗く者を死へと導く白い牙を振り下ろされ――、


 同じく、異形の神々の天敵がその黒い牙を振るった。


「禁忌――、不倶戴天ふぐたいてんッッッ!!」


『人間』荒神裕也の中心で今一度、漆黒の閃光が瞬いた。


 直後、黒曜から放たれた一撃が朽ちた雌山羊の骸を深淵の闇へと還す。

 徐々に闇に溶け合うように形を崩すシュブニグラス。は最後まで捕食者に牙を突き立てようと迫り、そして――


 消滅した。


 黒い帳を突き破る深淵の咆哮は狂気の邪神をその空へと還し、雨雲を切り開く。

 あとに残ったのは、三人の人間の魂と完全に消失した神域の一部だけだった。

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